プロローグ
※「水の魔術師」加筆修正版です。内容は以前とほぼ変わっていませんが、多少追加されたお話もあります。
いつものように悪夢から目覚めたとき、「逃げなさい」と母親が言った。
その言葉に顔をあげると、明かりのない陰鬱な部屋が今は弱々しい光に満ちているのが分かった。硬い鉄格子に反射して、きれいだなとなんとなく思う。
久しぶりに見る星空のようだった。
「よくお聞きなさい、フィオナ。今ならあなたを逃がしてあげられる。ここから逃げて、生き延びなさい」
「……お母さんは?」
かすれた声で問い返すが、母親は小さくかぶりを振るだけだった。
それを見たわたしは、力なく目を閉じた。横たえられた床の冷たさを自覚して、今日もまた生きていられたことに安堵する。
「じゃあ、わたしも逃げないわ」
お母さんと一緒じゃないのなら、どこに逃げたって同じだもの。
逃げのびたとしても、心が死んでいるのでは同じことだ。もうずいぶんと長い間、母親の存在がわたしの心の支えとなっていることに、わたしは薄々気づいていた。
わたしも母親も、なにも悪いことをしたつもりはない。でも、ここに捕らわれたときから、もう帰れないのだと覚悟していた。
あの明るくて、どこか切ない日々の頃に。
「駄目よ」と、母親が言った。「あなたは私ではないのよ、ひとりの人間なの。あなたは生きなくてはいけない」
どういう意味かと思ったとき、わたしは彼女の腕に引き起こされた。
部屋に満ちた光が、先ほどよりも強い光を放っていた。
一緒に捕まっていた“彼ら”が力を貸してくれているのだと思ったときには、既にわたしは母親にその場所から押し出されようとしていた。
お母さん、と叫んだような気がしたけれど、乾いた喉ではうまく言葉が出てこない。
そのまま“外”に押しやろうとする彼女の手を、わたしは拒んだ。拒んだけれど、抗えなかった。わたしの離れまいとする手をさらに押しやり、母親は呟くように、そして優しく言った。
――…。
お母さん。
次に目を開いたとき、飛びこんだのは夜に眠る街だった。
驚くほど静かな風がわたしを撫で、どこからか香る花のにおいがわたしを現実に引き戻した。
今までのことは、いっそ夢だったのだと言えたなら。
少しだけ茫然とした後、背後から聞こえる物音を聞いて、わたしは小さく体を揺らした。
――逃げなさい。
冷たい夜風を感じながら、わたしはその場から走り出した。