5 青紫の瞳
苦労の末、なんとかお互いの手首に魔弦糸を結ぶことに成功したわたしたちは、緊張の瞬間を迎えていた。
理論上は、と言ったヴェイドさんだが、本当に手が離れるのだろうか?
わたしはゆっくりと繋いだ手を開こうと試みて……
「あっ」
離れた!
「ヴェイドさん、やったわ!」
わたしは喜びのあまり、思わず彼に飛びついた。
一生離れないかと思っていた。目の前の青年のことを嫌いなわけではないけど、やっぱりずっと手を繋いだままというのは非常に困る。
ふいに困ったような視線を感じてわたしは我に返った。
「あ、ご、ごめんなさい」
年頃の女の子云々と思った矢先に、とんでもなくはしたない行動に出ていたことに気づいたわたしは、慌てて彼から身を離した。
わたしの馬鹿。彼の気配がとても心地いいと感じる分、普段の自分よりも無遠慮になっている。
およそ年ごろの娘らしからぬ行動を取られたヴェイドさんはというと、いまだ困惑の浮かぶ表情でこちらを見ていた。
「きみはやっぱり変わってますね」
「……何度も言わないで欲しいわ」
なんだか、ばつの悪さに視線が泳ぐ。わたしは苦虫をかみつぶしたような心境だった。
「さっきも言いましたが、大抵の人は僕を恐がるのです」
「そ、そうなんですか。でもどうして?」
彼の言葉に、わたしは首をかしげた。
最初に“氷みたいな人”と思ったわたしが言えたことではないが、よくよく考えてみると彼はとても親切な人だった。でなければ、わざわざ自分の屋敷までみすぼらしい身なりの人間を招くだろうか?
魔術師ヴェイドという人物は、冷たい印象のきれいな顔を持ってはいるが――ついでに付け加えると非常識な面もあったが――とても彼が言うように人から恐れられるような人間には見えなかった。
なのに恐がられたことがあるのだろうか。
彼はわたしの質問にはなに答えを返さなかった。代わりに再び椅子に座るように促され、わたしはとまどいながらも腰をおろした。
「ではお話を聞かせてもらえますか、お嬢さん」
ヴェイドさんはそう言うと、わたしの足もとに膝をついた。
座ったわたしは、はからずとも彼を見おろす形になったわけだが、見あげてくる彼の紫がかった青の瞳に見つめられて、俄然落ち着かない気分になる。ただの気のせいと納得してしまうには、あまりにも不思議な気分だった。
「最初から話しをしよう」と、彼は言った。
「どうして、一人であんな場所にいたんですか?」
あんな場所、つまり警備隊の詰所のことだ。
普通だったら用のない場所と言えるだろう。それに年頃の娘は、あんな夜とも言える時間帯にそもそも出歩いたりしないものだ。
彼の質問に、わたしは胸の奥がちくりとした。
ようやく思い出したからだ。
どうして今まで自分の目的を忘れていたのかと、わたしは罪悪感でいっぱいになっていた。ひとりであんな場所に居たのは助けを呼ぶためだったのに、怪我の手当だとか、手が離れる離れないだとか、そんなことをしている場合ではなかったのに。
「……わたし、逃げてきたのよ。助けを呼びにいく途中だったの」
口にした言葉は、少しだけ震えていた。小さく相づちを返すヴェイドさんを見ながら、わたしは続けた。
「はやく戻らないと、お母さんが死んじゃう。でも、どうしていいかわからなくて」
母親は無事だろうかと案じる。あの牢獄を抜けて来てからすいぶんと時間が経っていたが、わたしが居ないことにあの場所の主はもう気づいているだろう。
焦る気持ちを察したのか、彼は「大丈夫です、落ち着いて」と、どこか困った顔をしながらわたしの手を取る。
まさかそんな動きのせいで、別の意味で狼狽えることになっているとは、ヴェイドさんも思わないだろう。わたし自身、どうしてこんなに彼の気配に惹かれてしまうのか全く理由が分からないのだ。
ここで握られた手を引いたら彼は悲しむだろうかと、そんなことを考えてしまう。
そのせいもあって言いたいことが頭のなかでまとまらず、わたしは自分がちゃんとものを言えているのか分からなかった。
おそらく聞いている側はもっと分からないのだろうけど、それでも彼は嫌なそぶりも見せず、静かにこちらを見つめていた。
「――だから明るい場所を目指したの。人の居る場所に行ったら誰かに助けてもらえると思ったから。そうしたら、あなたとぶつかっちゃって……その、ごめんなさい」
「謝る必要はありません。注意が足りなかったのはお互い様だし、その件についてはもう良いでしょう。きみの気持ちはもう充分に伝わりました」
それより、と彼は言った。
「あなたの母君のことですが、緊急性はどのくらいでしょうか。今すぐ助けを向ける必要はありそうですか?」
「ええと」
わたしは少し口ごもった。
「たぶんまだ大丈夫だと思う。数日ぐらいは余裕あるかも……たぶん、だけど」
あまり自信が持てなかった。
これまで何日もあの場所に居たのだから、すぐにどうこうされるとは考えにくい。でもわたしが居なくなったことに気づいた“彼ら”がどう出るのかは予測がつかない。
出来るだけはやく、あの場所に戻らなくては。
「では、次の質問です。きみの母君の名前を教えてもらえますか。それと、出来ればきみの家名も。名前を照合するのに必要です」
「お母さんの名前はアンディーナよ。あと、家名は……」
そこでわたしが言葉を切ると、ヴェイドさんは首をかしげた。
「家名は、ないの」
「……家名がない?」
眉をひそめる彼に、わたしはうなずきを返した。
「父君の名前は?」
「知らないの。父親はずっと居なかった」
わたしの答えに、ヴェイドさんは考えこんでしまった。
無理もないとわたしは思う。昔と違いこの時代は庶民でも家名を持つというのが主流だからだ。
貴族のように立派な名前とはいかないが、地名をもじったり、父親の名を継いだりということは世間では頻繁に行われていた。
でもわたしと母親には、自分たちの名前しか名乗りがない。それがずっと二人で暮らしていた理由のひとつだったのだろうとわたしは思っていた。
「……質問を変えましょう。きみの母君の居場所はわかりますか、大体で構いません」
「大きな、建物のなかよ」
「それはどの辺りに?」
またしても、わたしは言葉に詰まっていた。
わたしはどこから逃げてきただろうか? 夜だったことも原因していたが、あまりに慌てていたからまともに周囲を見ることができなかった。それでなくても今は悪夢から目覚めたような、どこか夢うつつのような気分だった。
「覚えていないの」
情けない言葉だった。
そんなことしか言えないのかと、いっそ目の前の青年が思い切り顔をしかめてくれればいいのにと思った。
だが彼はなにも言わなかった。青紫の瞳が静かにわたしを包みこむ。
「でも……大体はわかるの、わかるのよ」
わたしは何度かかぶりを振った。
自分はなんて馬鹿な娘なのだろう。
大きな建物なんてこの辺りには――このリースブルームという王の都には山ほどある。思い出せない記憶に振り回されるさまは、幼い子どもにしか思えなかった。
なにが言いたいのかも分からず、ただ言葉を並べる小さな子ども。わたしはこんなふうに、ただ助けを請うしかできないの?
「いつもなら、こんなことないの。絶対覚えてるはずだし……だから――」
ぐい、と彼の親ゆびがわたしの目もとをなぞった。
それで言葉を失くしてしまったわたしを見て、彼もまたはっとしたようだった。彼の瞳を見つめながら、部屋のなかが静かだとふと思った。
「少し休もう」
どこか途方に暮れているような彼の言葉だった。ほぼ同時に、ぱた、と水滴が落ちてわたしの服に丸い染みをつくった。それで初めて、わたしは自分が泣いていたことに気づいた。
ああ、まだ泣くのは早い。
まだなにも終わっていない。
でも気がついたら、もう止めることはできなかった。
夢から覚めたわたしを受け止めたのは、優しい気配の氷の魔術師。今度こそ本当に小さな子どものように、ヴェイドさんにしがみついて泣きじゃくった。
見おろす彼の姿はやはり冷え切った氷のようだったけど、受けとめてくれる彼の腕は温かい。
不思議な人だ。
でも、見た目じゃないほうの彼が本当の彼なのだろう。ぼんやりとそう思いながら、わたしは小さくえづいた。
硬く凍りついた心が、少しずつ溶けていくような心地がした。