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第一話:アッパー&ダウナー

 ディスプレイの前に居座ってる猫が気になって、何となく。安栖里は趣味に集中出来ない。猫の名前はポワゾン。家に来た当時。安栖里が適当に付けた名前だが、最近になって調べてみたら、香水の名前らしい。ついでに、毒草に関連した言葉であり。フランス語では「魚」の意味がある。

 ポワゾンの名前は、とってもしっくりしている。この子は、運が良い……。

「……」

 安栖里は、座っていた黒い丸パイプの椅子を引いて、ディスプレイから一定の距離を取る。身長170cm。大学に入って少し運動神経は悪くなったが、高校の頃は、長身を活かしてバスケで鳴らしたものだ……部活は弓道部だったけれど……。もともと食べる事に対して興味も無いし、不健康な生活が功を奏して体の線も細く維持出来ている。

 家でしか掛けない細い銀フレームの眼鏡と好対照の切れ長の目は、時々睨んでるみたいとか、いつも眠そうとか言われるが、基本的にコンプレックスではない。

 考えるとは無しに思案に耽る時の癖で、目尻から頬へと左の人差し指を滑らせる。滑らかだが、少し鉱物的な曲線の輪郭。繊細とも言えるが、少々神経質の気を含んだ顔の造詣。

 それでも瞳は優しい。ジェットの黒。

 ふいに、人差し指が跳躍。着地先はおとがいの先端。右手で、机の上の本を二冊手に取る。コクトーとサリンジャーが仲良く安栖里の手元に集った。

 本を読むわけでもなく本を読むと言う行為の矛盾は、この際なんら意味を成さない。

「リーズが聖女なら、フィービーも聖女か……ああ、アリスの姉さんは別格ね?」

 安栖里は本を右手で玩びながら、猫に話掛ける。猫は、最良の話し相手の一人だ。自己主張が少ない代わりに、こちらの首に思索の糸を巻き付ける。

 しばしの沈黙。読む気も無く手に取った本の文面に踊るのは、少しだけカラメルを想像させるような、作家と読み手が紡いだ思いと時間だ。

 安栖里の目が、好奇心に満ちて、潮が引くように優しさを醸し出して、いきなり潤むまで、多分。三分と掛からなかった。彼女自身の凡庸な悩みが、彼女自身に問い掛け始めたから……。

 彼女の悩みは尽きない。死んでから芸術家足るべきだと、彼女の手に取った本は言うのだろうが、この世の栄光こそが、あの世でも成功を約束するのだ。大体。今時の死生観で語るなら、人間など、死んで名を残しても、生前の自分へのメリットが無いではないか。

 だから、安栖里は思うのだ。このままでは居られない。極論から導き出される道は二つ。練炭の臭気か、観衆の熱気か。安栖里の物理学に、中間子は存在しない。

 やせ衰えた牝牛のように生きるだけなら、この国は居心地がいい。だが、一度夢を見れば、際限無い道のりが、この国には用意されている。夢を途中で投げ出すのは、誰もが言う程簡単ではないと、安栖里は心の底から思う。


「鈍色の猫の目に射竦められる。

 まるで、小さな世界を否定するかのようなその目に、

 停滞の意味を体で知った。

 詩人の血など……初めから流れている人間は居ない。

 それが嫌なら、わたしは上り詰めなければいけない。

 いけないのだけれど――」


 ディスプレイの文字列を朗読しながら、安栖里はバックスペースで、その詩を殺す。

 ここ最近は、その繰り返しだ。一億総作家時代とは言っても、本物とフォロアーの間には、誰が決めるとも無い線引きが為されている。それこそ、人間の文化価値を下げる差別的発言だとしても、自己に対する特別視が習慣となっている人種には、そうでもしなければ納得出来ない部分も出て来る時代だ。

 安栖里は、物心付いた頃から物語を生きてきた。人生は、即ち物語であって、生きると言う事は、この世で行われる全ての創作活動の中で、もっとも普遍的な行為だと言うのが、安栖里の自論だ。

 ありきたりでも、安栖里は自分の感性を信じている。何時かは、文芸。もしくは音楽で身を立てる。そして、その先で初めて安栖里は、コクトーやサリンジャーやヴィルカト。もしくは、かの無名の芸術家らの名簿に載れるのだと信じている。

 そう、現実と言うものを多少なりとも知った今でも、自分の方法論が、とことんアナクロで、とことん陳腐な使い古しだと知った今でも、

 パソコンラックから鈍色の目をした猫――ポアゾンが、猫撫で声で鳴きながら、安栖里の膝に飛び移る。最近丸みを帯びてきたせいか、バランスを崩してジーンズに爪を立てられた。

「あんたはとことんリアルだね、だから……すごく助かる」

 安栖里は、膝上のポアゾンを撫でながら、ディスプレイから伸びたイヤホンを耳に繋ぐ。最小化していたシーケンサー(電子音楽ソフト)を最大化すれば、書き掛けの楽譜が目の前にイマジネーションを提示してくれる。安栖里の顔は、作家のそれから、音楽家のそれに、ほんの半歩だけ近付く。

「悩んでも仕方ない。見えない努力を評価出来るほど、人は聖人足り得ない」

 最近の音楽は、明治時代以降の私小説に迫る勢いで、その身近さを増した。簡単なソフトウェア一つで、誰でも気軽に作曲が出来る。

「聴きたいの?」

 安栖里は、柔らかに笑いながら、ポアゾンの喉を撫でてやる。猫の自己主張はシンプルだ。喉を鳴らさせてくれるなら、何でも受け入れてくれる。

 イヤホンを引き抜いて、再生マークを軽くクリック。安めの内臓スピーカーだと、さすがに音が割れるが、未熟ながら大気に香気を含ませるに十分な音の波が、静かに室内を満たし始める。

 真下から天頂へと、緩やかな螺旋を描くソプラノのサンプリングボイス(収録済み声素材)が、優しいトランスへの誘導を始める。主旋律を担当するシンセの音色は、ピアノのそれを柑橘系のフレグランスに例えるならば、シトラス系の爽やかさだ。

 転調。無音。バスドラムとハイハットが無機質な音の下地を作り上げる。そう、有機質と無機質のハイブリットこそが、テクノの真髄だと言わんばかりに、

 そして、コンクリートの外壁に絡みつく蔦のように、バイオリンがドラムをコーティングする。エフェクトされたピアノが、お転婆なお嬢様のように、旋律にメリハリを与える。時々訪問するのは、インドか何処かの民族楽器だ。

 波打つようなリズムの繰り返し、寄せては返すダッチトランスの要素を含みながら、それでもフロアを沸かせる要素も忘れては居ない。アッパー&ダウナー。薬物的な繰り返しビートは、時に東洋的な調和を見せながら、サビへと階段を昇ってゆく。

「はい。お仕舞い」

 いきなり途切れてイントロに戻った曲を止めて、安栖里は呟く。もう少し先を作りたかったが、今日は終わらせなければならないレポートもあるし、正直。さっきのローテンションが尾を引いて気分じゃない。

「はぁ、世知辛い……」

 意味をわかって使っているかは別として、今日の安栖里の悩みは、それ程大きなシコリにはならなかった。

 仕方なく。自分を創作の徒として奮い立たせる数々のツールを片付けて、安栖里はイヤホンを挿し直すと、ポワゾンに退場願い。お気に入りの音楽を耳元に立たせて、レポートを始めるのだった。

 ――それが、今の安栖里の日常の一ページ。まだまだ先は長いけれど、触り程度の、安栖里の日常。普通と変わらないけれど、何かが違う。安栖里の日常。


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