第3話「三本爪」
目が覚めた時、まだ暗かった。
昨日見た足跡が、頭から離れなかった。太い三本線。深い食い込み。この辺りを歩いてきて、知らない足跡に出会ったのは初めてだ。
一昨日の夜、裏手の森で聞いた音を思い出した。重い音。枝が折れる音。あれと繋がっているのかもしれない。
ゴブリンの討伐は後回しでいい。キング持ちの群れは放置できないが、あと一日二日で動き出すこともないだろう。
起き上がって、握り飯を作った。
台所を出ると、母さんが縁側にいた。朝の茶を飲みながら、庭をぼんやり眺めている。
母さんがもう起きている。工房作業は遅くまでやっていたはずだが。
「出かけるの?」
「南の森。昨日の足跡をもう少し見てくる」
母さんがこっちを見た。穏やかな顔。だが目の奥に、昨日と同じものが一瞬だけ過ぎった気がした。
「気をつけてね」
三度目だ。一昨日と昨日に続いて。同じ言葉なのに、毎回少しずつ重くなっている。今日のはいつもの「行ってらっしゃい」じゃない。「余計なことはするな」に近い。
……考えすぎか。
「調べるだけだ」
「うん」
母さんは茶を飲んだ。今度はちゃんと中身が入っていた。
南の森に入ると、朝の空気がひんやりとしていた。
昨日と同じ道を辿る。東寄りのゴブリンの巣方面ではなく、帰り道で足跡を見つけた辺りに向かう。ゴルド草の群生地を過ぎて、少し奥。
あった。
昨日の三本爪の跡は、まだそのまま残っている。新しく上書きされた様子もない。雨が降っていないから当然だが、改めて見ると妙に生々しかった。
跡は三つ。森の奥に向かっている。昨日はここで引き返した。
今日は、追う。
足跡の方向に歩き始めた。太い三本爪の跡は、不規則に続いていた。直線ではない。木の根を避けるように、あるいは何かを探すように、蛇行している。
途中、木の幹に引っ掻き傷を見つけた。
ゴブリンの爪痕とは全然違う。三本の太い線が、深く、正確に刻まれている。高さは俺の胸くらい。樹皮をえぐって白い木肌が見えていた。
一本だけじゃない。十歩ほど先にもう一本。さらに先にも。
縄張りの印だ。一定の間隔で、同じ高さに、同じ三本線。これだけ正確に印をつけるなら、相当頭がいい。獣の本能的な行動にしては、整いすぎている。
嫌な予感、というほどではない。だが、何かが引っかかる。
さらに奥に進んだ。
木々の密度が上がり、日差しが薄くなった。南の森の中でも、この辺りまで踏み込んだことはない。地面は湿って柔らかく、落ち葉の下に苔が厚く生えている。
足跡が消えた。
地面が変わったからだ。苔の上では爪跡が残りにくい。だが幹の爪痕はまだ続いている。方角を確認しながら進む。
二十本。三十本。傷のついた木を数えていたが、途中でやめた。多すぎる。この獣は広い範囲を縄張りにしている。
不意に、幹の傷が途切れた。
最後の一本から先、木に傷がない。開けた場所に出た。倒木が何本か重なって、自然の壁のようになっている。その向こうに窪地。
窪地の縁で、足が止まった。
——いた。
倒木の向こう、窪地の底に近い場所。灰色がかった大きな影が、横たわっていた。
最初は岩かと思った。だが岩は呼吸しない。影の輪郭が、ゆっくりと膨らんで、縮む。
四足の獣だった。
灰色がかった鱗が全身を覆っている。鱗というよりも、皮膚の上に石のような層が重なっている感じだ。体躯は筋肉質で、無駄がない。大きさは角猪の大型雄よりさらに一回り大きい。
前足に、三本の太い鉤爪があった。
あれだ。あの足跡の主。鍛冶屋で聞いた噂が、猟師のヤスの目撃が、昨日の足跡が全部、ここに繋がっていた。
朧月の柄に手をかけた。抜いてはいない。まだ情報が足りない。
獣は横たわったまま動かなかった。寝ているのか。
——風向きを確認した。今度は向こう側から吹いている。俺の匂いは届いていないはずだ。
一歩、後退しようとした時。
獣が目を開けた。
薄い金色の目だった。
寝ていたのではない。こちらに気づいていた。最初からだ。
獣はゆっくりと頭を上げた。動きに無駄がなかった。角猪が突進してくる時の荒々しさとは全く違う。水が流れるような、滑らかな動き。
俺を見ている。
色々な獣を見てきた。獣が人間を見る時の目は、だいたい決まっている。「獲物」か、「脅威」か、「無関心」か。三つだ。それ以外はない。
この目は、そのどれでもなかった。
獣は立ち上がった。四本の脚が地面を踏む音が、静かに響いた。三本爪が地面に食い込む。
俺を「見ている」。
襲う気配はない。逃げる様子もない。
こちらを観ている。品定めとも違う。
何かを確かめているような目だった。
朧月の柄を握ったまま、俺も動けなかった。動く理由がなかった。
心臓だけが、やけに大きく打っていた。
十秒か、一分か。わからなかった。
獣が一歩踏み出した。こちらに向かって——ではない。横に。窪地の縁に沿って、ゆっくりと歩き始めた。俺との距離は変えないまま。
三本爪が地面に軽い跡を残していく。前足を見ると、三本の太い鉤爪が薄く光を弾いていた。鱗とも金属とも違う。結晶のような——。
獣は窪地を半周して、森の奥へ向かった。振り返らなかった。
そのまま消えた。木々の間に溶け込むように。あの体格で、音がほとんどしなかった。
しばらくその場に立っていた。
何が起きたのか、整理する。
大型の四足獣。灰色の鱗。三本爪。金色の目。俺よりでかい。俺に気づいていたが、襲わなかった。逃げもしなかった。こちらを観察して、去った。
知らない。
引き出しを全部開けてみたが、該当するものがない。ヴァルディアの山岳種にも、サハリナの沿岸獣にも、エルドヴァーンの森林種にもいない。ギルドの図鑑にも載っていない。少なくとも俺が見た中には。
もう一つ、気になることがある。
あの爪。光を弾いた時の質感。鱗でも骨でもない。何かが結晶化したように見えた。シェイルの結晶に似ている——いや、言い過ぎか。
わからないことが多すぎる。
窪地を一周して、獣が去った方向を確認した。追う気はない。今日はここまでだ。足跡の方向と、幹に刻まれた爪痕の配置だけ記憶して、帰路についた。
家に着いたのは昼過ぎだった。
母さんは工房にいた。扉の隙間からかちかちと道具の音がする。
「ただいま」
音が止まった。
「おかえり」
工房から出てきた母さんは、手にスライムの核の瓶を持っていた。
「見つけた?」
何を、とは訊かなかった。足跡の主のことだと、言わなくてもわかっている。
「いた」
母さんの手が、わずかに動いた。瓶を握り直す仕草。ゆっくりと、意識的に。
「……どんな?」
「でかい四足の獣。灰色の鱗に三本爪。俺の知ってるどの生き物とも違う」
「襲ってきた?」
「いや。何もしなかった。向こうもこっちも」
「……そう」
母さんは瓶を作業台に置いた。それから、縁側に出て腰を下ろした。俺も隣に座った。
しばらく黙っていた。
「母さん、あれが何か知ってるか」
直球で訊いた。回りくどいのは性に合わない。
母さんは庭を見ていた。
「知ってるか、って訊かれたら——」
「企業秘密か?」
「……ふふ」
母さんが笑った。静かな笑い方だった。
いつもなら笑って流す。今回は流さなかった。
「あの子は、危険じゃないよ」
あの子。
獣を「あの子」と呼んだ。
「知り合いか」
冗談で言った。母さんがどれだけ長く生きてるか知らないが、獣の一匹や二匹、知り合いでもおかしくはない。
母さんは答えなかった。
庭を見たまま、何かを考えているようだった。あるいは、何かを思い出しているような。工房にいる時の鋭い目とも、普段のふわふわした表情とも違う。
この顔は数えるほどしか見たことがない。
「零時」
「ん」
「あの子には、手を出さないで」
母さんがこちらを見た。真っ直ぐに。
「理由は?」
「——今は言えない」
企業秘密とは言わなかった。
それが答えだ。冗談で蓋ができる話じゃない。少なくとも、母さんにとっては。
「……わかった」
「ありがとう」
母さんが小さく頷いて、立ち上がった。
「お昼、作るね」
「また焦がすなよ」
「焦がさないよ。たぶん」
工房に戻らず、台所に向かった。珍しい。いつもなら、こういう会話の後は工房に逃げ込むのに。
昼飯は焦げなかった。握り飯と、前の煮物の残り。母さんは普通に食べて、普通に話して、普通に笑った。
だが母さんの目が、時折窓の外——南の方角に向くのを、俺は見ていた。
あの獣は何だ。母さんはなぜ「あの子」と呼んだ。なぜ「手を出すな」と言ったのか。
わからない。
冗談で済む何かじゃない。母さんの過去に関わる何かだ。
三百年、訊かずにきたことがある。母さんがどこから来たのか。何歳なのか。なぜ俺を拾ったのか。
全部、答えを急がなかった。いつか母さんが話したくなったら、聞けばいいと思っていた。
だが、あの金色の目。あの獣がこの森にいる理由。それだけは——待っていても答えが来ない気がする。
縁側に座って、南の空を見た。
まあ、明日は明日だ。ゴブリンの討伐もある。三本爪はそのうちまた会える気がする。あいつは逃げなかったから。
裏手の森から、風が吹いてきた。いつもと同じ風だ。——同じはずだ。




