27 漆黒の闇
無我夢中でわたしは走る。
めざすのはクレマン伯爵と黒の魔術師のかたわらにいる、母親のもと。
走るわたしのすぐ隣を、稲妻のようにするどい水色の光が過ぎ去った。前を見ると、水色の光が伯爵と魔術師を鳥かごのように囲んでいた。突然のふいうちに、彼らは驚きに目を見ひらいている。
「お母さん、こっち!」
うずくまる母親に駆け寄ると、彼女は信じられないといった様子でわたしを見ていたが、いまは説明している時間が惜しかった。
わたしは彼女の手をとり、それからヴェイドさんの居る場所とは“反対方向”に駆けだした。手を引かれながら立ち上がった母親は、最初こそたどたどしい足取りだったが、走るうちにまっすぐに走れるようになる。
そういうことか、とわたしは思った。
森の木々を掻き分けながら、わたしは、ヴェイドさんがわたしに母親を任せた理由を理解していた。わたしと手をつないだ母親は、わたしから失った分の魔力を得はじめ、そして力を取り戻しはじめていたのだ。
かつて水の魔術師に触れたとき、わたしがそう、していたように。
もう充分に距離を取ったと思ったところで、わたしは徐々に速度をゆるめた。
「フィオナ、どうしてここまで」
「お母さん、ここに座って。あとは……あとはあの人がなんとかしてくれるわ」
まだ状況がわからない様子の母親を木の根っこに座らせると、案の定、わたしと母親の手が離れなくなっていることに気づいて苦笑する。
わたし、またひっつき虫ね。
こうなってしまってはただ、わたしたちはヴェイドさんを後ろのほうで見ているしかなくなった。彼はここまで予想して、母親をわたしに任せたのだろうかと勘繰ってしまう瞬間である。彼ならそう、やりかねない。
振りかえると、伯爵たちに向けられた捕縛陣はすでに解かれてしまっていた。ヴェイドさんはいまや彼らに姿を見せ、とても堂々とした振る舞いで立っている。
「ヴェイド・フロディス。……ご丁寧に、魔王様みずからの御登場ですか」
黒いローブの魔術師が、深くかぶったフードの向こうからそう言うのが聴こえた。
え、魔王様?
「ヴェイド・フロディスだと!?」
わたしに浮かんだ小さな疑問は、クレマン伯爵の怒声にかき消えた。伯爵は驚愕したように二人の魔術師の顔を交互に見ている。
「まさかおまえが……あの偉大なる水の使い手、魔術師ヴェイドだというのか?」
「だとしたら何だと言うのです」
すくみあがるほど冷たい声音とともに、水の魔術師は口もとに弧をえがいた。
「クレマン伯爵、かの少女を呼び戻したのは失策でしたね。お陰で予定よりも簡単にあなたに会うことができました」
彼の言葉に、クレマン伯爵はひどく悔しげにうなった。プライドの高いあの男のことだ、まさか自分の行動が失態を招くとは思わなかったのだろう。
だけどそんな光景を見ながら、わたしはどうして、と疑問に思っていた。
伯爵はプライドが高く、完璧主義者だ。でなければわざわざヴェイドさんたちの目をかいくぐって、大胆に王都で精霊を誘拐なんてできないはずだ。
彼らはこれまで、これまで完璧に事件を隠し通してきた。
なのに、いくらわたしが逃げおおせたからって、こんなにあっさりと事が露見してしまったのは、どうして?
そこまで考えて、背筋がぞっとした。
わたしはずっと、母親とともに伯爵邸にとらわれていた。事件のまっただ中に居たはずだ。だけどわたしの知らない場所でなにかが動いている。
いったい、なにが……。
「――ッ!」
ふいに全身に鳥はだが立った。
体が凍るかのような気配――いや、きっと魔力だ、どこかからわたしに向けられた魔力に、体が悲鳴をあげている。
すぐ隣で母親が心配そうにわたしをのぞきこむのが分かった。
だけどわたしの視線はとらわれていた。
黒の魔術師――ダルガディスに。
「あ、あ……」
そして頭が、割れるように――
あなたは
ずっと
そばに
「よそ見とはいい度胸だ」
ヴェイドさんの鋭い声にはっと意識をとりもどす。
それと同時に黒の魔術師の視線はわたしから外れ、ヴェイドさんを見やっている。そしてその手には血のにじんだ氷の刃が握られており、ヴェイドさんが彼にむかって放った一撃を、男が受け止めたのだとわかった。
わたしは全身吹きだすような汗にぬれていた。きっと顔色は悪いだろう。
いま聞こえた声は、なんだったのだろう。
頭のなか、そして心のおくを揺さぶるような悲鳴にも似た声を聴いた気がする。割れるような頭の痛みはもう消えているけれど……。
「恐ろしいですね。怒った貴方は、とても貴重だとは思うのですけれど」
「戯言を叩くんじゃない。なあ魔術師さん、ずいぶんと余裕じゃないか。人の魔法陣を勝手に作り替えたり、ぼくの領分に手をだしたりと、だいぶなめた真似をしてくれたね。ぼくにバレないとでも思ったのかい」
すべてお見通しだったよ。
言外にそんな挑発をふくむ彼の台詞に、黒の魔術師は何の反応も示さなかった。
そんな相手の様子を見ながらも、ヴェイドさんは不遜な笑みを浮かべている。実にたのしげな彼だったけど、これじゃあどっちが悪者かわからないわね、と傍から見ているわたしは思った。あえて口にはしないけれど。
そんな実に冷え切った二人のなか、状況がわかっていないのか、クレマン伯爵は激高したように声を荒げた。
「くそ、ダルガディス。あいつをどうにか片づけろ! ここで捕まっては計画が水の泡だ!」
「ダルガディス?」
伯爵が口にした言葉に、ヴェイドさんは眉をひそめる。
「まさかと思ってはいたが、おまえは闇の魔術師か。カルクトではすっかり鳴りを潜めたと聞いていたが、まさかこんな場所で……」
カルクトは魔術師協会の本部があるという、海を隔てた島のことだ。観光地としても一部有名なので、わたしも名前だけは知っていた。
黒の魔術師はなにも答えなかったが、ヴェイドさんは彼のことを知っているようだった。
「ここで会ったが百年目というやつか。だがこの国で勝手にされると困るんだよ、カルクトに送り返してやろう」
「ふふ……正確には三二六年目ですよ、閣下」
「べつにそんなことはどうでもいい」
ヴェイドさんは、苦虫をかみつぶしたような顔になった。
そんな彼らの傍らで、伯爵がひとり、こそこそとその場を離れようとしていた。わたしは思わず叫んでいた。
「ヴェイドさん!」
「おっと伯爵。勝手に逃げられては困りますね」
「ぐっ……くそっ」
すぐに彼は、例の“捕縛陣”という術で捕えられた。
地面を無様に転げてもなお、悪態をつきながら抵抗する伯爵を見て、わたしはあの男がこんなに小さな男だったのかと白けた気持ちになっていた。
あれだけ人を見くだしておきながら、結局ひとりではなにも出来ない、憐れな男。
だが彼はわたしと母親、そして精霊たちを集めてなにをしようとしていたのだろう?
「閣下、覚えておりますか。あなたがまだ成りたての魔術師であった頃……」
クレマン伯爵のほうを一度として見ずに、ダルガディスと呼ばれた魔術師は、フードに隠された顔でヴェイドさんに向かってほくそ笑んだ。
「あなたは私には勝てなかった。たいした自信がおありのようですが、私にうち勝てるとでもお思いですか」
「それが、たいした自信はおありなんだ」
ヴェイドさんはこっちが不思議になるほど、とても自信ありげに見えた。
「いまのおまえの力は、当時の半分以下だろう。ひどく弱っている。“聖なる国”に手をだした一件で、きみは懲罰として封印術をかけられているのだったか」
「…………」
ダルガディスが沈黙する。
わたしには彼らの事情はよく分からないが、ヴェイドさんの言葉から察する限り、闇の魔術師は過去に大罪を犯したために、その力を封印されているようだった。
だとしても、広い屋敷に結界をはるなんて所業はふつうの沙汰ではなかったのだけど。これが万全の状態だったなら、どれほどの脅威になっただろう。
「たとえそうだとしても」
闇の魔術師は静かにつげた。
「漆黒の闇はすべての色を覆いつくします」
彼がそう不敵に笑んだ瞬間、わたしは足もとから、また屋敷が崩壊したときのような地響きを感じた。
地面が盛りあがり、土石流のように掘り起こされた土や岩がわたしたちに押し寄せる。わたしは慌てて母親と立ちあがった。
「フィオナ、こっちへ」
ヴェイドさんがこちらへと手招きした。




