第七話:偽フランシスと偽バーテンダー
物を書く事が、単純に夢だったのは、何時までだろう?
それが大きな意味を持ち始めて、生きる事と同義になって……。
気が付いたら、泣きながら書いていた日は何時だろう?
誰に強制されてもいないのに、誰に急かされてもいないのに……。
……馬鹿みたい。
「で、わたしは何でお酒呑んでるのかな? ねぇ、波来くん。説明して?」
「ま、気にする事もないと思うけど……取り敢えず。何か話したがってるみたいだったから、舌先の潤滑液を提供してみた。そしたら、ちょっとバッドトリップ入ってるってとこだろうな」
駅を出て最初に目に付いたのはKラウンジだった。日も傾いてきたから、何となく入ってみた。何時もはクラブの方で働いている旧友の波来を見付けて、エスプレッソを頼んだ。波来がそんなに驚いた様子も見せないので不思議がっていたら、虫の知らせがあったと言い出した。で、適当に事の経緯を聞きながら話していて……気が付いたら、エスプレッソがカルーアミルクになり、今手元にあるのは、ルネッサンス初期の画家の名を冠したペリーニと言うカクテルだった。
「まあ、そろそろナイトドリンクの時間だったし、疲れてる時は、人によりけりだけど、酒が一番沁みるからさ……ウチのお袋の受け売り」
クラブで働いている時と同じようにグラスを拭きながら、波来が口を開く。今日はクラブの方じゃなくてKラウンジの仕事だったから、服装も黒いスラックスに無地のワイシャツ。ワンポイントでカドゥケウスのロゴの入ったネクタイを締めて清潔感を出していた。
「波来くんのお母さんって、バーを経営してるんだよね? 元気?」
「相変わらず。昼間は寝てるし、夜は真っ白で、まるでモーティシア」
「モーティシア? なんだっけ、映画だよね?」
「そ、リチャード・アダムスもびっくり。あ、お客だ。ちょっと外すよ」
接客の為に、波来が安栖里の前を離れる。酔ってもいないが、安栖里は再び、徒然な思いを巡らせ始める。
モーティシアか……数回しか会ってないが、安栖里の印象に残っている波来の母親は、確かにそんな感じだった。何処と無くヨーロッパを想像させる顔立ちに、年齢をわからなくするような化粧。浮いているような感じもしたが、高校の父兄参観で見掛けた時は、頭一つ抜け出して溶け込んでいるような、そんな感じがしたのを覚えている。
「社会人は偉いなぁ……学生はダメだなぁ……」
独り言はダサいけれど、やっぱり何か溜まっていたのだろうか、安栖里は久しぶりに、意味の無い愚痴を言っている自分を意識する。
思えば、波来とも久しく会ってなかった。安栖里と波来は中学から一緒だけれど、仲良くなったのは高校に入ってからだ。たまたま、同じ中学から進学した生徒が波来と安栖里とその他一名だった。それに波来は弓道部の男子に友達が多くて、何時も部活をサボっては弓道場に入り浸っていたクチだ。何で最初から弓道部に入らなかったのか不思議なくらいだった。
みんなと居た楽しい時間。高校時代が最高だったなんて、何だか現実逃避みたいであまり言いたくないが……思えば、自分が夢を目標に変えていったのも高校の時だった。
「ホント、沁みるよね……自分が情け無いよ、周りの友達は、みんな夢を現実にしてるのに……一人だけ高望みなのかな」
「お祈りでもしてるみたいだな、何もみんなが夢を叶えてるわけじゃないよ。ほとんどは発展途上ってやつじゃんか? 俺だってそうだし、安栖里だってこれからじゃん。人一倍大きい夢見てんだし、時間掛かったっていいんじゃねーの? 大体俺らまだ二十歳だよ? 二十歳。十代のガキとそんな変わんないって……一生懸命さと若さは違うんだしさ」
接客を一通り済ませて、波来が安栖里の前に戻ってくる。来る途中で、同じくKラウンジの手伝いに回されてる先輩に脇腹を小突かれた。それも思いっ切り。おまけに煙草の煙まで吹き掛けられるし……顔をしかめてるのはそのせいだ。
「その一生懸命が、わたしには大問題なんだなぁ……波来くんは、人に面白いものを伝えたいってずっと思ってたから、こうしてカドゥケウスで働きながら、宣伝とかマーケティングの勉強してるんでしょ? わたしなんて、『物書きになりたいっ!』なんて言ってるけど、実際それを世に出す活動してないもん。『まだまだ、まだまだ』って思ってるだけ、ホントは逃げ腰なんじゃないかな?」
波来は微妙に頭を抱えたくなった。自分も少しアルコールを入れようか? カドゥケウスは、客の求めに応じて、それぞれの客に応じた処方箋を使う裁量を店員に与えている。会社名の由来にもなってるギリシャ神話だか何だかに出て来る杖も、医者の神さまが持ってたらしい。社長の洒落っ気の意味が、波来にも少しだけわかった気がした。
となれば、やっぱ自分も呑むか……その処方は医療ミスかも知れないけれど、今日はこの考え過ぎの友人に、とことん付き合うのも悪くないだろう。
思い立ったら即行動。二つのグラスを合わせたようなカクテルシェーカーに氷を詰めて、ドライジンとクレーム・ド・バイオレット(スミレの花から出来たリキュール)。それからレモンジュースを流し込む。八の字では無いが見栄え良く見えるように背筋を伸ばしてそれらをシェイク。逆三角形のカクテルグラスに注がれたそれは、霞んだような夜の紫をしていた。
「綺麗だね、何てカクテル?」
「ブルー・ムーン(出来ない相談)。まあ、これも洒落っ気って事で……俺も呑ましてもらうっス」
話は聞けるが解決は出来ない。波来なりに精一杯背伸びした洒落だったが、安栖里にも、作った本人の波来にも今一伝わらない内容だった。実際呑んでみたら、分量を間違ったのか、思ったより苦かった……。
「昔から知ってる奴はみんな言ってるけど、安栖里は大物になれるって、俺らの中じゃ一番……感性が鋭い感じして、頭の回転も早かったしさ、部活の時もメチャクチャ真剣でかっこ良くてさ、的に当たるとか当たらないとかじゃなくて、その動作が良かった感じ? そう言えば、弓道まだやってんの?」
苦いのを誤魔化す為に、波来は饒舌になる。波来は話して誤魔化すタイプだった。
「弓道? 何だかんだで時間無くて、サークルも入ったんだけど、やめちゃった。射法八節も忘れてそう……でも、また始めたいなぁ」
「八節って、矢を放つまでの動作の事だよな? 足踏みとか、離れとか……あ、俺結構覚えてるじゃん」
「だから、弓道部入れば良かったのに。波来くんは、ここ一番の集中力があるタイプだったし、結構センス良かったと思うけどな」
クスクス笑いながら、安栖里が言う。波来は処方箋の効果を確かめながら結構上機嫌。一人で笑うのもありだけど、やっぱり人と話して笑うのが一番良い。
「バスケ部よりよっぽど顔出してたしな、まあ、俺の集中力はマジでやる気なものにしか発揮されないんだ。ココに就職出来なかったら、今頃ニート確実だぁな、ははは」
「じゃあ、波来くんは面接した人に足向けて寝れないね。そうだねぇ、やっぱ……好きな事を仕事にするのは最高だよ、うん」
『だから、波来くんが羨ましい』とは口に出さなかった。自分だって、好きな事を仕事にしようと頑張ってる。考えたって仕方ないと言うのは、あながち間違いじゃない。行動するのは基本的に良い事なのだ。じゃあ、何で自分の胸元には、変な魚の骨が引っ掛かってるんだろう……。
「バイト生。ちょっと、悪いけどこっち来てくれ」
「今行くっス。っとに、人使い荒いなぁ……安栖里。も少し呑んでく? 時間大丈夫?」
「大丈夫。二十歳になったら、今までが嘘のように、我が家は放任主義になったから」
「いやいや、良いご家族じゃん。ウチよりはマシだよ、それじゃ、まだオッケって事で……少し外すわ」
波来退場。話してて楽しい相手だと思う。高校の時から大学に入った頃まで、何か考えようとして、それが明後日の方向に行っちゃう前に止めてくれたのは波来だった。深く考えようとすると、枝葉が多くなって、何を考えてるかわからなくなる安栖里としては、とても良い友達の一人と言える。
だけど、やっぱり深く考えないといけないと思う自分は変えようがない。
物書きは生き方で、作家は職業だと思うと……何だかやり切れなかった。
自分の伝えたいものと、人が受け取るものが違うと思うと……何だか切なかった。
そんな風に思う理由が、自分の悪い意味での若さにあると思う事が多くなっていた。もっと色々知りたいと――大人になりたいと思った。その先には、また道が枝分かれしていて、行き当たりばったりで、自分の信じた道を進めと、感性が叫びだした。
だけどそれは逃げてるみたいに思えた。周りのみんながとにかく色々道を探してるのが凄いと思った。『勉強してないって言っても、みんな本当は勉強してる』ってよく親に言われたから、それに近い感覚かも知れない。
だから、また考え始めた。その内にどうしていいかわからなくなってきて、とにかく好きな事に打ち込もうと思った。
そうして気が付いたら、自分の書いたものをバックスペースで消す日々が待っていた。
「間違ってるから、マイナスの結果が出るのかな?」
そう考えると、ますますどうしていいかわからなくなった。臆病な自分がそこに居た。小動物みたいなイジられキャラの自分が居た。
誰かに背中を押してもらえるのを待つ自分が居た。
波来には悪いけれど、波来はやっぱり良い友達の波来であって、自分の背中をポーンと押してくれるような、そんな刺激を持った相手じゃないんだと思う。
「ヒドイ奴。自分が見えないくせに人間観察ばかりしてる……」
本当なら数十分掛けても美味しく呑めるペリーニを煽った。喉が焼けると、目の奥の方で水門が開きそうになった。
安栖里は知らず知らずに、全部独り言にして話していた。誰かに聞いて欲しいと、無意識に思っていた。
その頃。安栖里の座っている場所の向かい側で、波来は叱られていた。接客態度が悪かったらしい。
「バイト生。お前フォロー下手過ぎ。なんつーか、当たり障り無さ過ぎ。あれじゃ、悩み相談じゃなくて気を紛らわせてやってるだけじゃんか」
「っーか、先輩も盗み聞きはひどくないっスか? いや、うん。そうなんですかね、実際」
知り合いの接客をしてた先輩に呼ばれたのはおかしいと思った波来だったが、蓋を開ければお叱りが待っていた。先輩と、その知り合いのご夫婦は、最初から波来と安栖里の話を肴に酒を酌み交わしていたらしい。
それはそれでデリカシーに欠けるのだが、まあ、若いもんの話題が気になるのは、少しだけ年を食ったやんちゃな人たちの常だし、それが真心と言うやつの一つの側面でもあるから、波来は我慢して叱られる事にした。どっちにしろ、逃がしちゃくれないだろう。
「まあな、バイト生の歳じゃまだわかんねぇだろうけどさ……特にバイト生の友達は、まだ学生だべ? それでもそろそろ社会人だし、結構不安なんだっぺな」
何時の間にか地元の訛りが出ている先輩は、火の点いた煙草を指に挟んで黒ビールを呑みながら、波来を諭しだした。何だか、上手く言葉が選べないみたいだった。
「大人なんて言っても、色々居んだ。俺の周りは、まだ子供を引きずったような連中ばっかだしよ、それでもやってけるんだよ、実際。だけど、あの子は多分それがまだわかんねぇんだろうな……スゲー真剣に考え込んで、なんつーか、羨ましいんだけどよ、あれじゃ、その内体壊しちまうよ、バイト生はそれを無意識に紛らわしてやってんだろうけど、なんつーか、どうよ?」
先輩はギブアップして、知り合いのご夫婦に話を振る。波来はどうしていいかわからなくて、取り敢えず。先輩の『どうよ?』に付き合う事にした。
「私の経験だけどね……」
考えるフリして煙草に火を点けたご主人の隣で、奥さんが口火を切る。結構困ってる波来は、目をキラキラさせてその言葉を追う。口には出さないけれど、先輩は、こうやって真剣になってる時の波来が結構可愛いと思ってたりする。
「やっぱり、誰か見本になるような人が欲しいよね、天才でも無けりゃ、自分だけでずっと道を切り拓くのは無理だよ……人間ってさ、やっぱり弱いしね、そう考えると、その機会を神さまがセッティングしてくれるのを待つか、自分でそれを見付けられるように手伝ってあげるとか……まあ、最後は自分なんだけど、その過程で色んな人が助けてくれるのが理想だよね、うーん。ゴメン! 気の利いた事言えないなぁ、だけど、あの子は……何て軽く言っちゃうけど、結構こっちを気にさせる子だし、何て言うか、いじらしいよね、子供っぽいってのが正解かな? だから、神さまも助けてくれるんじゃないの?」
「最後は神頼みってか……」
ご主人が揚げ足を取ると、奥さんは本気でグーパンチをかました。
「まあ、そう言う感じだぁな、悪い! バイト生。お前の頑張りは認めよう。やっぱし、俺らでもお手上げだ。人生相談なら敏恵さんが居れば良いんだけどなぁ、バイト生も口が軽くなるし、お前……ぶっちゃけ年上好みだろ?」
ダメだ。こりゃ……波来もいい加減降参した。先輩はムラ気があり過ぎる。だけど、人の事言えんのかって思うと、波来は取り敢えず。感謝しとくべきだと思い直した。
「いや、年上とか関係無いし。取り敢えず。感謝っス。今の先輩……かなり男前。マジで」
「お前。本気で言ってねーだろ?」
「……あ、安栖里が退屈してそう。行かなきゃ」
「後で殺す」
波来が早々にその場を離れようと思った時。Kラウンジに新しい客が来た。
先輩と波来がきっちり笑顔を向けて……そのまま馬鹿みたいな笑顔で固まった。
「敏恵さ〜ん。喫煙席はぁ? まさかとは思うけど、しっかり分煙してるよね?」
「煙草ぐらい我慢しなよ、ただでさえスペース狭いのに、これ以上狭いとこ行ってどうすんの? わたしは暴れるよ?」
神さまは居るのだろう。物語を生きる安栖里の傍には、何時も神さまが居るに違いない。
突然の闖入者。華世と敏恵は、『あたしはマナー良き喫煙者だ』とか『だったら煙草やめるのが先』とか言いながら、Kラウンジの一番奥まった場所。今の今まで波来たちが話しをしていた場所を目指して歩いてくる。
「神降臨キター」
「先輩。今ので男前発言取り消し。でも、神さまってマジで居るのかな? ウチの親。神道だから、俺もいい加減信じようかな……」
相変わらず馬鹿みたいに固まった二人に気付いて、敏恵が笑い掛ける。思いっ切り呑みたがっている時の顔だった。メチャクチャ楽しんでる時の、もの凄く頼れる笑顔だ。
「やあ、万年平社員と調子込んだ若造。呑みに来たぞー、手土産持って、ね!」
「ちょっ!? 敏恵さんサイアク!」
敏恵が手の平で華世の頭をクシャクシャと撫でた。迷惑そうに華世はその手を振り払って、敏恵の傍から逃れる。崩れた前髪を直そうとして、その額の線と顔の輪郭が露わになった。先輩が、今度はマジで仰け反った。
「ヤベー。俺にも神付いてんじゃね? これ、マジだって! 今夜はスゲーって! 人生最高! ビヴァ敏恵さん!」
「は? ああ、マジだ。神さま信じた……Floristさんじゃん」
噛み合わない掛け合いを続ける二人を見て、敏恵はツボにはまったように爆笑した。
半分のけ者にされた形の安栖里は、今までの不安に輪を掛けて不安になった。『やっぱり帰ろうかな』とか思い始めて、考えてみたら、飲み会でも無いのにお酒を呑むなんて言うのは、初めてのような気までしてきた。……実際初めてだ。
ついさっきまでテーブルの向かい側で波来たちがボソボソやってたのも、自分の事を話してたんじゃないかと疑い始めると、何だか今度は、心細くもなってきて、情け無いけれど泣きたくなってきた。悪い方向にばかり想像が行く。まいってる証拠だ。
そんな安栖里の心境を知ってか知らずか、「呑む前から酔うなって……」とかぼやきながら華世が向かったのは、敏恵たちが笑い合ってるテーブルの向かい側。Kラウンジの一番奥まった場所。二席分空いてる安栖里の隣。
かなり心細そうにしてる安栖里の顔を見て、何か思い出したのか、それとも人が出来るだけ居ない場所を、何時もの要領で探したのか……。
近くまで来て、前を向いたままの安栖里の横顔を見る。華世は、今度は本当に何か思い出しかけたけど、その口を突いて出たのは、こんな一言だった。
「ここ、空いてます?」
「え……ああ、空いてますよ、大丈夫」
敢えて顔を向けようとしなかった安栖里も、話しかけられたらちゃんと正面から答える癖で、華世の顔を見返す。電車の揺れが、二人の間を通り過ぎた気がした。
『あ、電車に乗ってた人』
それが二人の初めての会話。思えば、最初の邂逅のインパクトに比べて締まらない出会いだった。