2 魔術師ヴェイド
◇
「いきなり女の子を突き飛ばすだなんて、酷いやつらですね! 西区のやつら、どの面下げて『警備隊』なんて名乗ってるんでしょうか!?」
「で、でも、最後には謝ってもらえましたから……」
すぐ目の前で憤慨している男の人に、わたしは気圧され気味に応えていた。彼は怒りながらわたしの膝を水で洗ってくれている。
柔らかなソファに座らされたわたしは、つと目の前の人物を見た。
わたしが押し倒した青年ではなく、また別の男の人である。先ほど教えてもらったところ、彼はバナードさんという名前らしい。
「フィオナさんは優しすぎるんですよ!」
彼は、わたしの膝を清潔そうな布で拭きながら言った。
「そんなの心から悪いと思ってるかわからないじゃないですか。ヴェイドさんが居なかったら、どうなっていたか……考えたくもありません。まだ成人前といえど、女性に怪我をさせた罪は重いですよ! ああもう、裁法官の前に引き立ててやりたい!」
ヴェイドさんというのは、警備隊の詰所前でわたしと一緒に地面を転がって、助けてくれたあの細身の青年のことらしい。先ほどこの場所にわたしを連れてきたかと思うと、すぐにどこか別の部屋に行ってしまった。
「えっと、バナードさん」
わたしは自分の膝にできた擦り傷を見おろした。
「この傷は単にわたしが道端で転んだだけなので、怪我をさせられたとか、そういうわけでは」
「ああ、それだけ必死だったというのに、西区のやつらは」
そしてバナードさんはまた先ほどと同じことを繰り返し始めた。ずっとこの調子だ。彼はよっぽど正義感に溢れる人のようらしい。
バナードさんはわたしと話しているうちに我慢できなくなったのか、布をつかんだ手で自分の髪を掻きまわした。彼の薄い琥珀色の髪がぐしゃぐしゃに乱れて、その様子がおかしくてわたしは思わず小さく笑った。
わたしが笑っていることに気づいた彼は、
「フィオナさん、やっと笑ってくれましたね」と困ったように言った。
それを聞いて、どうやら顔が強張っていたらしいことにわたしは今さら気がついた。
「だってバナードさんの格好、おかしいんだもの」
少しだけ首をかたむけた彼を見ながら、わたしは言った。
温かいスープを飲んだときのような、ほっと安堵する気持ちが胸に流れこんでくるようだった。こうして心を許してしまうぐらいには、バナードさんという人物は温かく、そして親しみやすい人物だった。
だがそれだけに、わたしは先に知り合った“ヴェイド”という青年の、あの氷のような雰囲気がみょうに気になっていたのも事実だった。
どうしてわたしは、あの冷たい面持ちの青年に懐かしい気配を感じたのだろう?
知り合いだったということも無い。あの青年は一度見たら忘れられないほど、端正な顔立ちをしているのだから。
やがて用事を済ませたのか、隣の部屋からヴェイドさんが戻ってきた。
「傷口は洗い終えましたか?」
そう訊ねた彼に向かって、バナードさんが勢いよく振りかえった。
「ヴェイドさん、聞いてくださいよ。いま彼女とも話していたんですが、西区のやつら、警備隊としての心構えが」
「バナード、話は後で聞きますよ。いまは彼女の手当てが先でしょう」
「あ、はい……そうですね」
落ち着いた見た目のとおりあっさりと彼をいなしたヴェイドさんだったが、バナードさんは少ししょげたようだった。
「この通り、砂や血の塊は洗い流しました。これで大丈夫でしょうか?」
「ええ結構です」
ヴェイドさんはそう返すと、わたしの目の前に膝をついた。それだけなのに、周りがいっきに華やいだ気がするのは、たぶん彼の派手な見た目のせいだ。
「お嬢さん、傷口は膝だけですか? ほかに痛むところは」
「ええと……他は大丈夫です」
わたしは消え入りそうな声でそう答えた。
これまでひっそりと暮らしていたこともあり、あまり母親以外に人慣れしていないわたしは、きれいな青年が目の前に来たことで知らずとうつむいていた。
少し目線を落とした場所に見えるのは、仕立てのいい革靴だ。
それだけじゃない。このヴェイドという人物はとても質のいい服を身に着けていた。きっと本当は、とても身分の高い人なのだろう。
いまわたしが居る場所は、屋根の先のとがった搭の中――治安管理局だと教えてもらった。それが何を意味する場所かは知らなかったが、この目の前の青年はこの建物の主というわけではないのだと、最初に教えられた。
じゃあ閣下と呼ばれていた彼は、いったい誰なのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えていたわたしに、彼は言った。
「まだ名前を聞いていませんでしたね。僕はヴェイド・クラート・ルド・フロディスといいます」
「……フィオナです」
長い名前だわ、と彼に感心しながら、わたしは自分の名前を口にした。
それと同時に、やっぱり彼は身分のある人なのだと思っていた。ルドという名前は、少なくともこの王都リースブルームでは貴族階級に特有の名前だった。
本で読んだ知識しかなかったが、わたしが覚えている“ルド”というのは、たしか王族に近い貴族に付けられるものだった。
そうなるとますます、彼が誰なのか気になってしまう。
それが王族に近い者であるというのならなおさらだ。わたしが絶世の美女と言うのならともかく、普通は、わたしみたいなみすぼらしい格好の娘には見向きもしないものなのだ。
黒い髪と黒い瞳。
今年十五を迎えた年頃の娘とはいえ、わたしはさえない特徴ばかりを持った、おせじにも美人とは言えない顔だった。
わたしが名乗った後、傍に居たバナードさんはなにかの帳簿を取り出していた。人物名鑑、と表紙に書かれている。おそらくリースブルームに住む人々の名簿なのだろう。
「フィオナさん、ですね……ちょっと王都内の名簿に照合してみましょう。あなたの外見特徴ですと、おそらくすぐに――」
すでに自分の世界に入りそうになっている彼に、「バナード。きみの名前はなんて言うのかな」と、ヴェイドさんがたしなめるように言った。
「ああすいません! つい夢中になって……仕事のことになるといつもこうなんです。僕はバナード・ティンバーです、よろしくレディ」
人懐こい笑顔を向けられ、わたしは戸惑いながらもうなずいた。
「では、始めましょうか」
それから間もなく、ヴェイドさんはそう言って手袋を外した。
「なにをするんですか?」
「今から治癒術をかけます」
治癒術。
耳慣れない単語だったが、その響きに少しだけどきりとした。それが困っているように見えたのか、バナードさんが付け加えた。
「魔術の一種ですよ、フィオナさん。まあ、治癒術を扱える人は非常に少ないですから、ご存じなくても無理はないですね」
無言のままそっと視線をおろすと、そこにはわずかに顔を伏せたヴェイドさんの顔がある。
明るい照明の下で見るこの人は、やはり目を見張るほどきれいな人だった。月をそのまま写し取ったかのような銀の髪。すい込まれそうに深く、澄んだ水底のような瞳をしている。
だけど、どこか近よりがたい雰囲気を持つ人だった。
きれいすぎるから、わたしと同じ人間のようには見えないのだ。彼が表情に乏しいことも原因のひとつだった。
でも、とわたしは思い直した。
そういえばここに来る前、彼の笑った顔を見た気がした。
冷たい顔が一瞬だけ崩れて、目がそらせなくなるほど優しい顔がそこにあったと思ったのに。瞬きをした瞬間に消えてしまったあの顔は、暗闇でそう見えただけ?
それとも、誰も知らない彼の本当の顔なのだろうか。
そんなふうに考えると、胸のおくが小さく跳ねた。少し不思議な気持ちになっていた。
「あなたは運がいいですね。ヴェイドさんが魔術を使う姿は、滅多に見られませんよ」
「そうなんですか」
わたしはバナードさんにあいづちを返した。
魔術師はとても希少な職業だということは、常識としてわたしも知っていた。とても尊い存在だ。でも、今はあんまり見たくなかったかもと思う。
「ヴェイドさんは、魔術師、だったんですね……」
暗い雰囲気を感じ取ったらしいヴェイドさんが、少しだけ顔をあげた。深い水の底のような瞳に捕えられて、溺れるように目がそらせなくなる。
少しの沈黙があった。
「そうです」
彼が短く言った言葉には、どこか落胆するような気配が含まれていた。表情は全く変わらないのに、まるで『あなたもそうなのか』と言われたような気持ちになった。
どうしてなのかは分からない。でも違う、そういう意味じゃなかったの。
「あの、ヴェイドさん」
「では術式を広げるので、楽にしていてくださいお嬢さん」
彼はわたしの言葉を待たずに、膝の傷へと手をかざした。
そうした途端、淡い青色の光がぼんやりとわたしの膝の部分を包みこんだ。わたしはふと、似たような光をここに来る前に見たことを思い出した。母親と一緒に見た、こんなふうに幻想的な温かな光。
先の見えない失意のなかでみた、希望の光のようだった。
お母さん。
胸のなかで呟くと、無性に泣きたい気持ちになった。
もしかしたら少しは涙が浮かんでいたのかもしれない。ぼんやりとかすんだ視界のなかで、ヴェイドさんの優しい気配がわたしを包みこんでいた。
そして彼が“治癒術”と言った言葉のとおり、不思議なことに傷口がみるみるふさがっていくのが分かった。次第に薄れていく痛みのなか、魔術というのはやはり貴重な術なのだと感じていた。
だってこんなに綺麗で、こんなに眩しい……
え、眩しい?
はっと我に返ったときには遅かった。どう見ても明らかに“さっきより眩しくなっている”周囲に、わたしは慌てて彼に言った。
「ヴェ、ヴェイドさん! あの、その眩し……というか熱いです!」
「は?」
怪訝な表情で、青紫の瞳がわたしを見返した。