4 幽霊屋敷
それからほとんど会話もなく、彼の屋敷だという場所についた。
中央局からさほど離れていないその辺りには、見わたせば立派な屋敷ばかりが続いていた。立ち並ぶ街灯も、よく見ればろうそくではなく魔術の光が灯されている。
おそらくは貴族が住んでいる区域なのだろうと思われた。薄暗い夜の月明かりの下でさえ、その豪奢な造りが見てとれる。
だが、彼の屋敷はその中でも群を抜いて凄かった。
どこか信じられないものを見る気持ちで、わたしは屋敷の門前に立ちつくした。
これはいったい、なんて――
「なんて汚い屋敷なの……」
どこか遠くで梟のまぬけな鳴き声を耳にしつつ、わたしは引き気味に呟いた。
もう一度言おう、彼の屋敷は汚かった。
それも“ちょっと散らかした”という段階をすっ飛ばして、かなり年季の入った乱雑ぶりだ。
わたしは思わず愕然とした。これが夢にまで見た貴族の屋敷だというの……? どうしてよりによって、このきれいな青年の家がこれなのよ、他にいい建物がたくさんあるじゃないっ!
窓はどこもかしこも曇りきって、仕上げとばかりにその上を蜘蛛の巣や蔦が這いまわる。周囲の建物が立派な分、そこはまるで幽霊屋敷のようにも見えた。
まだわたしの住んでいた小屋のほうがきれいじゃないかと思える外観だった。
その場から動けなくなったわたしは、小さく喉をならした。
「汚いですか?」
すぐ隣でヴェイドさんが言った。はっとしたわたしは、慌てて隣の彼を見あげた。
「え、あ、いや……なんて趣のある屋敷なのって言ったのよ、趣があるって!」
「取り繕わなくてもいいですよ。中はもっと酷いから」
本当ですか。
救いのない言葉にげんなりとしたわたしだった。
というか、汚いという自覚があるなら、掃除をしていただきたいのですけれど。
いったい彼の使用人たちは何をしているのだろう。ヴェイドさんみたいな貴族には、使用人という人たちがたくさん付いているものだ。主人が不在の間は、彼らが屋敷を切り盛りするのだという。
だが屋敷を見る限り、まったくと言っていいほどひと気が無い。夜の月明かりにひっそりと静まりかえった街屋敷は、温かみも安らぎさえも感じられない。
わたしは思わず訊いていた。
「もしかして、ひとりで住んでるの?」
「ええ。とは言え、あまり使っていない屋敷ですが」
彼いわく、ここに帰ってくるのは久しぶりなのだとか。あまり人を招いたこともないらしい。
人の入らない家は荒れすさぶと聞いてはいるが、実際に人の居ない屋敷というのはこんなにも……いやいや、こんなに荒れるわけないじゃない。
ちょっと帰らないぐらいで幽霊屋敷になったら、世の人々は困るでしょうに。
彼がこの惨状になぜ驚きもしなかったのか、その理由はすぐに分かった。わたしとヴェイドさんが屋敷の玄関口に近づくと、取っ手に手をかける前にひとりでに扉が開いたのだ。
「ひっ」
どう見ても誰かが扉を開けたようには見えず、わたしは思わず繋いだ手に力をこめた。
幽霊? やっぱりここって幽霊屋敷なの!?
だが、隣のヴェイドさんは気にしたふうもなく、すたすたとわたしの手を引いて中に足を踏み入れた。そうした途端、今度はぼうっと灯りが点いた。
ちなみにこれもろうそくではなく魔術光源で、そこはさすが貴族の屋敷だ。……じゃなくって!
積み上げられた本や、隅に寄せられただけの金属類に薬瓶、そして人の気配に驚き逃げていく蜘蛛の一家。ごちゃごちゃとした廊下を、彼は平然とした様子で進んでいく。その彼に手を引かれながら、わたしは戸惑いがちに口を開いた。
「あの、ヴェイドさん……」
「なんですか?」
なんですか、じゃないでしょう!?
むしろあなたの冷静な顔に驚きだ。わたしは彼に言った。
「おかしくないんですか? いま、ひとりでに色々と物が動いてますけど……!」
「は?」
わたしの言葉に彼ははたと歩みを止めて、おもむろに天井を仰いだ。
なにを見ているのかと思い、釣られて背後を振り返ると、
「え、ちょちょっと!?」
撤回しよう。玄関が勝手に開いたのも、照明が勝手に灯ったのもなんてことはなかったと。それ以上に不気味な現象が起きていることに気づいたわたしは、その場に固まってしまっていた。
止まりきれなかったらしい花のひとふさが、わたしの胸にぺしりと当たって床に落ちた。切り花やよくわからないガラクタのような破片が、わたし達の後を浮かびながらついて来ている。
い、いつの間に浮いてたのよ!?
そしてわたしは、無理やりヴェイドさんへと顔を引き戻した。
「ヴェイドさん……」
ちょっと変なものが浮いてるんですけれど。
だがあろうことか、彼は無表情に言った。
「どうかしたんですか?」
「…………」
まるで、なにも異変はないとばかりに、普通に言い返されてしまった。わたしより、よっぽど彼のほうが“不可解な人”だと思うのは気のせいだろうか。
そして通されたのは、彼が言うには“食堂”という場所だった。
貴族の屋敷になんて入ったことはないが、一般的に食堂というのは“飲食をする場所”なのだと思っているわたしである。
だが、彼の屋敷にそんなものは期待してはいけないのだと思い知っていた。
「これはまた、一段と」
既になかの散らかりぶりに耐性がついてきつつあったわたしだが、この場所は特にひどかった。
中央に大きな長テーブルがすえられていたのだが、テーブルクロスはドロドロに汚れきって、もとの色が分からなかった。わたしの服のほうがまだきれいだ。
というか、椅子が不恰好な姿勢でテーブルの上に乗っていた。まるで誰かが何気なしに落としたようだと思ったが、先ほど家具類が浮いていたことから察するに、きっとこれも浮いた後に落下した結果なのだろう。
ヴェイドさんはそこからふたつ、椅子を救出してくると、そこに腰かけるように促した。
だが、手を繋いだまま椅子に座るというのは至難の業である。わたしが不恰好に手をのばしながら座ったのを見て、彼は少し考えこんだ様子だった。
「あ、あの」
色のない顔にじっと見つめられては居心地が悪い。何も言わない彼に戸惑っていると、それからすぐにヴェイドさんは何かを始めた。
彼が空中にひとさし指を滑らせると、そこから糸のようなものが跡をひく。室内の灯りに艶やかにひかるそれは、まるで蜘蛛の糸のようだった。いったいこの人はいつから蜘蛛や蚕になったのか。
本当に変な人に出会ってしまったと、引き気味にそれを眺めていると、彼はいくらか長くなった糸をぴんと両手で張った。はからずも彼に引きよせられ、どぎまぎした。
「……どうしたんですか、それは?」
「魔弦糸を作ったんです。魔力をよった、紐のようなものですね」
そう説明された糸は薄青色に透き通っていて、管理局で見た彼の治癒術の光を思わせた。ひっぱると若干伸びるようだった。
「これをどうするの?」
「糸の端をお互いの手に結び付けるんです。そうすれば糸を通して繋がっていることになりますから、理論上は手が離れると思います」
「そんな、わざわざ」
「ですが手を繋いだままですと、お互い入浴もお手洗いもなにもできないんじゃないですか? 僕は構いませんけど、きみが困る」
「うっ」
それは考えてなかったわ。
彼の言葉にわたしは少したじろいだ。どう考えても、十五の乙女がそれでは困る。ヴェイドさんがいかにきれいな人と言えど、男であることには変わりないのだから。
顔を引きつらせたわたしに、彼は続けた。
「原因は分かりませんが、きみの手が僕の指先をつかんだということは、いま起きている現象は僕の魔力に反応してのことだと思われます。そこを追究していけば、いずれ解決の方法も分かるでしょう」
ああそういうことかと、わたしは腑に落ちた。
「指先って魔力が宿る場所だものね」
ヴェイドさんは、わたしの言葉にうなずいた。
指先は人の体の部位で、いちばん強く魔力が宿る場所である。だから魔術師は指先を使う描写が、物語のなかでもよくみられる。わたしはこれまで読んだことのある物語の数々をを思い起こしていた。
おそらく魔力というものは、胴体から離れた場所に蓄積しやすいのだと思う。
魔術の世界では、魔力を作るのは心臓、そして体にめぐらせるのは血脈だという。指先、そして髪の毛なんていうものは、特にいい例だ。
――黒髪は魔力が強く流れる証なんです。
わたしは自分の黒髪のことを思い出して、少しだけ憂鬱な気分になった。