第六話:REC
カツカツと、ピンヒールが苛立ちを刻む。
広いスタジオは、音の伸びを重視した板張りの床。基本的に個人に貸し出すような規模ではない。銅鑼まで用意したドラムセット。プリセットで膨大なエフェクトが用意されたエフェクター。何十チャンネルもの音源をストレス無く繋ぎ合わせるミキサー。どれもこれも、高い金の掛かった機材だ。
「……野島! 華世はまだ捕まんないの!?」
盛大なアルトの怒鳴り声に、Kスタジオ所属のエンジニア。通称・ド近眼の野島は、実はあまり度の強くない眼鏡をしきりに上げ下げしながら答える。
「電話通じないんですよ、菱枝さん」
野島の言い訳を聞きながら、ピンヒールの持ち主。菱枝敏恵はこめかみを揉み解す。菱枝は、カドゥケウスで主に企画を担当する部署に所属する女性社員だ。元々は大手のレコード会社でプロデューサーをしていたのだが、様々な角度でリスナーに音楽を提供するカドゥケウスの姿勢に共感し、転職してきた。
マーメイド風の古風なスカートに、腰から下腹部を細めに演出するボタンダウンの前合わせジャケット。今一つ時代性を感じさせない黒の服装。しかし、モルフォ蝶みたいにキラキラする生地から読み取れる性格は、古風なれど新風を好む。温故知新の人柄。そこいらの娘には負けないと言う自己主張を感じさせる少しキツめのマスカラ八頭身美人。
「この前の祭りで遅刻しなかったから、少しはマトモになったと思ったんだけどな」
波来がバーテンを勤めていた祭りの企画をぶち上げたのも、この菱枝だった。
カドゥケウスに移って二年。ようやく切れ者として認められ始めた菱枝が、目下気を遣っているアーティストが、Florist。野宮華世。
豪華クルーザーの夢と安定性を捨てて、菱枝がメジャーを去った見返りが、ようやく目の前に現れた。菱枝にとって、華世の価値はそれ程のものだった。が、実際のところ。一分の隙も無くスケジュールをこなすぐらいのプロ意識は持って欲しいと言うのが本音だ。
『仕方ないと言えば、仕方ない。けれど、芸術家ってのはどうしてこう……』
いい加減ピンヒールも折れるか、磨り減るかと言う頃。スタジオのドアが控えめに開いて、黒のキャミとスリムなデニムに身を包んだ華世が入ってくる。
スポーツタイプのサングラスが、服装と素敵にマッチングしていない。
「遅くなりましたぁ」
「遅い!」
「はいはい。反省してます」
「嘘言うな!」
「だってさー、眠かったし、電車気持ち良いし、変なのと目が合うし……あ、幻覚だったかな? 取り敢えず。乗り越しちゃった。三駅ぐらい」
青筋を立てながらポカンとする。と言う稀有な表情浮かべる菱枝を横目に眺めながら、野島が口を挟む。
「まあ、その、時間も押してますし、取り敢えず録っちゃいませんか?」
こめかみを揉み解しながら、菱枝も頷く。
「取り敢えず。向こうに冷めて濃くなったコーヒーがあるから、それで目を覚ましなさい。野島。わたしのコーヒー淹れ直して、砂糖控えめクリームたっぷりで」
「うわ、そう言うのを、えげつない。って言うんだよ、敏恵さん」
「うるさいなぁ、歳取るとね、意地悪になるもんなのよ」
奥のブースでコーヒーを淹れ直しながら、野島は歩いてくる二人を見比べる。さっきまで怒ってた菱枝の機嫌も何時の間にか直ったらしい。何だかんだ言って、華世は、人を選ぶが人に好かれる性格なのだろう……それって結局どっちだろう。
「取り敢えず。生音は出来るだけちゃんと録りたいんだ。特にドラムは、あんまり作り物っぽい音にしたくない。サンプリングされた音じゃなくて、ちゃんと空気の振動にしたいの、それに、ちゃんとバンドっぽい音にしたいから、ギターもベースもスタジオで一緒に録ろうと思ったんだ」
「まあ、大体は出来ますよ、ただ、華世ちゃんの作るスコア(楽譜)って、やっぱりライブ向きじゃないですよ、基本的にパソコンで打ち込みする事が前提になってる感じ」
「そうかなぁ、だけど、今回は結構簡単に作ったよ? ギターだって、あんまりウネウネさせてないし、ドラムは、まあ、陸上競技やると思えば大丈夫だよ」
「テンポ200でバスドラム走らせてたら、誰だって疲れます。リスナーも疲れます」
華世が希望を述べて、野島がそれに反論する。確認はそれなりにしたはずなのに、レコーディングは録る前の段階で躓いた。
今回のレコーディングは、華世の新しい名義で出すアルバムの為に行われる。クラブ関係の名義であるFloristに並行して、今度は少しJ‐POPやロックよりの楽曲を中心に発表する予定だった。仮名義はRosarian(バラ愛好家)。菱枝としては、もう少しライトな感じのネーミングで、一般受けを狙いたかったのだが、華世は譲らなかった。
最終的には菱枝もそれに納得した。別に売りたいわけじゃない。華世の持論は尊重すべきだろう。それでも、もう少し欲深く行きたいと思うのは、今まで売り続けてきた自分への擁護だろうか?
「あのさ、敏恵さん? やっぱり今回キャンセルにしようよ、こんな感じだと、わたしいい感じで歌えない」
下から機嫌を伺うように、椅子に座った華世が、ボソボソと甘えるように声を出す。
ブースの壁に寄り掛かって甘いコーヒーを飲んでいた菱枝は、特に表情も変えずに頷いた。
「どっちにしろ、一曲録れるかどうかの時間しか残ってないしね、今回は話し合いだけでいいでしょう」
「菱枝さん!」
今度は野島が食って掛かる。大体。最初に怒ってたのは菱枝の方だ。納得行かなくても仕方ない。
「野島。まあ、華世も悪いっちゃ悪いけど、ココはカドゥケウスでしょ? いいじゃない。少しぐらい声出す連中のワガママ聴いてやっても」
「だけど金は掛かります。カドゥケウスだって、会社には違いないじゃないですか、それに、最初に怒ってたのは菱枝さんですよ?」
「まあね、わたしもいい感じに毒されてきたって事だよ、この会社にさ、取り敢えず。スタジオの片付けは華世にやらせるから、今回は上がっていいよ、悪かったね、今日は」
「……いえ、別にいいです」
そう言うわけで、Rosarianの最初のレコーディングは、録音前に中止となった。
蕾の薔薇の色はわからない。少し時間を掛けた方が、大輪になる可能性もある。甘いコーヒーを眺めながら、菱枝は考える。結局。自分の判断は正しかったのかと、一昔前なら、限界まで録りまくって、声が出なくなったら、今度は声帯を拡張させる薬を飲ませたりと、無茶やって恐れられた菱枝だが、カドゥケウスで働く内に毒気も抜けてしまった。
ド近眼の野島は、少しだけ、ほんの少しだけ、昔の自分に似ている。だから、ココではド近眼と呼ばれるのだ。
結局。聴き手を意識する前に、歌い手もまた、一人の聴き手だと言う事を忘れてはいけない。嫌々歌わせても、歌い手である聴き手は、嬉しいとは思わない。ビジネスは厳しくあるべきだが、商業芸術とでも言うべき一連の業界においては、それだけじゃダメな部分もある。
責任らしい責任を感じているのかいないのか、華世はせっせと楽器の片付けを続けている。野島は機材の電源を落として、約束通りに帰らせた。
数本用意されたエレキギターの前でしばらく思案顔をしたかと思うと、おもむろに一本を手に取る。
「fホールのスタープレーヤー。これまたいかにもなギターですなぁ」
イタリック体で書かれた『f』形の穴がボディに開けられたそのギターは、日本でも三本の指に入る扇情的な女性シンガーソングライターが使用している事でも知られている。
美しいラメ入りミントのボディは、添加物がたくさん入ったキャンディのようにも見えて、その風貌からか、会社の名前をもじってディートリッヒ坊やと呼ばれたりもしていた。
ボディに穴を開けたギターは、ホロゥボディと呼ばれ、ボディの穴によって音は滑らかかつソリッドに伸びる。アンプを使わないとやはり音は弱いが、華世は気にした様子も無くピックを手に取って、手近な椅子に腰を下ろした。
牧歌的。もしくはカリフォルニア調とでも言うべき静かで単調なフレーズ。ギターを手にしたての高校生か中学生が、もしかしたら練習しているかも知れないメロゥな感覚。
「She is crying……」
菱枝にとっても懐かしい曲だった。この曲を歌ったバンドが解散してから何年経っただろう。自分が前の会社を辞める数年前だったと思うけれど、思えば、菱枝のお気に入りの曲の中に、自分がプロデュースした歌手のものは無かった。
メキシコの砂漠だか何処かで泣いている女の子の歌。もしくは、甘い日々とロックンロールへの賛美。そんなメッセージの歌詞が、Kスタジオに溢れる。マイクを通さなくても、元々音の伸びが良いスタジオだ。もっとも、それ以前の理由だけれど、
しばらく放っておこう。どっちにしろ、自分も他の仕事は入っていない。そう思った菱枝は、適当にコーヒーを淹れ直そうと、ブースに戻る。やはりコーヒーは、自分で淹れたのが一番美味い。
「劇場型の生き方って、苦労も多いでしょうね」
インスタントコーヒーを濃い目に淹れて、砂糖少々クリーム多めのセッティング。野島のコーヒーは甘過ぎた。菱枝の好みは、甘いコーヒーではなく。柔らかなコーヒーだ。
「夜のベールの中で、四角い空を見ていた。
考え事するには、野暮な時間なのよね、
空が白む頃。眠る準備をし始めよう。
誰かが起きる前に、わたしは眠ろう。
大切な人を散りばめた空が白む頃に、
わたしは一人で眠ろう……」
流れる曲調が変わっていた。技巧派とまでは言わなくても、凝ったフレーズだ。複雑過ぎて、聴いていて疲れる感じの曲調とも言えるけれど、高音を多用している分。柔らかくはある。
「初めて聴くわね、それは誰の曲?」
気付いた? と言いたげな華世の顔。思ったよりも、この子は子供なのだと、菱枝は改めて思う。それなりに出来上がったような言動も多いが、それもポーズか何かなのだろう。
「わたしの曲。だけど、何時作ったかは忘れちゃった」
「今回のアルバムに入れるの?」
「ううん。あんまり面白くないから、いいよ」
「そう」
菱枝は軽く言って、コーヒーを啜る。会話の主導権は華世のものだ。華世が何か話したいならば、もしくは話したくないならば、菱枝はそれに従う。
「敏恵さんはさ、この仕事面白い?」
「……最近は面白いかな、他の稼ぎ口が無いわけじゃないけれど、今のところ。変えるつもりも無いよ」
「わたしも面白いよ、けれど、最近は少し考え過ぎかな? 理由は要らないとも言えるけれど、言っても嘘だよね、理由が無い時は、充実し過ぎて理由が見付からないだけなんだと思う。だけど、理由探しって、やっぱり疲れるんだ。まるで他人みたいに、自分が自分に質問するみたいで」
「惰性で続けるよりは良いんじゃない? 夢ってのは、ただ無責任なものじゃないもの」
「成長したなぁ、わたしも、だけどね、やっぱり惰性で夢見るのも良いな……なんて」
「楽しさは大事よ、仕事に張りが無きゃ、歳取るもの早くなるだけ、まあ、華世もそろそろ色々決める歳だしね、もう少しブラブラしてても良いとは思うけれど」
「フリーターは嫌だな、職業の欄に無職って書きたくないし」
「そっか、まあ、そうだなぁ……取り敢えず飲もう。Kラウンジ辺りで」
「おじさんみたいだよ、敏恵さん」
「何言ってんの、大学生なら飲み会ぐらいやるでしょう」
「わたしはそう言うの嫌いなの。それにしても、カドゥケウスって、随分手広く商売してるよね、びっくり」
「音楽。出版。広告にイベント関係に飲食業。銀行屋以外何でもござれよ、地域密着型総合文化発信企業だからね」
「あー、そう言う難しいのはダメ。よし、取り敢えず飲もう!」
二人が飲みに行くと決定する前に、話ながら二人は歩いていた。スタジオの片付けは、ギターを仕舞うだけで終わりだったし、確認するまでも無く。二人は飲みに行くと決定していたようなものだ。
Kラウンジは、Kスタジオの向かいにあるカフェラウンジだ。むしろ、スタジオもライブ会場もクラブも全て、大きなビル二棟に収められているのがカドゥケウスの全体像であり、総合文化発信企業の名前も、あながち間違いではない。
スタジオの施錠を確認して、二人は姉妹のように連れ立って歩き出した。
今夜は、長くなりそうだ。