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第4話「巣」

 翌朝。母さんが珍しく握り飯を作ってくれていた。焦げてない。形もまとも。「練習した」と笑っていた。昨日「あの子には手を出さないで」と真っ直ぐな目で言った人と、同じ顔には見えなかった。だがこの人はいつもそうだ。重いことがあった翌日ほど、普通にしている。

 仲介所に寄った。依頼は柵の修繕が一件だけ。銀貨三枚。軽い一日になる。

「ヤスが言ってたが、南の森の三本爪の跡がなくなってたらしい。先週はあったのに、きれいに消えてたって」

「消えた?」

「ああ。雨で流れたんだろうって本人は言ってたが。ここ数日、降ってないだろ」

 降ってない。

 消えた。——人に見つかったから、消した。あいつは、そういう判断ができる獣だ。

「深入りするなよ」

「しない」



 柵の修繕は昼前に終わった。南の牧草地。杭が二本腐っていた。掘り出して、新しい杭を削って打ち込んだ。汗が出た。

 昼飯は市場で買った。焼き魚の串を一本と、パンを一切れ。通りの角の犬が寄ってきた。骨を投げてやった。食わなかった。匂いだけ嗅いで、元の場所に戻っていった。相変わらず愛想がない。

 東通りでドルンの鍛冶屋に寄った。頼んであった釘を受け取った。

「屋根か」

「薪小屋の。先月の風で歪んだ」

「釘は多めに入れとく。あの小屋は毎年どこか壊れるだろう」

「毎年直してる」

「毎年直すなら建て替えろ」

「面倒だ」

 ドルンが笑った。

 林の道を歩いて帰った。灯草ともしそうが道の脇に増えている。花が三つ。先週は二つだった。

 家に着いた。

「ただいま」

「おかえりー。早かったね」

「柵だけだった」

 母さんが茶を持ってきた。縁側に並んで座って、しばらく黙って飲んだ。虫の声がしていた。風がない。穏やかな午後だ。

 母さんが庭の灯草を見ていた。「来年も咲くかな」「咲くだろ」「そう。——嬉しいね」

 縁側に寝転がった。目を閉じる。金色の目。——駄目だ。

 目を開ける。青い空。雲ひとつない。完璧な昼寝日和なのに、頭が空にならない。

 南の森の跡が消えた。あいつは自分の痕跡を消した。人間に見つかったから。賢い。獣にしては——いや、「獣にしては」で括っていいのか、あれは。

 起き上がった。

 あいつは南の森の痕跡を消した。だが母さんの匂いを嗅いでいた。この家の匂いを知っている。

 なら——この家の近くにも来ているのか。

 裏手を見てみよう。



 家の裏手に回った。

 薪小屋は家の北側、森に面している。先月の風で屋根がやや歪んだまま放置していた。釘はもらってきたが、今日は薪の方が先だ。

 斧を取って、丸太を台に据える。台の表面が刃の跡で凹んでいる。振り下ろす。乾いた音。単純作業は頭が空になる。金色の目も、三本爪も、しばらくは消えた。

 薪を割りながら、林の方を見ていた。木々の幹を一本ずつ。

 三本、五本、十本。汗が出てきた。斧を置いて、裏手の林に踏み込んだ。目が止まった。

 木の幹。家から七、八歩ほど先の、名前も知らない広葉樹。森に面した側。

 三本の線が刻まれていた。

 斧を下ろした。

 近づいて、幹に顔を寄せた。高さは俺の胸くらい。三本の太い線。間隔、深さ、角度。南の森で見たものと同じだ。

 ただし、古い。

 傷の縁が丸くなっていた。樹皮が傷を覆おうとして、わずかに盛り上がっている。新しい傷なら白い木肌が露出するが、これは灰色がかっている。雨と風に晒された色。線の下端には、苔が薄く這っていた。

 数か月。いや——もっとかもしれない。

 足が勝手に動いた。

 隣の木。何もない。その先。——あった。同じ三本線。同じ高さ。同じように古い。全部、森に面した側に刻まれている。家からは見えない向きだ。

 裏手から西側へ、森に沿って歩いた。七歩。十二歩。また三本線。十五歩先にも。

 気づけば家を半周していた。

 十一本。裏手から西側を回って、森に面した側だけ。東側、街に続く道の方にはなかった。

 南の森の爪痕は外を向いていた。縄張りの印だ。

 ここの爪痕は、内を向いていた。家の方を。

 立ち尽くした。背中に汗が伝った。寒いのではない。

 森の奥から、かすかに甘い匂いがした。すぐに消えた。

 あの獣は、この家を見ていた。

 ヤスが足跡を見つけるより前から。俺が南の森で三本爪の跡を見つけるより前から。

 ——ずっと前から。

 そして南の森の新しい痕は消した。人に見つかったから。だがここの古い痕は残っている。誰にも見つかっていないから。

 今日まで。

 手を伸ばして、一番近い爪痕に触れた。冷たく、硬い。あの結晶のような質感の残滓が、かすかに指先に引っかかる。

 この家にずっと住んでいて、一度も気づかなかった。裏手の木の、森に面した側なんて、見る理由がなかった。

 母さんは、知っているのか。

 あの獣を「あの子」と呼んだ。「手を出さないで」と真っ直ぐに言った。あの目。あの声。

 知っている。たぶん、最初から。



 縁側に戻った。

 母さんが工房から出てきて、隣に座った。手には湯呑み。今日はちゃんと中身が入っている。

「薪割り? 珍しいね」

「暇だったから」

「零時が暇を持て余すなんて。明日は雨かな」

「降らないだろ」

 母さんが茶をすすった。西日が庭に差し込んでいる。静かな夕方だ。

 訊こうか、と思った。

 やめた。

 ずっと踏み込まなかった。それでうまくいっていた。——いや、うまくいっていると思っていた。

 だが今は少しだけ、ほんの少しだけ。

 あの獣は何だ。母さんとどう繋がっている。なぜ、この家を見ていた。

 やめた。代わりに、こう言った。

「母さん」

「ん?」

「今日の晩飯、俺が作る」

「……え、いいの?」

「たまにはな」

 母さんが笑った。嬉しそうに。こういう笑い方だけは、いつも同じだ。



 台所に立った。干し肉を切って、菜っ葉を洗って、昆布で出汁を取った。同じ台所で同じようなものを作ってきた。母さんが作ると焦げる。俺が作ると地味になる。でも食える。食えればいい。

 母さんが台所に顔を出した。

「いい匂い」

「出汁の匂いだ。俺の腕じゃない」

「謙遜しないの」

「事実だ」

 二人で食べた。母さんが「美味しい」と言った。一回だけ。一回で十分だった。

 母さんには母さんの秘密がある。ずっとそうだった。

 なら、俺にも一つくらいあっていい。

 裏の木の爪痕のことは、言わない。

 これは俺の、企業秘密だ。



 飯を食い終わって、縁側で茶を飲んだ。

 母さんが先に引っ込んだ。「ちょっとだけ工房」と言って消えた。「ちょっとだけ」は信用していないが、今日はそれでいい。

 一人になった庭を見た。

 星が出ていた。風はない。虫の声がかすかに聞こえる。

 どこかで、枝を踏む音がした。重くて、静かな音。

 振り向かなかった。


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