第五話:イヤホン<ヘッドホン
夕暮れから宵の入り。空の色が一番深みを増す時間帯。ともすれば薄ら寒い逢魔ヶ刻。または切れそうに切ない時間帯――電車は空いている。
もっとも、空いている電車以外は乗らない主義の人間にとっては、電車が空いているのは、逆説的に当然の事だ。空いた電車の為に、一時間でも二時間でも見送る人間の類にとっては……。
耳栓のようなインナーイヤーヘッドホンを耳に挿し込み。安栖里は電車の窓から外を見やる。何時も通り。何処か眠そうな雰囲気に戻った瞳に写るのは、映画フィルムのような窓から見える。八ミリの景色。
そのどれも、印象に残らず流れていく。まさしく。万物は流転すると言う事か、思考も何も、全てが溶け出す。今日のレポートも、大した事じゃなくなる。
耳元で流れる大音量。普通のイヤホンなら、確実に車両中に響き渡るであろうアイリッシュの歌声も、透明なアンプルのように、安栖里の耳に流れ込む。電車の揺れと同期して、三半規管が酔い始める。
少し。音量が大き過ぎた。安栖里は胸元のペンダントヘッド――のような意匠を凝らしたメモリオーディオに手をやる。音楽は、常に人の傍に在ろうとする。人がそれを望むのだ。楽団を引き連れた時代はとうに過ぎ去り。今ようやく。音楽は人肌に戻った。
その先。それは、インプラントやタトゥのように、人の中に入り込む音楽?
『さすがに錯覚か、元々。音楽は、人の内面から発生するもの。鼓動自体が……』
そこまで考えて、安栖里はこめかみを押さえる。自由に思索の糸を伸ばすのは楽しいが、下手に考えを放置すると、何時の間にかそれは、オカシナものになってしまう。
多分。疲れているのだろう。安栖里は、普通の人がするように、自分の感覚に折り合いを付けて、車内を見回す。
見事に人が居ない。自分以外の乗客はただ一人。自分の座っている長椅子の、ちょうど対角線側に、自分と同じくらいの年恰好の女性。
随分大きな、そして、高価なヘッドホン(確か、完全に周囲の音を消すと言う売り文句の)をして、目を閉じて足を組んで座っている。飴色のロングヘアーが似合う。小柄と言うか、華奢な感じの人だ。
タイトなシルエットのデニムパンツと、シルクのフリルをあしらったシンプルな黒のキャミソール。偶然ながら、安栖里も似たような服装。ヘッドホンのプラグは、胸元のペンダントヘッド――のような意匠を凝らしたメモリオーディオへ伸びている。
ここまで来れば、偶然は偶然じゃなくなる。安栖里は物語を生きていると確信して生きているから、なおさらだ。
『こう言う時間があるから、人生は面白い』
出会いと呼べない一期一会が、人生には適量のスパイスになる。たまたま、自分と似たような感じの人間を見掛けるだけでも、人生が潤う事もある。
普段なら、知らない人の顔など見ない。むしろ、人混みで偶然視線が触れただけでも気まずくなるような安栖里だが、外の景色を見ながらも、何度かその人に視線を向けてみた。
電車が、街の中心部の駅名を告げた時だった。眠っているとばかり思っていたその人が、パチリと目を開けた。前から安栖里の視線を感じていたと言いたげに、少し不機嫌そうに細められたその目は、確実に安栖里の視線を捕まえる。
気まずさが一気に押し寄せる。安栖里は自分の感性を久しぶりに呪った。自分の行動が、社会の規範から逸れているとまで思った。
確かに、見ず知らずの人間にジロジロ見られて嬉しい人は居ないだろう。
電車が止まるとすぐに、如何にも普通を装って、安栖里は電車を降りた。本当は、後三駅は先で降りるのだが……。
そそくさとプラットホームを横切りながら、安栖里は考える。どうせだから、エスプレッソを飲んでいこう。