第四話:枠物語
「枠物語とは、千一夜物語や、幾つかの日本の古典に見られるように、一つの物語の中でもう一つの物語が語られるような読み物を指す。と、私は教えたはずです。講義のノートを見直しましたか?」
目の前の初老の教授から目を逸らし、小さな部屋の中を見回していた安栖里は、その声を聞いて俯く。寝不足の目元は、前髪の影になって、少しばかり剣呑な雰囲気だ。
「今回のレポートの課題は、『枠物語の例とその考察』でしたね、何時も寝ているからわからなかったかも知れませんが……」
安栖里が答えないのを反省と取ったのか、小言が趣味の老教授は、再び出来の悪い生徒を諭し始めた。
「で、君の出したレポート。枠物語の例は、自分の生活? で、時々思うのは、自分は誰かの書いたものの中で生きてるんじゃないかと言う感覚? なかなかに詩的だけど、ちょっとこれだと受け取れません。もう一度書き直して提出して下さい」
後は何だろう。何時も寝ていて、出席回数も足りないこの生徒を反省させる方法としては、やはり単位の話に持ち込むべきか……。
老教授の思案をよそに、安栖里はスパッと顔を上げるとこう切り出した。
「すみませんでした。取り敢えず。書き直してきます。予定があるので、失礼します」
回れ右。止める暇もあればこそ、安栖里はさっさっと研究室を後にした。後に残った老教授は一人。最近の学生はやっぱり礼儀がなってないと思うばかり。
キャンパスですれ違う人が自分を避けて通る。知った顔にも何人か会ったが、触らぬ神に崇り無し。とでも言った感じで、皆一様に顔を合わさない。今の自分がどんな顔をしているか、安栖里には大体想像出来た。元々切れ長の目だけに、機嫌が悪いと、なおさら迫力が出る。自分としては、柔らかくも凛とした顔だと思っているのだけど……。
『……まいったなぁ』
とは思っても、どうにも気分が優れない。取り敢えず。学内でも人気の無いカフェの前の灰皿で、安栖里は歩を緩めた。煙草を止めてしばらく経つ。もっとも、吸い始めたのも、つい最近のようなものだが……。
「やっぱり、ああ言うもの頼ってちゃ、人間ダメになるだけだし」
わざと棘のある言葉を使って、鞄の中にまだ一箱残った煙草から意識を引き戻して、安栖里はカフェの中に入っていった。カフェの店主は、どちらかと言えば生協が似合いそうな中年のおばさん。
「エスプレッソ一つ下さい」
一声掛けてたっぷり十分待たされ、エスプレッソが出来上がる。その辺が、この店の人気が無い理由なのだが、安栖里としては、細かくオーダーを聞くコーヒーショップに行く客のように、コーヒー一つで、自分の個性を表現しようとする人間の方がどうかしていると思えて仕方ない。
本物のエスプレッソを入れる人間を、バリスタと言うが、この生協が似合いそうなおばさんも、なかなかのバリスタだ。電気式ではなく。直火式のエスプレッソマシーンで淹れられたエスプレッソ。淡く浮かんだ狐色の泡の表面には、梅雨明けを象徴するような風鈴のラテアート。毎度の事だが、こんな小さなデミタスカップの中に、これだけの絵を描くおばさんの技量に、安栖里は驚かずに居られない。
誰も居ないカフェの、それでも奥の壁際に腰掛けて、しばらくカップに見入る。
冷めるかな? と思いながらも、ちょっと飲むには惜しいので、安栖里は色々と考え事始める。やっぱり、何時も寝ている自分にこそ、否はあるのだろう。まあ、レポートの出来自体は、自分としては気に入っていたので、癪に障るものもあるけれど、
関係無いけれど、コーヒーで自己表現を行う人たちも、まったく悪くは無いのだ……。
「お客さん。コーヒー冷めるよ?」
「え? あ、はい」
客が居ないのは、やはり暇なのか、バリスタにして中年のおばさんである店主は、おばさんの心情を全身に浮かべて、安栖里に話しかけてきた。
「雨が止んで良かったねぇ、空梅雨だと思っていい気になってたら、今度は雨続きじゃ、洗濯物も乾かないし、困ってたんだよ」
「でも、梅雨はやっぱり雨が降らないと、急に夏になったら、もったいないですから」
「もったいない?」
多分。風鈴のラテアートの事が頭にあったからだろう。安栖里は、深い意味を持たせずに、もったいないと呟いていた。
「やっぱり夏は、大事にしたいじゃないですか」
特に意味は無いですけど、と付け加えて、安栖里はエスプレッソに口を付ける。
「それが若い証拠だよ、おばさんの歳になると、夏は暑いだけだよ、蚊も出るし、生物は腐りやすくなるし……」
おばさんとは、超現実主義者の類義語だ。安栖里は、バリスタとしてのおばさんの余韻と共にエスプレッソを飲み干すと、良い時間をくれたお礼に、釣り銭が出ないようぴったり三百四十円を払い。カフェを後にした。
週末の大学。それも夕方となれば、騒がしい類の学生はほとんど居なくなる。梅雨の雨上がりらしく。少し冷え込むキャンパスを一人で歩きながら、不意に安栖里は、自分の視点が自分を離れるような錯覚を感じて立ち止まる。
『枠物語。か』
漠とした頭で考えながら、安栖里は歩く。自分は、誰かの書いてる物語の中を生きてるんじゃないだろうか……誰かが書いてる。と言うのが不適当だとすれば、自分が書いてる物語の中を生きてるんだと思う。
『エスプレッソ。もう一杯飲んでくれば良かったかな』
自分の知ってる店で、他にエスプレッソが美味しいところは何処だろうと考えつつ、安栖里は駅に向かうのだった。