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第5話 「爪痕」

 三日ほど、何もない日が続いた。

 天気はずっと良い。風も穏やかで、昼寝には最高の日が続いている。だが俺はまともに眠れていなかった。裏の木に刻まれた十一本の三本線が、目を閉じるたびにちらつく。

 母さんは変わらなかった。工房でかちかちやって、たまに台所に立って、縁側で茶を飲む。あの獣の話は、あれ以来一度もしていない。「手を出さないで」と言った日から、まるで何もなかったかのように。

 俺も何も言わなかった。裏の爪痕のことも、あの獣がこの家を見ていたことも。

 四日目の朝、仲介所に顔を出した。依頼が溜まっているかもしれない。あと、外の空気を吸いたかった。



 仲介所に着くと、妙に騒がしかった。

 入り口に人が固まっている。農夫が二人、猟師が一人、あと見覚えのない中年の男。ゴンザが受付の向こうで腕を組んでいた。陽気な顔ではない。

「おう、零時れいじ。ちょうどいい」

「何があった」

「南の牧場だ。トモエさんのところの隣、ハンスの。今朝、家畜が三頭やられた」

 ハンスの牧場。トモエさんの畑からさらに南、丘の裏手だ。あの辺りは放牧地で、柵の中に山羊と羊を飼っている。

「何にやられた」

 ゴンザの隣にいた中年の男が割り込んできた。ハンスだろう。顔が赤い。怒りか、恐怖か。

「三本爪だ。柵が壊されて、山羊が三頭、滅茶苦茶にされてた。首に太い爪痕が——三本だ。間違いない」

 ——三本爪。

 反射的に頭の中で否定が走った。あの獣は、そんなことをしない。

 理由は説明できない。根拠もない。ただ、あの金色の目を思い出した。あの目は、家畜を襲う目じゃない。

 だが口には出さなかった。

「見たのか。獣を」

「いや、朝起きたら柵が壊れてた。足跡があった。でかいのが。三本爪の」

「足跡の幅は」

「手のひらくらいだ。いや、もうちょっとあったかも……」

 曖昧だ。パニックになった人間の記憶は当てにならない。

「ゴンザ、現場は誰か見たのか」

「まだだ。ハンスが駆け込んできたのが今朝一番。——それで、お前に頼みたい」

「調査か」

「討伐じゃない。まず確認だ。あの三本爪かどうか。報酬は銀貨五枚でどうだ」

「行く」

 ゴンザが依頼票を手早く書いて、俺のカードに当てた。光が走る。

「ヤスも来る。猟師の目があった方がいい」

 入り口の奥から、ヤスが出てきた。五十がらみの猟師で、日に焼けた顔に白髪が混じっている。静かな男だ。目は鋭いが、声は低い。

「零時。久しぶりだな」

「ああ」

 ヤスとは何度か依頼で一緒になったことがある。腕は確かだ。足跡の読みは俺より正確だ。三十年以上の山歩きは伊達じゃない。

「行くか」

「行こう」



 ハンスの牧場までは歩いて一刻ほど。道中、ヤスは無駄なことを喋らなかった。

 丘を越えて、牧場が見えてきた。柵の一部が壊れていた。木の柵が内側に折れている。柵の奥で山羊が一頭、草を食んでいた。

 近づいて、折れた断面を見た。

「力で押し潰されてる。齧った跡じゃない」

 ヤスが先に言った。同意した。外から何かが体重をかけて押し込んだ。

 中に入った。

 山羊の死骸が三頭。一番近い死骸にしゃがんで、傷を見た。

 ——首筋に、三本の爪痕。

 太い。深い。三本線。間隔は——。

 手を広げて、爪痕に合わせた。

「零時。どうだ」

「……三本は三本だ」

 だが。

「間隔が狭い」

 ヤスが隣にしゃがんだ。目を細めて傷を見ている。

「南の森で見た跡と比べてか」

「ああ。あっちの三本爪は間隔がもっと広い。俺の指を三本広げたくらいだった。これは——」

 爪痕に指を当てた。二本分。明らかに違う。

「小さいな」

「……別のものか」

「たぶんな」

 残りの二頭も同じだった。

 柵の外に出て、足跡を探した。ヤスが先に見つけた。足跡も三本爪だったが、一回り小さい。方向は南東。山の方角だ。南の森ではない。

「山から降りてきた大型獣だろう。この時期は水場が涸れるから、里に降りてくるやつがいる」

「種類は?」

「三本爪の山獣は何種類かいる。岩猫いわねこが近い」

 ヤスが両腕を広げた。角猪つのいのししの雌くらい。あの灰色の獣の半分以下だ。

「岩猫は夜行性で、家畜を襲うことがある。普段は山の上にいるが、水場が涸れると降りてくる」

 なるほど。岩猫なら三本爪でも辻褄が合う。南の森のあいつとは別物だ。



 仲介所に戻ると、人が増えていた。

 ハンスが待ちきれずに近所の農夫を呼んだらしい。五、六人が受付の前に集まっている。

「戻ったか。で、どうだった」

「別物だ。南の森のやつとは大きさが違う。山から降りてきた岩猫だろう」

 ハンスが食いついた。

「本当か。三本爪だったろう」

「足跡は山の方角だ。南の森とは方向が違う」

 ヤスが後を引き取った。ハンスはまだ納得していない。

「じゃあ、南の森の三本爪は何なんだ。あれはまだいるのか」

「跡は消えた。前にも言っただろう」

「……消えたって言ったって……」

 ゴンザが割って入った。

「とにかく、今回のはお前のところを襲った獣の話だ。南の森のは別件だ。混ぜるな。——零時、岩猫の討伐、受けるか?」

「受ける」

 ゴンザが依頼票を書いて、カードに当てた。

 ハンスは何か言いたそうだったが、周りの農夫に宥められて帰っていった。



 仲介所を出ると、ヤスが後ろから声をかけてきた。

「零時」

「ん」

「お前、南の森のあいつに会ったことあるだろう」

 立ち止まった。

 ヤスの目は、鋭いが責めるような光ではなかった。確認の目だ。

「……何でそう思う」

「お前の目だ。ハンスの爪痕を見た時、最初に否定した。『違う』と。南の森の爪痕しか知らない人間は、ああいう目はしない。実物を見た人間の目だった」

 三十年以上の猟師は伊達じゃない。

「——ああ。見た」

「襲ってきたか」

「いや。何もしなかった。向こうもこっちも」

 ヤスは少し黙って、それから頷いた。

「そうか。——追う気はないよ。俺は」

「なんでだ」

「あいつが里に降りてくるなら話は別だ。だが森の奥にいて、人を襲わない。それなら放っておけばいい。山に住んでる熊を、わざわざ巣まで殴りに行く馬鹿はいない」

 ヤスは少し間を置いて、帽子の鍔を指で弾いた。

「——正直に言うと、少しだけ気になってる。あの足跡。三十年山を歩いて、知らない足跡は初めてだった。猟師ってのはな、知らないものには弱い」

「ただ、ハンスみたいなのはこれからも出てくるぞ。三本爪、って言葉が一人歩きする。何かあるたびに南の森のあいつのせいにされる」

「……わかってる」

「わかってるなら、いい」

 ヤスは軽く手を上げて、反対方向に歩いていった。

 俺も追わない。

 あいつは人を襲わない。家を見ているが、入ってこない。母さんを知っているが、姿を見せない。——理由はわからないが、追う理由もない。

 今はまだ。



 家に着いたのは昼過ぎだった。

「ハンスの牧場で家畜がやられた。三本爪の跡があったってんで、見てきた」

 母さんの笑顔が消えた。

「——三本爪」

「別物だった。山から降りてきた岩猫だろう。南の森のあいつとは大きさが違う」

 母さんの肩が下がった。

「そう。——よかった」

 何がよかったのか、母さんは言わなかった。俺も訊かなかった。

「岩猫の討伐を受けた。明日行ってくる」

「気をつけてね」

 いつもの軽い「気をつけてね」だった。



 翌朝。岩猫を追った。

 山裾の岩場で痕跡を辿った。低い木に浅い爪痕。高さは俺の腰くらい。あいつのとは違う。

 半時ほどで巣を見つけた。岩の裂け目から飛び出してきた。角猪つのいのししの雌ほどの体。速い。だが間合いの取り方に癖がある。

 誘って、仕留めた。最後に一度だけ、こちらを見た。黄色い目。

 朧月おぼろづきの血を岩で落とし、鞘に収めた。



 仲介所に岩猫を出した。銀貨二十五枚。調査の分と合わせてだ。

「ハンスに知らせておく。——が、それで全部収まるかっていうとな」

 ハンスが南側の農家を回って、南の森の三本爪を討伐しろと騒いでいるらしい。岩猫だと説明しても聞かない。

「お前は南の森に何度も入ってるだろう。あいつ、まだいると思うか」

「いると思う。ただ、人を避けてる。痕跡を自分で消すくらいには賢い獣だ」

「お前の勘か」

「勘だ」

「お前の勘は大体当たるからなあ。——ただ、これ以上広がるようなら、動かざるを得なくなるぞ」

「わかってる」

「わかってるなら、いい」



 家に着くと、母さんが縁側にいた。

 珍しい。手に湯呑みを持って、庭をぼんやり見ている。

「岩猫はこの程度だ」

「怪我は?」

「ない」

「そう。よかった」

 普段ならここで工房に戻る。だが母さんは座ったままだった。

 まあ、訊かない。

 隣に座った。

 岩猫の黄色い目を思い出した。怒りと恐怖。わかりやすい獣の目だ。

 あの金色の目には、まだ名前がない。


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