第三話:電波娘は『la-di-da』の夢を見るか?
――説明補足。
第三話をもって、この小説の主要な人物が全て(予定)登場します。一人は、第一話の最様安栖里。一人は、第二話の入江波来。一人は、今回の第三話の野宮華世。以上の三名が、この小説の主役級と言う事になります。
『人間と言う生き物は、何考えてるかわからない生き物。何か求めずに居られない生き物。欲張りでワガママで、そんな安い言葉で終わらないぐらい。どうしようもない生き物なんだと、先生は言っていました。人生の先生は、言っていました……』
神様が見えた気がした。時々うるさい車の音が窓の外を通り過ぎてゆく。
バッドトリップしてるって実感してる。足の間がヌルヌルして気持ち悪い……。その間で動き回ってる自分の指が芋虫みたいで嫌。それは要するにカフカの哲学?
ヒュウ。と息を吸い込む自分が居て、その数を数えてる自分が居る。芋虫はだんだん。羽毛の手触り。一呼吸で超えられる。インスタントな神様に会えるよ、すぐに……。
壁際で寝てる彼女。両足を突っ張って、背筋がビンと伸びる。
――それで終わり。インスタントな神様はケチ臭いから、そこから一時間の自己嫌悪。
イギリス産の細長い煙草に火を点けながら、彼女は友人の言葉を思い出してみた。
彼女の友人の言う事には、誰でもやってる事でいちいち悩むのは、神経が細過ぎるんだって事らしい。このご時世に姫は流行らないし、撫子は必要とされないんだから、何も古風に生きる事は無いって事だ。オートクチュールにせよ、ノンブランドにせよ、要らなくなったらクローゼットの飾りに成り下がる。
今はただ、そのサイクルが早いだけ、生き急いだ人たちがその好例。練炭囲んでバーベキュー。なるほど、良い哲学をしてる。
「……汗かいた」
我らがお姫様は切り返しが早い。根元まで大分残った煙草を灰皿でもみ消すと、さっさとシャワーを浴びに部屋を出てゆく。
核家族のお姫様のお城は、二階建ての小さなお城。広いお庭がご自慢で、四季咲きのバラがそろそろ競い合うように、無秩序な統一感で庭を飾り始めるだろう。
駅遠し、街遠し。僻地系のニュータウンに立地。お隣さんは熟年ご夫婦でとてもいい人。
ベッドを置いた部屋の壁紙は生まれた当時のままの白。普段使ってるところを飾るのは落ち着かないから、部屋の東側。壁際にベッドが置いてある。西側には家具類。20型のテレビ。薄型液晶なのは、自慢と言うよりスペースの問題。バイト代と、両親からの将来的な投資によって買い揃えたサラウンドシステムが、部屋の四隅を狭めている。
さて、お姫さまの正体を明かす時間だ。現在シャワーを浴びているこの部屋の主の御名前は、野宮華世。時にFlorist(花屋)であり、その他別名義多数で活動中のDJ……本業は大学生。
シンプルを基調とする彼女ならば、本来。これ以上の説明は好まないだろうが、身長160cm。体はスレンダーと言うより華奢かも知れない。丸みも無いが、角も無い。人間と言うより、イングランド伝承に出て来る有翼の生き物に近いと、彼女の知人は評した事もある。小顔。肩甲骨を隠すくらいの、飴色のロングヘア。顔立ちは端正。基本的にコンプレックスは無いが、実は自分のエクボが嫌い。将来計画として、もっとクールになる予定。
冗長な紹介の間に、華世が階段を上る音が聞こえてくる。最小限の音でドアを開けて、薄い青のパジャマに着替えた華世が部屋に入ってきた。
髪の水気をタオルに吸わせながら部屋を見渡せば、『たった今受信しました』と言わんばかりに、机の上で携帯のランプが点滅している。どんな場所でもマナーモードの携帯は、バイブレーション機能さえ切ってあるせいか、持ち主へのレスポンスが非常に遅い。
一体何時メールがあったのか? 学校帰りの電車の中か、家路に付く途中か、それとも十秒前か、華世本人にさえわからないが、取り敢えず。髪を拭く手を止めて、華世は画面に目を移す。題名は、『飲み会』だ。
同じゼミの子からのそのメールを、華世は本文を読まずに消した。
不必要な人脈を作りたがらない性分の華世は、敢えて大人数のクラスを選択したのだが、それが裏目に出て、幹事気取りや学生至上主義者。仲良しマニア等のアジテーターたちが何かに託けて打ち立てる飲み会のお誘いに悩まされる事になってしまっている。
そんな人たちを、華世はMASSと名付けた。意はそのまま『大衆』だ。
付き合いが悪いと言われるのは少々腹立たしいが、お互いに顔を合わせる度に、当たり障りの無い話に花を咲かせて、何が楽しいと言うのだろうか? それに比べれば、多少の風当たりの強さは我慢出来ると言うものだ。
風呂上りの、何か荷を降ろしたような爽快感を乱されて、華世は少しご機嫌斜めになる。画面に映り込んだ自分の顔は、小さな四角形の中で、窮屈そうに顔を顰めていた。
……ふいに、携帯のライトが再び点滅。今度はメールじゃない。着信だ。
華世は、ちょうど自分の額に映った相手の名前を確認すると、無音のコールを三回待って、応答ボタンを押す。
「もしもし」
『もしも〜し、華世さぁ、またMASSのお誘い断ったろ? 連絡してもらわないとこっちも困るって、あの子怒ってたよ〜』
「貞子から連絡しといてよ、わたし忙しいんだ。こう見えても」
電話の相手は臼井貞子だった。華世の言うところの、当たり障りの無い話の要らない人種。すなわち友達。小さくて繊細な華世に対して、貞子は逞しいと言える程の女性だった。高校時代は、ソフトボール部の豪腕投手として、県下最多の奪三振率を誇ったと、本人は未だ自慢げに話す。しかし、その部活も、高卒を機にあっさりと辞めて、華世と同じくBランクの文系私大を受験した。別にソフトをやらなくても生きていけるからだと、貞子はさっぱりとした調子で、華世に言ってのけたものだ。
華世はそんな貞子が気に入っている。付き合いは大学に入ってからだが、旧知の仲のような間柄だ。
『はいはい。華世が忙しいのは何時もの事でしょーが、そんなに生き急いでどーすんの? って、んな説教する為に電話したんじゃなかった。……あー、面倒だなぁ、またMASSの愚痴聞かされるよ、ってか、思うんだけどさ、何であたしが華世のフォローしてんのかな? オカシクない?』
こっちの話も聞かずに、貞子は一方的に話しまくる。だからと言って不快ではない。当たり障りの無い話と、友人との無意味な会話の最大の違いは、そこにある。
「感謝してるよ、だから、今回も出席はパス。貞子もたまには無視したらいいじゃん」
『あっさり言うなー。あのね、世の中ってのは、華世が思ってる以上に繋がってんだよ? 袖触り合うも他生の縁だっけ? ほら、語学の田代が言ってたじゃん』
「俗世の理論は鵜呑みにしない性質だから、わたし」
『うわっ、始まったよ、アーティスト的発言。それをマジで言ってる人間は、あたしの知る内じゃ、あんた以外に居ないね……あー! しゃあないな、もう。わかったわかった。華世は、あんたの夢の為にあたしを犠牲にすればいいさ、んで、あたしはMASSに愚痴聞かされたら三倍であんたに返してやるー!』
「それは嫌。まあ、何時ものように、お願いしますよ、貞子さん」
『あいあ〜い。精々頑張りますよ、じゃ、MASSにはあたしからメールしとくから、ああ、明日はちゃんと学校来なよ? んじゃね』
プツンと、糸が切れるように電話が切れる。向こうが察したわけでもないのだろうが、正直。華世としても、そろそろ一人の時間に割り込みを掛けられたくないと思っていたところだったし、ちょうどいいタイミングだ。
皆が皆。貞子のように、自己と他者の境界をわきまえていたら、この世はまさしく華の世となるかも知れない。だけど、それは味気ない造花の世と言う意味なのかも知れない。華世は自分の考え方が、相変わらず何処かヒキコモリ的だと感じながら、部屋のオーディオを付けた。
――こんな時は、泣きの強い曲。それも、とことんハードなものに限る。
祭囃子を思わせるドラムの乱打。ディストーションされたギター。確かイスラエル出身のDJが『オーネロン』と叫びを上げる。どう聞いても、『All-night-long』には聞こえない。英語は、華世の最大にして最強の弱点だ。
アラビックな曲には、日本の演歌に通じる泣きがある。ともすればダラダラとしてとことんダサいフレーズに成り下がるが、極まればまさしく第七天国の心地良さ。日本人には理解し難い音波でもカクテルされてるに違いないと思いながら、華世はパソコンに接続したシンセサイザーの鍵盤をイジり始める。
今流してる曲の大本はCDだが、著作権保護なんて何処吹く風でプロテクトを外してある。国際法無視で、イジり放題だ。パソコンと電気関係。それからデンパ系のトリップなら、華世はお手の物である。……決してオタクなのではない。腕の良いDJの多くは、自ずから腕の良いハッカーの資質を備えているものだ。
パソコンの画面を跳ね回るフレーズの尻尾を捕まえて、今度はその頭と無理やり溶接。偏執的なまでにワンフレーズを繰り返させる。
『オーネロン』がグルグル回る。その間に、冗長なサビを全部削除してやって、華世は軽く無邪気な笑みを浮かべる。
説明なぞしたところで、伝わらないものは伝わらない。小説だって、似たような内容でも、行間に差があるから、売れるものと売れないものが出て来る。それと同じ道理だ。
だんだんとノッてきた華世は、今度はグチャグチャに音をエフェクトさせる。シンセサイザーについたツマミをグネグネさせるたびに、『オーネロン』は低音のデス声になったり、高音のアヒル声になったりを繰り返す。
「……飽きた」
そう一人ごちて、華世は『オーネロン』をいきなりストップ。そのまま譜面ごと消去。部屋に静寂が戻ってから、外の音が正常に聞こえてくるまで、軽く一分近く。お隣の老夫婦が起きていたとしたら、軽い騒音公害を与えてしまったかも知れない。
華世は、シンセサイザーをピアノモードにして、静かなタッチで鍵盤を叩き始める。
最初は、肩慣らしに『エリーゼの為に』なんかやってみる。途中で超高速の『猫踏んじゃった』を織り交ぜながら、華世は窓の外を見る。……今夜は半月だ。
月を見ると、平静と熱情が入り混じったような気分を感じる事がある。華世は、自分ほど掴み切れない存在を知らない。と言うより、華世に限らず。人は皆、自分の事が一番わかっていないのだとさえ、華世は思っている。
華世の夢は、現在越えるべきハードルをほぼクリアしている。自分は、音楽を奏でて生きていければ、それでいいのだ。何も、今のように、経済的に安定していなくとも、自分のやる事は一つしかないし、その基盤も、学生の内に獲得出来た。
もちろん。それに満足出来るほど謙虚な自分でも無い。どちらかと言えば、華世は、自分を欲深い性質だと思っている。
それでも、音楽なんてやめても良いと思う事もある。普通の商社に勤めて、三年ぐらいOLをやって、適当に同じ会社の男と結婚するのも、それ程つまらな人生だとは思わない時もある。もしくは、その両方の感情がない交ぜになっている時もある。
結局自分は、何を目的に生きているのか……深刻な意味ではなく。軽い気持ちで、そう思うのだ。もしかしたら、自分はかなり器用な人間で、ある程度なんでもこなせるから、そんな事を考えるのではないか、とか。実は分裂病質なのではないか、とか。色んな仮説を立ててみた事もあるが、結局自分は自分と言う答えしか出ない。
だから、考えても仕方ないのだ。生き方なんて、自然に生きてればオマケみたいに付いてくる。生ぬるいヒットチャートの上位に、『生きてる意味を知りたい』的な歌詞の歌がランクインする度。華世はこの世の住みにくさを感じる。
知りたければ、探せばいいだけではないか、悩む事がその方法なら、悩めばいい。一番怖いのは、『迷い』だ。はっきり言って、自分も含めて、人間の神経回路は、複雑になり過ぎたんだと思う。ちなみに、華世の思うところの『迷い』とは、どの楽器を使おうか迷うとか、ケーキ屋でどれを食べようか迷うとかの意味ではない。
根本的な『迷い』の正体は、即ち『停滞』だ。悩むにしても進むにしても、止まっている状態が、一番怖い。エントロピーは減らないのが物理学の常識だとすれば、止まってしまったら、待つのは熱的な死だ……冷たくなるだけ。
ふと、鍵盤を叩く手が止まっている事に気付いて、華世は舌打ちを禁じえない。
『迷い』が怖いと言っておきながら、自分が迷ってどうすると言うのだろう。今夜の月は、華世に青白い停滞を運んで来た。この前の満月は、華世にまっ黄色のトリップを運んで来たと言うのに……気まぐれな存在。気まぐれな隣人。月に意思があろうと無かろうと、華世があると言えば、白も黒になる。
ならば、そんな月に語り掛けよう。人間の話し相手は人間に限らない。
「静かにして欲しいなら、静かにしてあげる」
『月光ソナタ第一楽章』。ベートーベン作曲の、あまりと言えばあまりに似合いで、その反面とことん陳腐な曲を、華世は選んだ。弾き手の気持ちが篭らなければ、どんな名曲も堕すものだが、気持ちが篭れば、ドレミの歌が人を泣かせる事もある。
ならば、月に語り掛けるほどの気持ちを篭めれば、月光は間違いなく名曲だろう。
その夜。華世は月光の第一楽章のみを、時にアレンジを加えながら、月が沈むまで繰り返した。――月が応えたかは別として、次の日。華世は見事なまでの大遅刻を演じた。
Floristの正体は、まさしく花屋のように千紫万紅だったわけである。