12 魔力の暴走
なるほど、読んでも面白くない。
わたしは分厚い本を抱えながら、眉間を寄せることになった。
先ほど手にした魔術書だが、面白くないというよりも“面白そうな雰囲気はある” のだが、理解できない部分が多すぎて全然頭にはいってこないのだ。
しかめ面でうんうん唸っていると、執務室に座ってお仕事中のヴェイドさんが、そらみたことかと言いたげな目線をこちらに寄越した。
だけど素直に諦めるのもしゃくだった。わたしはまたひとつ、文字がずらりと並ぶページをめくる。
魔術師は、嫌い。
それはわたしがずっと胸に抱いている気持ちだ。
ついこの間まで、彼らから酷い仕打ちを受けてきたわたしにとって、魔術という言葉は自分や家族を傷つける恐ろしいものと同じ意味だ。だけど、今まできちんと魔術に向き合ったことが無いのも事実だった。
魔術は持てる者のものである。
その心得がある者は、それなりの立場と待遇を持ってして国に迎えられる。このリスタシア王国における魔術師の数はそれほど多くはないと聞くが、わたしたち庶民から見れば手の届かない存在であることに変わりはない。
でも、だからって何も知らないままでいいのかしら?
魔術は服を小さくできない、だけど人を遠い場所に移動させることはできる――わたしはヴェイドさんに言われるまで、魔術が計算式の一種だということすら知らなかった。
当然よね、興味を持ったこともないんだから。
わたしたちは魔術がとても便利な、奇跡の力だと信じて疑わない。そしてそれを行使する彼らのことを、わたしたちは恐れ敬う。
知らなくていいことなのかもしれない。
だってわたしは、ごく普通の――いやもしかしたらそれ以下かもしれない身分だ。これからも魔術なんてものには縁がないだろう。
今回のことが無ければ、ずっとそう思っていたに違いない。
だけど目の前には魔術師だというヴェイドさんが居て、わたしの母親は魔術師の居る屋敷に捕らわれている。もう後戻りはできないほど、わたしは魔術という言葉にどっぷりとつかっている。
――さっきも言いましたが、大抵の人は僕を恐がるのです。
ならば、知ってやろうと思ったのだ。
ヴェイドさんが、どうしてあんなことを言ったのか。そしてあの冷たい瞳の奥に、とても優しい彼の顔があることを、もっと広めてやりたい。
自分でも不思議なくらいだった。
どうしてこんなことを思うのか。それはきっと、彼があの心地よい気配をわたしに与えてくれるからなのだろう。ヴェイドさんのことが、なんだか好きかもと思い始める自分がいた。
そのうち彼なしでは居られなくなるのではと、ほんの少しだけ心配になる。
きっと他に頼れる人がいないせいだろう。
母親を無事に取り戻せたら、また一緒にあの森の小屋で暮らせるのだから、それまでの辛抱だ。そうしたらこんな煌びやかな空間とも、ヴェイドさんともお別れになる。そう自分に言い聞かせてはみるが、なんだか不安だ。
その不安がどこからやって来るのか、わたしには分からない。
それにわたし、矛盾してないかしら? 母親を取り戻せば魔術なんておさらば。そう考えているのに、いまこうして魔術に向き合おうとしている。
なんとなく、予感がしていた。
魔術なんて関係ない。そう思っているのは実はわたしだけで、本当はずっと前からわたしはその世界に迷い込んでいたのではと。
いったいいつから?
堂々巡りの考えのなかで、わたしはただひたすらにヴェイドさんの魔術書をめくっていた。そしてふと、ヴェイドさんの屋敷の書斎にあった、あの転移陣とよく似た図柄を見つけて手をとめた。
挿絵として描かれたそれは、緻密な線がまるで絵画のようで、ただ見ている分には物珍しかった。そのすぐ下に添えられた文字は古代語で、やはりわたしには読むことができない。
でも、この図柄にある蛇がのたくったような文字は、なんて意味なのだろう?
魔法陣は単純式――計算式だと言っていたヴェイドさん。
そして不思議なことに、これと同じような文字をわたしはどこかで見たことがある。わたしはそっと、その魔法陣を指でなぞった。
そうすることでなにか分かるかもしれないと思ったのだ。まあ、そんなので分かったら魔術師なんて職業はいらないわよね。でも、分かりたいと思った。
意味が知りたい。
この魔法陣が持つ意味は、なに?
そして最後の線をなぞった瞬間、わたしは不思議な光を見た気がした。
「――え、あ、あれっ」
思わず慌てた。
だって指でなぞった魔法陣が、信じられないことに、みるみる熱を帯びて黄色い光を出しはじめたんだから!
「え、なにこれ、ど、どうしよう!?」
わたしは驚愕に目を見ひらいていた。
いったいなんだと思う間もなく、手にしていた魔術書がずしりと岩のように重くなって、わたしはそれを取り落とした。魔術書が床に落ちるか落ちないかの瞬間、床がぼこりと持ちあがる。
地、地割れ!?
まさかこんなところで?
わたしは目を疑った。
そして地響きとともに巨人のような瓦礫の人形が現れ、わたしの前に立ちふさがる。あんぐりと口を開けたまま、わたしはこちらに影を伸ばす巨人を見あげ――、ふいに後ろへと引っ張られた。
思わず悲鳴をあげてしまったが、どうやらヴェイドさんがわたしの体を引っ張ったらしい。それに気づくころには、わたしは彼の背中に隠されていた。
そしてこちらに勢いよく手を伸ばす巨人を見た。
「え、あ、」
「伏せなさい」
ヴェイドさんの、やけに落ち着いた声音を聞く。彼はそう言ったかと思うと、こちらに殴りかかるように伸ばされた巨人の手を、
――受け止めた。
信じられない。どう考えても大きさからして違う瓦礫の手を、彼はリンゴでも受け取るように簡単につかんだのだ。
どこか離れた場所で、からん、と瓦礫の崩れる音が聞こえた。
手を受け止めて、それからどうするのかと彼の背後から伺っていると、なんとヴェイドさんは、そのまま床に瓦礫の巨人を押し戻した。す、すごい荒技……!?
間もなく部屋のなかに静寂がもどり、もうもうと土ぼこりが立ちこめる。
さっきの光景はまるで幻だったかのように、先ほどまでの執務室が戻ってきた。だが、床も壁もそこかしこも、崩れ落ちてガタガタだ。
いったい、何だったの?
もしかしてじゃなくても、わたしのせい?
そろそろと顔をあげると、ヴェイドさんがものすごい形相でわたしを睨んでいた。綺麗な青紫の瞳につかまり、わたしはその場に固まってしまう。美人が怒ると恐いというが、なるほど夢に出そうな恐怖感だった。
「あの」
「フィオナ、なんてことしてくれるんだ。ここを潰す気なのか?」
怒鳴る彼はめちゃくちゃ恐かった。雰囲気が冷たいだとか、そういうのは通り越して、とにかく恐かった。
「あの、ちょっと出来心というか……その、潰すとかそういうつもりは全然なくって」
思わずしどろもどろになりながら後ずさると、部屋の外の廊下から、こちらへ駆けつけるような足音が響いてきた。やがてバン、と勢いよく扉が開け放たれる。
「閣下、いったいなんの騒ぎでしょうか!?」
飛びこんできたのは、エプロン姿に髪をひっつめた女の人だ。彼女は何事かと部屋のなかを見まわし、そしてわたしと視線が合った。
「あ、」
「まあ!」
なぜか彼女は、口を開けて固まってしまった。
ねえ、なんで……どうみても怪しい穴ぼこの床じゃなくって、まっすぐにわたしを見つめるの?
そしてしばらくの沈黙のあと、女の人は言った。
「フロディス閣下、いつの間にお子を持たれて……」
「違います。どう見ても、僕に似ていないでしょうに」
「あら、まあ……そうでございますわね……」
女の人は罰が悪そうに、ほほほ、と上品に笑うと姿勢を正した。
「大変お見苦しいところをお見せしまして、申し訳ありません。――ところで閣下、この床はどうなさったので?」
ぎくりとわたしは身じろいだ。
怒られる。
なんせただでさえ、高級感あふれるこの部屋だ。ここまで滅茶苦茶にしてしまっては、修復するどころの騒ぎではないだろう。これは絶対怒られまくるパターンだわ。
だがそう思ったのはわたしだけで、意外にもヴェイドさんがわたしを庇うように前に出た。
「少し、新しい魔術実験をしていたもので……もう解除をかけたので、なにも危険はないとみなに伝えてくれますか。あと、ここを掃除してほしいので侍女を何人かこちらによこして」
「そうですか……かしこまりました。ですが閣下、あまり被害は出さないでくださいませね。ソイル様がお怒りになります」
ソイル様、という言葉を聞いた途端、ヴェイドさんは苦い顔になった。あまり仲のよくない人のことなのだろうか。
そして女の人は一礼して部屋を出て行った。
再び舞いもどる沈黙。うう、気まずい。
「……フィオナ」
「あの、ご、ごめんなさいっ」
低くうなるような声の魔術師に、謝るが勝ちだと悟ったわたしは、慌てて彼に頭をさげた。そんなわたしを見て、ヴェイドさんは深いため息をつく。
「大事がなかったから、いいものの。さっきはなにをしたの?」
まだその青紫の瞳からは剣呑さは消えていない。
「これを見ていただけよ……」
「なに?」
わたしがおずおずと差し出した魔術書を見るなり、彼はパっとそれを取りあげた。
「泥人形の召喚陣……なるほどこれか。いや、でもさっきのは――」
ヴェイドさんは顎に手をあててぶつぶつと考えこんでしまった。素材が足りないはずだの、必要魔力が膨大なはずだの、なにやら納得できないことが山盛りのようだった。
「あの、ヴェイドさん?」
やがて彼はわたしに向き直った。
「フィオナ、当分こんな真似はしないように。僕が魔術師でなければ、今ごろここは壊滅状態だ。怪我人どころか死人が出たかもしれない。少しは反省しなさい」
「……もうこんなことしないわ」
しょんぼりとうなだれるわたしの頭を、ヴェイドさんはやれやれといった様子でひとなでする。
死人が出たかも、という言葉を聞いて、わたしは興味本位で魔術に手をだしたことへの重大さを知った。多分、わたしが魔法陣をなぞってしまったせいで、何らかの仕掛けに触れてしまったのだろう。
やっぱり魔術って恐いかも。
もうこれからは、単純に本を眺めているだけにしよう。
わたしは、彼に取られたままの魔術書を返してもらおうと手を伸ばすが、ひょいと本を遠ざけられた。顔をあげると、またしても鋭い瞳。
「悪いけど、魔術書を読むのは当分禁止。触るのも駄目だ」
そんな!
唯一の暇つぶしを取り上げられ、わたしはどうしようもなく絶望に陥った。
「えっと、見るだけでも駄目なの?」
「駄目だ」
ヴェイドさんはきっぱりと言い切った。
「フィオナ、きみは本当に反省しているの? あと僕が傍にいるとき以外は、魔術書だけじゃなく、不用意に魔導具や魔方陣の類には近づかないこと。また暴走されては敵わない。いいね?」
有無を言わせぬ彼の言葉に、わたしはむっと口を引き結び、
「…………わかったわよ」
しぶしぶ返事をしたのだった。