1 悪魔の子
待っているのは、夜の帳を降ろした街並みばかりだ。
空に浮かぶ月が、ぼんやりと淡く石畳を照らしている。冷たく灯る街灯がこっちだと手招くように、点々と先のほうへと続いているのが見えた。
わたしはともしびに誘われるまま、不気味な闇から逃れるために、ただまっすぐに走っていた。
冷えた息を深く吸いこみ、わたしは一瞬、呼吸の仕方を忘れてしまう。
体は熱い。
指先はひどく冷たかった。
もうどれぐらい時間が経ったのかと疲れきった頭で考える。まるで何時間も、何日もこうしているんじゃないかと錯覚するが、夜が明けた記憶もない。
たぶん、それほど時間は経っていないのだろう。
だが既に息はあがり、容赦なく襲う疲労にわたしは絶望すら感じていた。それでも、わたしはただ目の前に続く道を走るしかない。
少しでも早く、あの場所から離れなくてはいけない。少しでも早く、誰かに助けを求めなくてはいけない。
まともに考えられなくなった意識の中で、ただそれだけを繰り返し自分に言い聞かせた。そうしないと、全てが水の泡になって消えてしまうのではないかと思っていた。
「――あっ」
次第に感覚の鈍った足は、ついに石畳の隙間に絡めとられた。
わたしはその場に倒れこみ、焼けるような痛みが膝から全身へと突き抜ける。かつてはお気に入りだった服はボロボロに破れ、擦り傷のせいで血がにじんだ。それを見たせいなのか、それとも痛みのせいなのか、まなじりに涙が浮かんでいることにふと気づいた。
泣くのは早い。
わたしはくちびるを噛むと、袖ぐちで顔をこすった。
そしてまた頼りない体で立ちあがる。名前も顔もしらない誰かに、助けて欲しいと伝えるために。
再び走り出した頬を、冷たい夜風がなでていった。
――フィオナ。
わたしの脳裏をかすめたのは、最後に聞いたやさしい母親の声だった。
◇
事の始まりは、いったいどこにあったのだろう。
それまで、わたしは母親と二人で暮らしていた。リースブルームという大きな街の、西端に位置する森の近くだ。
丸太を組んだ小屋のような家で、まるで隠れるように静かに日々を過ごしていた。
ときたま母親から聞かされる寝物語の王子さまやお姫さま、不思議な魔法使いに憧れては、そんなふうになれたらと淡く夢見る、普通の少女だったと思う。
そして同時に、そんなふうにはなれないのだと諦めるわたしも居た。
ここは魔術の生きる国で、わたしが暮らす街は『花の都』と呼ばれる場所だったが、そういう美しい場所はもっと裕福な人にしか縁がない。
それと同じように、この街におわすという見たこともない国王陛下の隣には、水の魔術師という偉大な魔法使いが居るのだと聞くが……、わたしにとってはお話の中の人物と大して変わりない存在だった。
変わり映えしない落ち着いた生活は好きだった。
でもどうしてこんな場所に隠れるように暮らすのか、疑問に思わない年頃ではなかったし、そして二人で暮らしている理由は明るい事情からではないのだと察するぐらいには、わたしは聡かった。
『いつかあなたにも話してあげる』
母親はいつもそう言っていたが、きっとそれはまだ遠い未来の話だった。そしてそのときが来ても、そんな事情があったのね、と母親に笑顔を返してまた同じ日々を過ごしていくのだ。
世界はなにも変わらない。
母親と二人でいつまでも、小さな家でひっそりと暮らす。
これがわたしの幸せ。
わたしの人生は、なにも変わらないはずだった。
「……はぁ、はぁ」
あがりきった息に、わたしは思わず立ち止まる。
すぐ目の前には、温かな明かりの灯る建物が見えていた。
耳をすませてみると、中から聞こえてくるのは賑やかに談笑する人の声だ。それにほんの少しだけ安堵しながら、呼吸を整えたわたしは飛びこむように扉を押した。
「お願いします、助けてください。お母さんが……お母さんが大変なの!」
そうまくしたてるように言ったわたしを、なにごとかと建物の中にいた人々が一斉に見やる。一瞬だけざわめきが収まる室内。
部屋の中にいたのは男の人が数人だった。しっかりとした体格に、暗い色のキルトの胴着を見につけている。それを見て、わたしは運よく“警備隊”の詰所にたどり着いたのだと分かった。
よかった、これで助けてもらえる。わたしは思わず泣き出したくなった。
でも、少しの間を置いて誰かが言った。
「なんだぁ? この気持ちの悪い餓鬼は」
「え……?」
向けられた悪意の瞳に、わたしは小さく息をのんだ。
気持ちの悪い餓鬼?
わたしが冷静さを欠いていたせいなのか、彼の言っている意味がよく分からなかった。
いや、落ち着いていても理解できただろうか。気持ちが悪いだなんて、言われる理由はなかったのだ。
言葉をなくしたわたしを前に、部屋のなかの人々が好奇をにじませながら集まってくる。
「なんだ、どうしたんだ?」
「おい、この子をよく見てみろよ。悪魔の子だ」
「うわ、ほんとだ。本当に居るんだな」
「気味がわりぃな……おい、さっさと追い返せよ」
「そうだな」
わたしは呆気に取られながら彼らを見渡した。それを見返す、剣呑さを含んだたくさんの瞳。突き刺さるような言葉に、言い知れない気持ちが胸を占めた。
「え、あの……」
狼狽するわたしのところに、そのうち一人が近づいてきた。見あげるほど背の高い彼に、わたしは一歩後ずさる。
「あの、すぐに助けていただきたくって……」
しっかり言ったつもりなのに、わたしの声は消え入るようだった。ふいに、腕を強くつかまれる。
「帰れ、帰れ! ここはお前みたいなやつが来るような場所じゃねぇんだ」
「待って、そんな、助けてください!」
「帰れと言ってるんだ!」
「きゃ、」
そのまま、わたしは扉の外に突き飛ばされた。
つかまる場所なんてどこにもない。ばくぜんと感じた浮遊感に、次に襲うであろう痛みを予想してわたしはきつく目を閉じた。
だが、なにかに柔らかくて重いものにぶつかるような感触がした。
……えっ?
わたしは驚きに硬直した。
なにかにぶつかったのもそうだったが、その瞬間、花のように優しく包みこむような気配を感じたのだ。どこか懐かしさを感じさせる不思議な気配は、ただの香りと表現することは出来なかった。
なにが起きたの?
思わず目を見ひらくと、わたしを投げた男の人の驚愕した顔が飛びこんだ。それから、
「「え?」」
なぜだか、すぐ背後から声が重なった。どういうこと?
そのまま奇妙な声と一緒に、わたしは地に勢いよく倒れこんだ。少しだけ痛かったけど、直に叩きつけられたような痛みはない。
今度こそ本当に、なにが起きたのかわからなかった。
戸惑いがちに目を滑らせてみると、すぐそこに見えたのは外套かなにかの布地だった。そこからさらに顔をあげると人の顔があって、わたしは驚きとともに息を飲んだ。
とてもきれいな人だった。
ズボンと上着、その上にクロークを着こんでいる。
格好からして男の人なのだろうと思ったが、彼は青年と呼べるほどに見た目が若く、痩身で小さい顔、通った鼻筋、そして長いまつげといった人物だった。その中性的な顔立ちは、まるで精霊かなにかを見ているような不思議な気分にさせられた。
石畳に投げ出された彼の、少し長めの薄い色の髪が街灯にきらめく。
それにぼうっと目を奪われていると、彼が小さくうめきながら額に手をあてた。それを見てはっとしたわたしは、慌てて彼から離れた。
「あ、あの、ごめんなさい!」
「……いえ」
わたしが勢いよく頭を下げる横で、彼はゆるりと身を起こした。それからなにごともなかったように、青ざめて座りこんだままのわたしの手を取り、立たせてくれた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます……」
彼に返事をしながら、ふと周囲に目を向けると、先ほどわたしを突き飛ばした男の人たちが遠巻きにわたし達を見ていることに気がついた。そのどの顔にも、怯えたような色がにじんでいるのはなぜなのだろう?
閣下、とそのうちの誰かが呟くのを聞いた。
わたしはその光景に面食らいつつ、閣下という言葉の意味を考えていると、
「警備隊が女性を乱暴に扱うとは、いただけませんね」
咎めるような低い声で、わたしの隣の男の人が言った。そうした途端、慌てたように警備隊の人々は一斉に腰を折る。ぴたりと頭をそろえて彼らは、
「も、申し訳ありませんでしたぁぁ――っ!」
圧巻というよりも、なんだか呆れた。
彼らがそうしているのは、わたしにじゃなくて、この隣のクロークの男の人にだ。彼はきっと上司なのだろうと思えたが、女の子を突き飛ばしておいて、これはないんじゃなかろうか。
隣の男の人もそう思ったのか、
「それは彼女に言うべきことですね」と、驚くほど突き放した声で言った。
隣を見あげてみると、無表情に警備隊を見つめる彼が居た。詰所の明かりの下で見た彼は、冷たい青紫の瞳をしている。なんだか氷みたいな人だと思った。
その彼の言葉に、わたしを突き飛ばした男の人が若干ひるみながらこちらを見た。
「……すまなかった」
「いえ……」
わたしはまともにその人の顔が見られなかった。男の人の視線にはまだ嫌悪するような感情が見てとれたからだ。
いったいそこまで、わたしのなにを嫌うのだろう?
初対面の人にここまで嫌われるなんて、初めてだ。返す言葉が見つからずにいると、一番年齢の高そうな男の人が出てきて、その人の頭をぐいと腕で押しさげた。
「お嬢さん、うちの若い衆があなたに失礼な真似をしてすまなかった。代わりに詫びよう」
誠実そうな人だ。彼がそう言って深く腰を折ったものだから、今度こそ、わたしは本当に戸惑った。
「え、えっと、頭をあげてください。わたしに怪我はありませんでしたし……」
むしろ怪我があるとすれば、わたしの隣に居る、このクロークの男の人なんじゃなかろうか。わりと勢いよく転がった気がするのだし。
それを案じて隣に視線を移すと、
……あれ、いまこの人笑った?
精霊のようにきれいな顔が、静かに微笑んだような気がした。