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第7話 「あの子」


 朝、庭に出た。

 灯草ともしそうが増えていた。前からあった一輪の隣に、もう一つ。白い花弁が朝日を受けて開いている。

 群生する草だから、増えるのはおかしくない。ただ——花の季節はとうに過ぎているのに。

 庭の隅にしゃがんでいる影があった。母さんだ。

 灯草の前に膝を折って、じっと花を見ていた。表情が見えない。だが横顔の線が、いつもより静かだった。工房にいる時の鋭さとは違う。もっと古い顔。

 俺が近づいた足音に気づいて、顔を上げた。

「おはよう」

 声は軽かった。切り替えが早い。

「増えたな」

「うん。……きれいだね」

 母さんが花に手を伸ばしかけた。指先が花弁の数センチ手前で止まって、戻った。触れなかった。

 とだけ言って立ち上がり、台所に向かった。

 ——母さんは、触れなかった。



 朝飯の前に仲介所に寄った。依頼を一件受けるつもりだった。

 入口でハンスとすれ違った。出てくるところだった。顔が硬い。ゴンザの受付の向こうで、紙が一枚置いてあった。嘆願書か何かだろう。ゴンザが溜息をついていた。

「何かあったか」

「いつものだ。——仕事は午後に回せ。今日は急ぎがない」

 家に戻って、工房に向かった。昨日の約束だ。棚のぐらつきを直す。

 工房に入るのは久しぶりだった。ずっとこの家にいるが、この部屋の中身は母さんにしかわからない。

 棚の瓶が壁一面に並んでいる。百本は超えている。ラベルが貼ってあるものとないもの。乾燥した草、粉末、液体。色も形も統一性がない。だが母さんの頭の中では全部繋がっているのだろう。

 作業台の上に紙が散らばっている。書きかけの数式か、錬金術の記号か。読めない。俺にとってこの部屋は、最も身近な異国だ。

 ぐらついている棚はすぐ見つかった。右下の脚が浮いている。木が痩せたか、床板が歪んだか。昨日の残りの釘と金槌を使って、脚の横に薄い板を当てて固定した。

 打ちながら、棚の奥が目に入った。

 布で覆われた小さなもの。埃が積もっている。長い間、誰も触っていない。

 気にはなった。だが手は出さない。ここは母さんの場所だ。一度もこのルールを破ったことはない。

 最後の釘を打って、棚を揺すった。動かない。

「直った?」

 振り向くと母さんが戸口にいた。湯呑みを二つ持っている。

「直った」

「ありがとう。——うん、完璧」

 母さんが棚に手を当てて確認した。それから工房の中を見渡して、俺がここにいることに少し居心地悪そうな顔をした。だが「出ていけ」とは言わなかった。

「茶、飲む?」

「もらう」

 工房の作業台を挟んで、二人で茶を飲んだ。瓶に囲まれた空間で飲む茶は、なんだか妙な味がした。気のせいだろう。たぶん。

 母さんの目が、ふと遠くなった。窓の向こう、南の森がある方角。すぐに手元に戻る。

 何百回と見た仕草だ。だが最近は、その視線の行き先がわかるようになった。



 昼過ぎ。まだ工房にいた。棚を直した後、出そびれていた。

 茶を飲みながら、しばらく黙っていた。

 心地いい沈黙だった。長い付き合いだと、黙っていても気まずくならない。母さんは茶を両手で包んで、窓の外を見ている。

 俺は口を開いた。

「あいつ、毎晩来てる」

 母さんの手が止まった。

「……知ってたの?」

「布団に入ると聞こえる。枝を踏む音」

 母さんは黙った。俺は続けた。

「南から来て、西を通って、北を回って帰る。東には行かない。街の方には近づかない。毎晩、同じ道を」

 爪痕のことは言わない。

「いつから?」

「ここ何日かじゃない。もっと前から」

 母さんが視線を落とした。

「……ずっと、来てたのか。知らなかった」

 嘘ではないと思った。母さんは獣の存在を知っている。だが毎晩の巡回までは知らなかった。母さんは夜中いつも工房にいる。かちかちと作業をしている耳に、外の枝を踏む音は届かない。

 風が吹いた。

 俺は次の言葉を選んだ。回りくどいのは性に合わない。だが今回は、一拍だけ置いた。

「——あいつのこと、前は『何だ』って考えてた」

 母さんが顔を上げた。

「今は『誰だ』って思ってる」

 蝉は鳴いていない。季節が違う。風の音と、遠くの鳥の声だけが残った。

 母さんが口を開きかけて、閉じた。膝の上で指を組んだ。もう一度口を開いた。

「……あの子はね」

 声が低かった。工房にいる時の声より、もっと古い。

「昔は、人だったの」

 ——人。

 あの体躯。三本の鉤爪。森を裂くような足音。金色の目。

 人だった。

 驚いた。

 手が膝の上で止まった。自分の手が止まっていることに、少し遅れて気づいた。

 だが腹の底では、そうか、と思っていた。嘘だ、とは思わなかった。

 あの目。南の森で向かい合った時の、あの金色の目。静かで、何かを考えている目だった。あの時からどこかでわかっていたのかもしれない。

「……ずっと昔のこと」

 母さんが続けた。声が柔らかくなった。思い出の中に入っていく声。

「あなたが来るより、ずっとずっと前」

「母さんの——」

「勝手についてきた子だったの」

 予想しなかった言葉だった。

「弟子にしてくれって、毎日来るの。断っても断っても」

 母さんが笑った。懐かしそうだった。

「面倒くさかったなあ……」

 俺を拾った時も、たぶんそうだったんだろう。

 ——母さんにとって、俺とあいつは。

「あの子は」

 母さんの声が震えた。すぐに押さえた。

「悪い子じゃない。それだけは、本当」

 前に縁側で聞いた言葉と同じだった。だが重さが違う。あの時は「あの子」の意味がわからなかった。今はわかる。

「何があったかは……まだ、うまく話せない」

 うまく話せない、ではない気がした。話せないのではなく、話したくない。喉に何かが詰まっている顔だった。企業秘密の時とは違う。あれは笑って流す。今の母さんは笑えていない。

「戻せないのか。人に」

 母さんが黙った。長い沈黙だった。

「……わからない。やり方がわからない。私にも」

 この人が「わからない」と言うのを、三百年で初めて聞いた。

 何があったか。ずっと黙ってきたものの、本体だ。

「俺の企業秘密より長い企業秘密だな」

 軽く言った。今この場で重さに潰されたら、母さんが辛くなる。

 母さんが少し目を見開いて、それから息をついた。

「……怒らないの?」

「何に怒る」

「三百年、黙ってたこと」

「母さんが黙ってたことなんか山ほどある。今さらだ」

 母さんがようやく笑った。普段の笑いに近かったが、長かった。目元に力が入っていた。泣いてはいない。この人は泣かない。少なくとも、俺の前では。

「ねえ零時れいじ

「ん」

「ありがとう」

 何に対してかは訊かなかった。たぶん全部だ。怒らなかったこと。聞いてくれたこと。黙って三百年一緒にいたこと。

「別に」

 二人で庭を見ていた。



 夕飯を作った。干物を焼いて、昆布の汁物。母さんが「美味しい」と一回だけ言った。いつもは二回言う。今日は一回。余計な感情が入る隙間がないのだろう。

 食べ終わって、母さんが工房に消えた。

「ちょっとだけ」

「ちょっとだけな」

 いつもの会話だ。いつも通りでいい。

 片付けを済ませて、縁側に出た。風がなかった。虫の声だけが鳴っていた。

 部屋に戻って、布団を敷いた。横になった。

 天井を見ていた。

 人だった。あの獣は、あの金色の目は——かつて人だった。

 母さんの弟子だった。押し掛けてきた、面倒な弟子。毎日来て、断っても来て、いつの間にか側にいた子。

 母さんが「あの子」と呼んだ理由。南の窓を見る癖。灯草に触れなかった指先。

 全部、これだったのか。

 ハンスが毎日仲介所に来ている。三本爪の討伐を叫んでいる。南側の農家を回って、不安を煽っている。ゴンザは「存在が確認できない獣に討伐依頼は出せない」と抑えている。だがいつまで抑えられるかわからない。

 あれは獣じゃない。人だった何かだ。

 討伐依頼が正式に出たら——俺はどうする。

 答えはまだない。出せない。母さんの弟子だから守る、では理由にならない。俺の仕事は依頼を受けることだ。受けない理由が必要になる。「あいつは人だった」と言えるか。誰に。ゴンザに。ハンスに。信じるか。信じたとして、何が変わる。

 足音が聞こえた。

 いつもの時間だった。遠くで枝を踏む音。重くて、静か。

 だが今夜は聞こえ方が違った。

 昨日まで「獣の足音」だった音が、今は「人だったものの足音」になっている。一歩一歩に、かつて人だった頃の残響がある。そう思ってしまう。

 同じ音だ。同じ間隔。同じ重さ。何も変わっていない。

 足音が南から西へ、西から北へ流れていく。東以外の三方を回って、南の森に帰る。毎晩同じ道を、同じ歩幅で。

 人だった頃——あいつはどんな顔をしていたんだろう。

 母さんの弟子だった頃。毎日押し掛けてきた頃。断られても来た頃。あの金色の目は、人間の目だった頃があるのか。

 足音が遠ざかった。

 障子の向こうで、月明かりが白く落ちていた。

 明日、会いに行く。


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