第9話「依頼」
依頼を探しに行った日だった。
朝飯を食って家を出た。母さんは工房にいる。何かを削る乾いた音。
東通りを歩いて、仲介所の扉を開けた。
「おう。ちょうどいい、零時」
ゴンザが受付の向こうで腕を組んでいた。茶も飲んでいない。珍しい。
「何かあるか」
「依頼はない。だが話がある。座れ」
声がいつもより低い。椅子に腰を下ろした。
「ハンスが署名を集めた。南の森の三本爪の討伐。南側の農家を回って、二十軒以上」
来たか。
岩猫を仕留めた日、ゴンザは言っていた。これ以上広がるなら動かざるを得ない、と。あれからまだ日は浅い。だがハンスは毎日来ていた。毎日突っぱねられて、一人で通らないなら、数で来る。
「今日、持ってくるらしい」
「署名があれば出すのか」
「手続き上は、住民の総意があれば調査の格上げが通る。討伐への切り替えも、できなくはない」
「だが対象が確認できていない」
「ああ。だから今まで突っぱねてきた」
ゴンザが俺を見た。
「だが二十軒超えると突っぱねるだけじゃ済まなくなる。仲介所は住民のためにある。怖いと声を揃えてるのに何もしませんとは言えん」
「怖がってるのはハンスだろう。他は——」
「最初はそうだった。だが毎日回ってるうちに広がった。南側は牧場が多い。あいつらにとって家畜が全てだ。三本爪って言葉が頭にこびりついてる。中身は関係ない。言葉だけが残る」
ヤスが前に言っていた通りだ。言葉が一人歩きしている。
「お前が来る前に言っておきたかった。今日は荒れるかもしれん」
「……ああ」
茶を出された。黙って飲んだ。
昼前に、仲介所の扉が開いた。
ハンスだった。後ろに四、五人の男がいる。顔に見覚えがある。南側の牧場主と、丘の下の農家だ。
「ゴンザ。持ってきた」
ハンスが受付の台に紙を叩きつけた。名前がずらりと並んでいる。
「南の森の三本爪の討伐依頼だ。二十三軒。南側だけじゃない、丘の下も入ってる」
後ろの男たちが頷いた。全員、顔が硬い。
ゴンザは紙を手に取って、ゆっくり目を通した。
「確認する」
「確認じゃなくて出してくれ。岩猫の時にも言ったろう。あれとは別だ。南の森には、まだいる」
「根拠は」
「三本爪の痕がある。猟師のヤスが見つけた。でかい獣だって話だったろう」
「その足跡は消えたと報告が来てる」
「消えた? そんな馬鹿な話があるか。あの大きさの獣が消えるわけがない」
ハンスの声が上がった。
「足跡が消えたんじゃない。あの獣が消したんだろう。そういう話じゃなかったか」
ハンスが振り向いた。受付の隅に座っている俺に気づいて、足を向けてくる。
「零時。お前は何度も南の森に入ってるだろう。あいつがいるのか、いないのか。はっきり言ってくれ」
仲介所の中が静まった。
農家たち。ゴンザ。全員がこっちを見ている。指先が冷たかった。
——いる。
南の森じゃない。もっと近くに。家の裏の西の森に。毎晩、家の周りを歩いている。
人だった。母さんの弟子だった。危険じゃない。名前もわからない、分類できない存在。匂いを覚えている。母さんの匂いを。
それを言えるか。
誰に。どうやって。「あれは人間だったんだ」と言ったら、この人たちはどうする。信じるか。信じたとして、何が変わる。余計に怖がるだけだ。
「……南の森で足跡を追ったことはある」
嘘は言わない。事実だけを並べる。
「奥の方に痕跡があった。だが姿は確認していない」
——嘘だ。見た。金色の目を見た。
「今は痕跡も消えている。ヤスの報告通りだ」
嘘じゃない。南の森の痕跡は、あいつが自分で消した。
事実と嘘の境を歩いている。前よりずっと深い場所を。
「じゃあどこに行ったんだ!」
ハンスが声を荒らげた。
「いなくなったならそれでいい。だが証拠はあるのか。移動しただけかもしれない。森から出てきたらどうする。うちの家畜が——また——」
声が震えた。怒りの奥に、別のものがあった。
あいつは人を襲わない。俺は知っている。
だがそれを伝える言葉が、ない。
仲介所の扉が開いた。
ヤスだった。
帽子の下の鋭い目が、仲介所の中を一巡した。状況を読むのにこの男は三秒もかからない。
「ヤス、ちょうどいい」
ハンスが詰め寄った。
「お前が最初に見つけたんだろう。あの三本爪の足跡を。あいつはまだいるのか」
ヤスは動じなかった。帽子を取って、低い声で言った。
「俺が見た足跡は消えている。最後に確認した時には、何も残っていなかった」
「だから——」
「もう一つ」
ヤスが静かに遮った。この男が人の話を遮ることは滅多にない。それだけで、ハンスの口が止まった。
「お前の山羊をやったのは岩猫だ。俺と零時で確認した。爪の幅も深さも別物だった。南の森の獣がお前の家畜を襲った証拠は、一つもない」
「だが三本爪——」
「三本爪の獣は一種類じゃない。岩猫も三本爪だ。三本爪だから同じとは限らない」
ヤスの声は低い。怒ってもいない。ただ事実を並べている。山を歩き続けた男の言葉には、一つ一つに裏打ちがある。
「事実を言っている。不安はわかる。だが不安と事実は別だ」
ハンスは口を結んだ。納得していない。だが言い返す材料がない。
ゴンザが立ち上がった。
「署名は受け取った。調査依頼を出す」
「南の森とその周辺の踏査。三本爪の痕跡の有無。ある場合は規模と脅威の判定。それを冒険者に依頼する」
「討伐じゃないのか」
「調査が先だ。いるかいないかわからんものに討伐は出せない。だが調査の結果、脅威が確認されれば——討伐に切り替える」
ゴンザの声は低いが、仲介所の隅まで届いた。
ハンスは唇を噛んだ。
「……頼む」
ハンスの声がしぼんだ。怒りが抜けると、残ったのは疲れた顔だった。
ハンスと農家たちが出ていった。ヤスも黙って出ていった。俺に一度だけ目を向けた。頷きもしなかった。
仲介所に、俺とゴンザだけが残った。
ゴンザが茶を淹れ直した。二人分。
「黙ってたな」
「……ああ」
「ハンスに訊かれた時——姿は確認していない、と言ったな」
「言った」
「お前の目が動いた。ハンスは気づかなかったろうが、俺は四十年お前を見てる」
やっぱりか。
「見たのか。見てないのか」
「——」
「答えなくていい。お前の顔見りゃわかる」
ゴンザが茶をすすった。陽気な声には戻りきらない。
「お前が黙ってるってことは、黙る理由があるんだろう。そこまでは踏み込まない」
「……」
「だが調査依頼は出す。出さなきゃあいつらが収まらない。手続きの問題だ」
「——俺が受ける」
ゴンザが俺を見た。
「……何だと」
「調査依頼。俺が受ける。他の誰にも回すな」
「……」
「頼む」
ゴンザが黙った。
「お前が『頼む』って言ったの、四十年で初めて聞いたぞ」
「……そうか」
「お前は見てて黙ってる。その上で自分が受けると言ってる。つまり、仕留めるつもりはないんだな」
鋭い。
答えなかった。答える必要がなかった。ゴンザはもう自分で答えを出している。
「俺はお前の事情は訊かない。だが仲介所の受付として言うぞ。調査の報告は出してもらう。何もいなかったなら何もいなかった。いたなら、いた」
「ああ」
「嘘の報告をしろとは言ってない。だが、お前がどう言うかは、お前に任せる」
ゴンザはそれだけ言って、茶を飲み干した。
「明日、依頼票を出す。お前の名前で用意しておく」
「……恩に着る」
「恩に着るのも初めてだな。気持ち悪いからやめろ」
少しだけ、いつもの声が戻った。
仲介所を出ると、通りに西日が差していた。
東通りを歩いて、市場の角を曲がった。
ヤスがいた。石塀に背を預けて、空を見ていた。
「受けたのか」
「ああ」
ヤスはそれだけ聞いて、石塀から背を離した。すれ違いざまに、低い声。
「あれは、人を襲わない」
「ああ」
ヤスは頷いて、通りの向こうへ歩いていった。
あいつは人を襲わない。
だが「人を襲わない」では、ハンスの恐怖は消えない。
足が重かった。家までの道が、いつもより長く感じた。
家に着いた。汁物を作って、母さんを呼んだ。
「今日、仲介所に行ったの?」
「ああ」
「何かあった?」
「……別に。仕事の話」
母さんは黙って箸を動かした。
だが箸が一瞬、止まった。この人は俺の嘘がわかる。長く見てきた息子の「別に」が、本当の「別に」かどうかくらい。
訊かないのだ。この人は。俺も訊かない。
だが今回ばかりは、いつまでも黙ってはいられない。
翌朝、仲介所に着いたのは朝一番だった。
ゴンザが依頼票を一枚、台の上に置いて待っていた。
「用意してある」
ギルドカードを当てた。光が走る。受理。
南の森に入った。形式上の調査だ。何もないことはわかっている。
ヤスが足跡を見つけた場所。痕跡は消えている。あの窪地。空だった。あいつはもうここにはいない。
嘘は言わない。だが全部は言わない。
歩きながら考えた。あいつがいることで、南の森はむしろ安全になっている。ゴブリンも西には来なかった。岩猫が降りてきたのは、あいつの痕跡が消えた後だ。まだ確信じゃない。だが長く生きてきた勘は軽くない。
丘の上に出た。
ハンスの牧場が眼下に広がっていた。柵が新しくなっている。白い板が朝日に光っていた。柵の中で山羊が十数頭、草を食んでいる。小屋の煙突から細い煙が上がっていた。
あの恐怖を消す方法を、俺はまだ持っていない。
半日、歩いた。何もない。事実だ。
家に帰った。
「何もなかった」
母さんの視線が揺れた。
「そう」
母さんは工房に戻った。足音が、一瞬だけ遅かった。
縁側に座って、明日ゴンザに言う言葉を組み立てた。南の森を全部歩いた。痕跡はなかった。以前の痕跡も消えている。風雨で消えたのかもしれない。
嘘は一つもない。だが喉に何かが詰まっている。言わなかった言葉が、そのまま固まっている。
あいつのことを正確に言ったら——討伐が出る。即座に。
あいつは人を襲わない。だがそれを証明する方法がない。
足音が聞こえた。いつもの時間だった。南から来て、西を通る。重くて、静かな音。
俺が今日引き受けたのは、調査依頼じゃない。
あいつと、この街の間だ。
夜が明けた。仲介所に向かった。
すれ違う人が二、三人、こちらを見た。目が合うと逸らされた。噂は広まっている。
「報告だ」
「南の森を全域歩いた。東端から南の深部まで。三本爪の痕跡はなし。足跡も、爪痕も、体毛も、何もない」
声が思ったより平らに出た。昨夜、何度も頭の中で繰り返した言葉だ。
「以前の痕跡も消えている。風雨で消えたのかもしれない」
ゴンザが俺を見た。
三秒。
「——ご苦労さん」
穏やかな声だった。問い詰めない。「本当か」と訊かない。
ゴンザはわかっている。四十年の付き合いだ。俺の目が動いたことも、「頼む」と言ったことも、今の報告が「全部」ではないことも。
だが踏み込まない。仲介所の受付として、聞いたことをそのまま受け取る。それがこの男のやり方だ。
「依頼は終わりにする。三日待って、誰からも文句が出なければ、これで終わりだ」
銀貨十枚を受け取った。重い。同じ重さのはずだが、今日は手に残った。
扉に手をかけた。
「零時」
振り返った。
ゴンザは茶を飲んでいた。こちらを見ていなかった。
「お前の報告は、聞いた。——それだけだ」
扉を開けて、外に出た。
報告した後の空気は、思ったより軽くはなかった。




