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第6話 「何もない日」

 何もない日にしようと決めたのは、昨夜、布団に入る前だった。

 朝、台所に行くと静かだった。工房の方からかちかちと音がしている。母さんは夜のうちに起きたか、それとも寝ていないか。どちらでも驚かない。

 窓から差し込む光が明るい。今日も天気がいい。

 干し肉を切って、パンと一緒に並べた。茶を淹れる。一人分。母さんの分は後で持っていく。

 棚の上に、ドルンにもらった釘が置いてあるのが目に入った。紙に包まれたまま、もう何日も放ったらかしだ。

 ああ、そうだ。薪小屋の屋根。先月の風で板がずれたまま放置していた。

 食べ終わって、茶を一杯持って工房の前まで行った。

「母さん、茶」

「——ありがとう。置いといて」

 扉越しの声。集中している時の低い声だ。邪魔はしない。

 戸口の脇に湯呑みを置いて、釘を取りに台所に戻った。

 今日の仕事はこれだ。



 家の裏手に回った。

 薪小屋は北側、森に面している。屋根の板が一枚、端からずれて浮いていた。隙間から雨が入ったらしく、下の薪が数本湿っている。さっさと直すべきだった。

 台と金槌を持ってきて、屋根に上がった。板を元の位置にずらし、釘を打つ。前に打った釘の穴が、隣にまだ残っている。乾いた音が森に響く。普段なら刀を振っている腕で、釘を打つ。妙な感覚だ。

 二本目。ずれた板が留まる。三本目は補強だ。

 釘を打ちながら、ふと顔を上げた。

 北と西の森が近い。屋根の上からだと、木々の幹がよく見える。

 ——あの木。

 家から七、八歩先の広葉樹。幹の森に面した側に、三本の線が刻まれている。

 ——だが一本だけ、見覚えのない痕があった。隣の木。傷の縁がまだ白い。最近だ。

 息が詰まった。

 あいつは、まだ来ている。前に見つけた時は衝撃が先に来た。今日は違う。

 屋根の上から、もう一度、爪痕のある木々を見渡した。

 裏手から西側にかけて、森に面した木だけに刻まれている。東側、街に続く道の方にはない。全部、家からは見えない向きだ。

 南の森の爪痕は外を向いていた。縄張りの印だ。

 ここのは内を向いている。家の方を。だが家からは見えない。ずっと住んでいて、一度も気づかなかった。

 見ている。だが、見られたくない。

 縄張りでもない。監視でもない。名前がつけられない。

 ただ、いるだけだ。ここに、ずっと。家の方を向いて。

 釘を一本、打ち損ねた。指先がじんとした。

 ……集中しろ。屋根の修理だ。

 残りの釘を打って、板を叩いて確認した。しっかり留まっている。もう雨が入る隙間はない。

 屋根から降りて、裏手の地面を見た。昨夜の足音。枝を踏む音は、この辺りを通っていたはずだ。

 地面には何も残っていなかった。足跡を消す知恵がある。



 台所に戻ると、工房の音が止まっていた。

 母さんがテーブルの前に座って、紙に何か書いている。俺が入ると、さりげなく紙を裏返した。

「あら、おかえり。何してたの」

「薪小屋の屋根直してた」

「ありがとう。雨の日に困ってたのよ、あの隙間」

「困ってたなら言ってくれ。もっと早く直した」

「言う前にやってくれるの、待ってたの」

 いつまで待つつもりだったのか。この人の時間感覚はたまにわからなくなる。

 母さんが立ち上がって、竈の方に向かった。

「お昼、作ろうか」

「俺がやる」

「たまには私にも——」

「危ない」

「大丈夫だよ。最近上手くなったでしょ」

「握り飯がまともにできただけだ」

 結局、俺が作った。干し肉を焼いて、残りのパンと。母さんは手持ち無沙汰に茶を淹れてくれた。この分業が一番平和だ。

 食べながら、母さんの手元を見た。指先にうっすら紫色がついている。工房で何かの液体を扱っていたのだろう。見慣れた光景だ。

 聞いても返ってこない。いつもそうだ。

「ねえ零時れいじ、釘余った?」

「二本余ってる」

「工房の棚が一個ぐらついてるの。あとで直してくれない?」

「自分で打てるだろ」

「金槌で自分の指打ったことあるから、怖いの」

 何年生きてるかわからない錬金術師が金槌を怖がっている。工房では指先一つ狂わないくせに。嘘か本当かわからない。たぶん本当だ。この人は興味のないことに手が向かない。

「……後で見る」

「ありがとう」

 母さんがふと、南の窓の方にちらりと目をやった。すぐに手元に視線を戻す。

 何を見た。

 何も見ていない、のかもしれない。癖かもしれない。だが最近、南の森の話があってから——この仕草を前より意識するようになった。

 母さんは、時々、遠くを見る。ここにいない何かを見るように。



 縁側に出て、横になった。

 風がゆるい。木漏れ日が顔にちらちら当たる。昼寝には最高の条件だ。

 目を閉じた。眠れそうで、眠れない。

 しばらくすると、母さんが縁側に来た。隣に腰を下ろす気配。湯呑みの匂い。

「起きてる?」

「起きてる」

「珍しいね。縁側にいるのに眠れないの」

「たまにはある」

 嘘だ。片手で足りるくらいしかない。

 黙って庭を見ていた。

「母さん」

「ん?」

「この家、いつから住んでるんだっけ」

「んー……数百年くらい? あなたが来る前から住んでたから、正確には覚えてないけど」

「俺が来る前は、一人だったのか」

 母さんが茶を一口飲んで、庭を見たまま言った。

「……長いこと、一人だったよ」

 声の調子が変わった。軽くて柔らかい声に、厚みが混ざった。

 長いこと。

 俺が拾われてから三百年。その前が「長いこと」。この人が何歳かは知らない。訊いたことはあるが、はぐらかされた。三百年が「長いこと」に入らない程度には、長い。

 ——あの獣は、いつからここにいるんだ。

 訊こうとして、やめた。これを訊いたら、母さんは答えなければならなくなる。答えるか、「今は言えない」と繰り返すか。どちらにしても、あの寂しそうな笑い方をさせることになる。

 今日は何もない日だ。そういうのは、今日じゃない。

「……そっか」

「急にどうしたの」

「別に。薪小屋直してたら、なんとなく」

「薪小屋で感傷的になるの?」

「ならない」

「ふふ」

 母さんが笑った。いつもの軽い笑い方だ。さっきの厚みはもう消えている。

 この人は切り替えが早い。重い話の後ほど、普通に戻る。

 俺がいる前は——この人は、その重さを一人で閉じ込めていたのか。



 夕方。

 台所で飯を作った。干物を焼いて、昆布で出汁を取って、汁物を一つ。母さんが「美味しい」と二回言った。一回目は本心で、二回目は自分が作れないことへの悔しさだ。長い付き合いだ、わかる。

「ごちそうさま。——工房行ってくるね」

 皿を下げる前に、もう席を立っていた。

 片付けを済ませて、縁側で茶を飲んだ。西日が庭を染めている。

 刀の手入れをした。朧月おぼろづきを鞘から抜いて、油を引く。布で拭いて、刃の状態を確認する。毎日やっている。刃の曲がり、錆の兆し、研ぎの消耗。手が全部覚えている。

 冴月さえづきも抜いた。こちらは使っていない。使っていないから錆びやすい。油を引いて、すぐに戻した。抜いている時間が短いほど、刃が空気に触れない。

 いつか使う日が来るのか。来ないまま、ずっと。

 部屋に戻って、布団を敷いた。今日は早い。やることがないと、夜も早い。

 横になって、目を閉じた。

 工房から、かすかにかちかちと音がする。母さんの夜はまだ長い。

 しばらく、何も聞こえなかった。

 風が変わった。一瞬だけ、甘い匂いが混じった。腐った果実のような——すぐに消えた。

 ——来た。

 遠くで、枝を踏む音。

 重くて、静かな足音。一定の間隔。急がない。止まらない。

 今日、裏手で屋根を直していたから、あの辺りの地面を足が覚えている。あの歩幅、あの重さなら、南の森の方から来て、家の周りを、森の縁に沿って歩いている。

 巡回だ。毎晩、同じ道を。

 南から西へ、西から北へ。東側、街に続く道の方には、行かない。爪痕と同じだ。あの獣が動く範囲と動かない範囲は、全部揃っている。

 布団の中で、天井を見た。

 点が、並んでいる。

 爪痕。足音。母さんの「あの子」。

 あいつは家を見ている。だが入ってこない。

 母さんも——出ていかない。

 「何だあれは」と、ずっと考えていた。

 違う。

 誰だ、あれは。

 足音が遠ざかっていく。北から、南の森の方へ。同じ道を。

 起き上がった。

 草履を履いて、裏手に出た。月明かりがあった。薪小屋の脇を通って、林に踏み込んだ。

 爪痕のある木。目を凝らした。

 ——増えていなかった。前と同じ数。同じ深さ。新しい跡はない。

 だが木の根元の土が窪んでいた。何かが座っていた跡だ。

 あいつは毎晩ここに来ている。巡回の途中で、ここに止まっている。爪痕の前に。自分がつけた印の前に。

 家に戻った。布団に入った。

 工房から、かちかちと音がしていた。母さんはまだ起きている。

 明日、聞こう。

 あいつのことを。母さんが何を知っているのかを。三百年、聞かなかったことを。

 ——明日。

 眠った。


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