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第8話「西の森」

 朝、庭に出た。

 台所に戻って、握り飯を作った。二つ。

 一つは自分の昼飯だ。もう一つは、まだ決めていない。持っていくだけ持っていく。

 工房の方から、何かを擦る音がしている。母さんはもう起きている。いつ寝ていつ起きるのか、長い付き合いでもわからない。

 パンを齧りながら、南の窓を見た。庭の向こうに、森の輪郭が見える。

 今日は南じゃない。

 握り飯を布に包んで、裏手に回った。



 玄関を通らなかった。

 台所から直接、家の北側に出た。薪小屋の横を通る。先日直した屋根の板が、朝日を受けて乾いた色をしている。釘はしっかり留まっている。

 薪小屋の向こうは森だ。

 北と西。家の裏手から西にかけて、木々が密に生えている。ずっと住んでいて、この森の奥に入ったことはほとんどない。用がなかった。薪になる枯れ木は手前で十分拾えたし、獣の気配もなかった——と思っていた。

 一歩、林に踏み込んだ。

 足元の落ち葉が乾いた音を立てる。朝の空気が冷たい。木漏れ日が地面にまだらの模様を落としている。

 七歩目で、最初の木が見えた。

 広葉樹の幹。森に面した側に、三本の線が刻まれている。

 前に薪割りの時に見つけた、あの爪痕だ。隣の木には、屋根の上から見えた新しい痕もある。

 最初に見つけた時は衝撃だった。今は違う。

 爪痕を見ながら、さらに奥へ歩いた。今日は追っていない。爪痕を辿っていけば、たどり着く。

 西の森は南の森より暗かった。木と木の間隔が狭い。枝が絡み合って天蓋のようになっている場所がある。地面は湿って柔らかい。苔が厚い。南の森とは空気の質が違う。重い。だが、敵意がない。

 足元で蛙が跳ねた。

 ここはあいつの場所だ。

 爪痕が続いている。全部、家の方を向いている。歩くほどに、あの時気づいたことが厚みを増していく。脅威じゃない。縄張りの宣言でもない。

 ただ——ここにいるだけだ。家の方を向いて。ずっと。

 爪痕の間隔が広くなった。密に刻む必要がない場所。もう十分に奥だ。人間はここまで来ない。

 木々の隙間から、窪地が見えた。

 南の森で見つけたあの窪地とは違う。こちらの方が狭い。倒木が一本、斜めに架かっている。その下に、岩と苔に囲まれた窪みがある。

 体が先に気づいた。

 ——いた。



 灰色の影が、窪地の底に横たわっていた。

 岩と見間違えるほど動かない。だが鱗に覆われた腹が、ゆっくりと膨らんで、縮む。呼吸している。

 前に見た時と同じ姿だった。灰色がかった鱗。石のような層が重なった皮膚。筋肉質の体躯。三本の太い鉤爪かぎづめ

 だが俺の目が違う。

 あの時は「何だ」と思って見ていた。分類しようとしていた。どこにも当てはまらなかった。

 今は知っている。

 当てはまらなくて当然だ。こいつは獣じゃない。

 人だった。

 朧月おぼろづきの柄には手をかけなかった。腰に差したままだ。手はだらりと下がっている。

 南の森で初めて会った時は、反射的に柄を握った。経験が手を動かした。知らない大型獣。まず距離を測る。逃げ道を確認する。相手の出方を見る。それが長い年月で身についた手順だった。

 今日は、その手順が要らない。

 獣が目を開けた。

 薄い金色の目。

 前と同じだ。寝ていたのではない。最初からこちらに気づいていた。あの時もそうだった。俺が来る前から、俺の足音を聴いていたのだろう。

 獣がゆっくりと頭を上げた。水が流れるような滑らかな動き。あの時と同じ。

 だが目が違った。

 南の森で初めて会った時、あの目は「確かめている」ように見えた。こちらを品定めしているのとは違う。何かを探しているような、あるいは何かを思い出そうとしているような。

 今日の目は——知っている目だった。

 俺を。

 確かめる必要がない。もう知っている。前に会った人間がまた来た。それだけのことだと、わかっている目。

 獣が立ち上がった。四本の脚が地面を踏む音。重いが、静かだ。三本爪が苔の上に浅い跡を残す。

 俺を見ている。

 南の森では、獣は窪地の縁を半周して、そのまま森の奥へ去った。振り返らなかった。

 今日は、去らなかった。

 立ち上がったまま、こちらを見ている。

 金色の目の奥に、あの時と同じ静けさがある。

 ——人の目だ。

 獣の体をした、人の目。

 言葉が浮かんだ。「母さんから聞いた」。「お前のこと、知ってる」。「お前は人だったんだろう」。

 どれも口に出さなかった。

 回りくどいのは性に合わない。いつもなら直球で言う。だが今日は——言葉にすべきことが何もなかった。言葉は人間のためのものだ。こいつに必要なのは、そういうものじゃない。

 黙ったまま、立っていた。

 獣も動かなかった。

 風が木々の間を抜けていく音。遠くの鳥の声。葉が擦れる音。それだけが、この場所の音だった。

 どのくらい経ったかわからない。

 獣が一歩、前に出た。

 前に会った時は、距離を保ったまま去った。近づきもしなかった。

 今日は——一歩だけ、近づいた。

 息の音が聞こえた。重くて深い。鱗の隙間から吐き出される息は温かかった。

 近い。

 獣の体の大きさが、改めてわかった。角猪つのいのししの大型雄よりさらに一回り大きい。灰色の鱗は間近で見ると一枚一枚が分厚く、古い傷のような筋が走っている。前足の三本爪は、俺の指より太い。地面を掴むように曲がった鉤爪の先端が、薄く光を弾いていた。

 獣の鼻先がわずかに動いた。

 匂いを嗅いでいる。

 俺の匂いじゃない。俺に染みついた、別の誰かの匂いを。

 ——母さんの匂いだ。

 工房の薬品。指先に残る鉄粉の金属臭。茶を淹れる時の湯気。縁側で隣に座った時に、風が運んでくるあの匂い。ずっと一緒にいる俺の体には、とっくに染みついている。

 獣の鼻先が震えた。

 数秒だった。だがその数秒で、こいつの全身から力が抜けるのがわかった。鱗の下の筋肉が、ほんの少しだけ緩んだ。

 こいつは覚えている。

 名前も、自分が誰だったかも、わからないのかもしれない。だがこの匂いを知っている。鼻が覚えていた。

 ——俺も同じだ。自分が何者かは知らない。だがこの匂いの中にいる。

 心臓が一度だけ、強く打った。

 獣が身を翻した。

 大きな体が音もなく動く。あの体格で、枝一本折らない。苔の上を滑るように、森の奥へ向かっていく。

 振り返らなかった。

 南の森で初めて会った時も、振り返らなかった。

 だが振り返る必要がないからだ。

 また来る。そう思っている。わかっている。こいつは——わかっている。

 灰色の影が木々の間に消えた。音がなくなった。

 一人になった森の中で、しばらく立っていた。



 家に戻った。裏手から。薪小屋の横を通って。

 布に包んだ握り飯が一つ余っている。

 森の縁に置いていこうか、と思った。

 やめた。まだ早い。それにあいつは、握り飯を食うのか。わからない。人だった頃なら食ったかもしれないが、あの体で米を食うかは別の話だ。

 くだらないことを考えている。

 縁側に回ると、母さんがいた。膝の上に湯呑みを置いて、庭を見ている。

 俺が裏手から来たことに気づいて、顔を上げた。

「散歩?」

「……まあ」

 母さんはそれ以上何も言わなかった。

 俺が家の裏の森に入って出てきた。それが何を意味するか、この人にはわかっている。だが訊かない。ずっとそうやってきた。互いの企業秘密には踏み込まない。

 だが母さんの目の奥に、訊きたい何かがあった。声にはしなかった。代わりに、湯呑みを一つ差し出した。

 隣に座って、茶を受け取った。

 温かかった。朝の空気に、茶の湯気が白く立ち上る。

 俺は茶を一口飲んだ。

「……元気だったよ」

 小さく言った。

 母さんが黙った。一秒。二秒。

「……そう」

 声が少し低かった。だが震えてはいなかった。

 それ以上は要らなかった。



 昼は握り飯を食べた。余った一つは自分で食べた。

 午後は縁側で昼寝を試みた。だが眠れなかった。最近はずっとそうだ。

 目を閉じると、金色の目が浮かぶ。鼻先を動かす仕草。母さんの匂いを嗅いだ、あの数秒。

 あいつは——母さんの弟子だった。毎日押し掛けてきた。断っても来た。面倒くさかった、と母さんは言った。

 面倒くさい弟子が、いつしか「あの子」になった。

 俺にも覚えがある。森の中で拾われた時のことは覚えていない。赤ん坊だったから当然だ。だが最初の記憶は、母さんの匂いだった。温かくて、少しだけ薬臭い腕の中。それだけが残っている。

 たぶんあの弟子も、同じ匂いを知っていたのだろう。同じ工房で、同じ手に触れていた。

 俺より前に。

 そう思うと、母さんの匂いを嗅いだ獣の仕草が、また違って見えた。

 こいつにとって母さんは——まだ、そこにいる人なのだ。会えなくても。

 毎晩、家の周りを歩いている理由が、わかった気がした。

 帰りたいのか。

 それとも、ただ近くにいたいのか。

 答えはわからない。あいつにしかわからない。あいつ自身にもわからないのかもしれない。

 目を開けた。木漏れ日が顔にちらちら当たっている。

 眠れない昼が、そのまま夕方になった。



 夕飯を作った。残りの肉を煮込んで、塩と少しの香草。母さんが黙って食べた。珍しい。いつもなら感想を言うのに。三杯目のお代わりで、ようやく「これ、好き」と小さく言った。

「ちょっとだけ工房行ってくるね」

「ちょっとだけな」

「ちょっとだけだよ」

 ちょっとだけじゃない。知ってる。

 片付けを済ませて、部屋に戻った。布団を敷いて、横になった。

 目を閉じた。

 壁の向こうから、微かに瓶が触れ合う音がする。母さんの夜は長い。

 だが今日、一つだけわかったことがある。

 母さんは——あの森を見ていた。南の窓から。時折、何かを探すように。

 あいつがいることを知っていた。だが毎晩来ていることは知らなかった。

 知っていて、出ていかなかった。

 あいつも、知っていて、入ってこなかった。

 十年なのか、百年なのか、何千年なのか。この家と森の間に、何かがある。母さんもあいつも越えない。

 ——俺は今日、越えた。

 それが何を意味するのか、まだわからない。

 足音が聞こえた。

 いつもの時間だった。遠くで枝を踏む音。重くて、静か。一定の間隔。

 南から来て、西を通る。

 今日俺がいた場所の近くを通っている。あの窪地から出て、家の周りを巡回する。毎晩同じ道を。

 同じ足音。同じ間隔。同じ重さ。

 だが今夜は何も考えなかった。

 獣の足音でも、人だったものの足音でもない。ただの足音だ。名前はいらない。

 それでいい。

 足音が西から北へ流れていく。

 工房のかちかちという音は、まだ続いている。母さんはあの音を聴いていない。枝を踏む重い足音が聴こえていない。だが母さんは知っている。あいつがいることを。

 工房のかちかちという音と、森の足音が、同じ夜の中で鳴っている。

 足音が遠ざかった。北から、南の森の方へ。

 目を閉じた。

 今夜は——眠れそうだった。

 街では、ハンスがまだ動いているはずだ。


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