6 得意じゃない
わたしは暗闇のなかに手をのばしていた。
それをつかみ返すのは、誰かの手のひら。
『逃げなさい』
はっと目を見開く。
お母さん。
ここから逃げて、あなただけでも生き延びなさい。あなたは私ではなく、一人の人間なのだから。
『そんなことない。ずっと一緒よ』
そのまま外に押しやろうとする彼女の手を、わたしは拒んだ。握りかえそうとする手を、彼女は払う。
遠くなる距離のなか、彼女は呟くように言った。
――大好きよ、フィオレンティーナ。
「お母さんっ!」
わたしは弾かれるように目を見ひらいた。のばした手が宙をかいて、はたりと落ちる。つい先ほどまで見ていた母親の姿はそこにはない。
夢を見ていたのだと、わたしは思った。
見慣れない天井をぼんやりと眺めながら、わたしは柔らかく包まれるリネンの感触に再び目を閉じて――…
「えっ?」
今度こそ勢いよく飛び起きた。
全然知らない天井や壁が視界に飛びこんで、わたしは硬直した。
どこ、ここは?
みるみる青ざめたわたしは、慌ててベッドから飛び降りると窓辺へと駆け寄った。薄汚れた窓ガラスに遮られ、穏やかな朝日が差しこんでいる。
だがそこに広がるのは見知らぬ風景、地面ははるか下のほう。……もしかして、連れ戻された?
背筋に凍るような寒さを感じながら、わたしは部屋のなかを見わたした。
殺風景な部屋だった。
そこは元々暮らしていた家がすっぽり入りそうな広さだったが、樫のベッドや小さな丸テーブル以外には家具がない。そのどちらも逃亡にはあまり役に立ちそうにないと思ったわたしは、逃げ場をなくした子羊のような心境になっていた。
となると扉から逃げるしかないのだ。
自分が捕らわれていた場所はこんな場所だったかと思いながら、早鐘を打つ心臓を押さえながらわたしは白塗りのドアに手をかけた。そうした途端、ドアノブが勝手に開いたものだから驚愕する。その勢いのまま前のめりになって――
ぼふ。
わたしはなにかにぶつかった。
「……きみは、人にぶつかるのが得意なんですか」
「…………」
頭上からふってきたのは、あきれたような声だった。
◇
「べつに得意なわけじゃないわ」
気まずさから顔があげられなくなったわたしは、うつむきながら反論した。
その目の前には、昨日知り合ったばかりのヴェイドという魔術師の青年の姿。彼は丸テーブルの向こう側で、わたしを観察するように座っていた。
泣き顔を見られたわ。
わたしは昨夜のことを思い出して、さらに恥ずかしくなっていた。泣いているところを見られるなど、乙女として不覚である。し、しかも思いっきり彼に抱き着いてだ。
盗み見るように視線をあげると、青紫の瞳がこちらを見ていた。
彼はあいかわらず見た目は氷のような人だったが、さんざん泣きついてしまったせいなのか、昨日よりはいくらか冷たい印象が和らいだように思う。彼の態度は昨日と変わらず淡々としたものだったから、たぶん変わったのはわたしの方だ。
そんな彼の傍らには、湯気の立つ謎のトレイが浮いている。
……浮いている?
「う、浮いてるわっ!?」
「は?」
ぎょっとして叫んだわたしに眉をひそめたヴェイドさんは、自分の背後を振りかえった。そして何気ない所作でひょいとトレイをつかむとテーブルの上にそれを置いた。
「どうぞ」
「ど、どうぞって」
なにこれ、わたしが変みたいな雰囲気は。
なにも不思議なことはない、という顔で居られると困ってしまう。わたしはたじろぎながら、目の前に出されたトレイを見おろした。
そこには意外なことに、白いお皿に乗った温かそうなパンや、野菜のスープ、干し肉などがあった。まさかこの部屋の風貌で、こんなまともな食事が出てくるとは思わなかったのだが、それよりも。
どう見ても“作らなさそう”な人物に、わたしはおずおずと訊ねていた。
「こ、これってもしかしてヴェイドさんが作ったの?」
「まさか、僕が作るわけがないでしょう」
ああまあ、そうですよね。
愚問でしたと引き下がりつつ、やっぱりこの屋敷には使用人がいたのかと納得するわたしだった。だが、彼はわたしに衝撃の事実を告げた。
「どうやら彼らがあなたを歓迎して、独断で作ったようです」
「へ、彼ら?」
きょとんと瞬きをするわたしのもとに、わたしたちです、と主張するように宙に浮いたスプーンが着地した。……え、彼らって、彼ら?
ぽかんと固まったわたしを見て、ヴェイドさんが不思議そうに首をかしげた。
それからわかったことだが、フロディス邸はやはり非常識な屋敷だった。
わたしは椅子に座りながら、少し首をもたげて左右に視線を走らせた。右、左、右、左……。
「お嬢さん、食事中ぐらい少しは落ち着いたらどうですか?」
「そ、そんなこと言われたって」
だって、浮いてるんだもの。
わたしは茫然としながらつぶやいた。
信じられないことに、いまやわたしが目覚めた部屋のなかを食器や果物といった類が自由きままに飛びかっていた。これで落ち着いていられるほうがどうかしている。
ヴェイドさんはちらりとそれらを見あげて言った。
「見知らぬ者が居て、彼らも落ち着かないようですね」
「ええと」
どう反応したらいいのだろう。
不思議な光景のお蔭で、わたしの食事の手は然として進まなかった。
この不思議な屋敷では、もしかしたら食器類や食べ物に意思が宿っているのかもしれない。そう思うと食べる気になれなかったのだ。
そして食事を出されたのがわたしだけというのも、少なからず影響していた。ヴェイドさんは朝食は食べない主義なのか知らないが、紅茶だけを静かに数口飲んだだけだ。
「せっかくですけど、その」
遠慮がちにトレイを見おろすと、ヴェイドさんは言った。
「べつに毒が入っているわけではありません。きみは細いんだから、もっと食べなさい」
だからそういう問題じゃないんだってば。
どう言ったものかと悩んでいると、とうとう我慢できなくなったらしいヴェイドさんは、パンをちぎってわたしの口もとに押しつけた。
「どうぞ」
「…………」
ちょっとあなた、と頭のなかで盛大に突っ込みを入れる一方で、わたしは彼に子ども扱いされているのだと思い当たった。栄養不足のせいなのか、わたしは一般的な十五歳よりもいくらか背が小さかったのだ。
そしてわたしはわたしのほうで、香ばしい焼きたてのパンの香りに我慢できなくなっていた。
負けた、と敗北を感じながらわたしは突きつけられたパンの欠片にかじりついた。パンはすごく美味しかったけど、なんだか大事なものを失ったような切ない味だった。
「朝食を終えたら、一緒に昨日の場所に戻りましょう」
そ、そうだ、自分はここに遊びにきたのではない。
ヴェイドさんの言葉に、わたしはこくりとうなずいた。