第2話「企業秘密」
天気が良い日は昼寝に限る。
これは三百年かけて得た数少ない人生の結論だ。角猪を仕留めても、結局のところ人間が一番幸せを感じるのは何もしない時間だと思う。
縁側に寝転がって、木々の隙間から空を見上げる。雲ひとつない。風が時折林を揺らして、葉擦れの音だけが聞こえる。工房の方で母さんがごそごそやっている気配はあるが、まだこっちには来ていない。完璧だ。
完璧だった。
工房の方から、がたん、と音がした。
続いて、かちかちかちかち、と何かを叩く音。そして、ふわっと匂いが漂ってきた。ゴルド草だ。青臭いのに妙に甘い、あの独特の匂い。一昨日俺がわざわざ南の森まで行って採ってきたやつ。
もう使ってるのか。早いな。
しばらく無視していたが、音は止まなかった。がたん、ことん、かちかち。そして——
「零時ー」
来た。
「零時ー、ちょっとー」
聞こえないふりを三秒だけ試みた。無駄だった。
「零時。聞こえてるのは知ってるよ」
声に怒りはない。ただの事実確認だ。長い付き合いだ。聴覚の範囲くらい把握している。
諦めて起き上がった。
「……何」
「手が足りないの。ちょっとだけ」
母さんの「ちょっとだけ」は信用してはいけない。断ったところで最終的には手伝わされるのだから、起き上がった時点でもう負けている。
母さんの工房は、家の奥にある。
広さはそこそこだが、中は物で溢れている。棚には瓶が百本以上。乾燥した草、鉱石の粉末、スライムの核の瓶詰め、ドラゴンの鱗を砕いたもの、出所のわからない液体や骨。
ラベルが貼ってあるものとないものがあって、ないものの方が多い。母さんにしかわからない配置だ。
中央に大きな作業台があり、その上に紙、器具、素材、書きかけのメモ。一見すると混沌だが、母さんは迷いなく必要なものに手を伸ばす。
「これ持って」
渡されたのは石の鉢だった。中にゴルド草が刻んで入っている。一昨日採ったやつの半分くらい。
「すり潰して。細かく、均一に」
「どれくらい」
「粒が見えなくなるまで」
はいはい。石の杵を取って、ゴルド草をすり始めた。
母さんはその間に作業台の上で何かをやっている。小さな炉に火を入れて、別の鉢で何かの粉末を混ぜている。手つきが速い。
普段の母さんは——何というか、ふわふわしている。朝飯を炭にするし、「ついで」で二刻の寄り道を歩かせるし、大事なことを世間話みたいに言う。
だが工房にいる時の母さんは、少し違う。
目の動きが速い。素材を見る目に迷いがない。手が正確に動く。
「母さん、これ何作ってるの」
「ん? 薬」
「何の」
「企業秘密」
いつもこれだ。
「もう少し細かく」
「十分細かいだろ」
母さんが鉢を覗き込んで首を振った。俺の手から杵を取って、数回すった。力加減も角度も全然違う。同じ道具なのに、母さんが持つと別の物みたいだ。
「慣れだよ」
まあ、何百年もやっていれば慣れるだろう。
杵を返されて、作業を続けた。
ふと母さんが言った。
「今度、街のドルンの鍛冶屋に寄ったら、鉄の削りくず少しもらってきて」
「削りくず?」
「ドルンが打った鉄には共鳴の残滓が微量に残るの。それが要る」
「今日行ってくるか」
「え、いいの?」
「どうせ昼寝は潰れた」
しばらく黙々とすり潰していると、母さんが作業台の端から古い瓶を取り出した。見覚えのない瓶だ。ラベルはなく、中身は深い紫色の液体。
「それ、前からあった?」
「うん。ずっと前から」
「見たことないけど」
「奥の棚の、さらに奥」
奥の奥。隠していたようなものだ。母さんはその液体を一滴だけ——正確に一滴だけ——小さな皿に落とした。
紫の液体が皿の上でわずかに光った。いや、光ったように見えただけかもしれない。
「……何それ」
母さんは答えなかった。その一滴を俺がすったゴルド草の粉末と混ぜ始めた。指先で、慎重に。
混ぜている間、母さんの顔を見ていた。
普段の柔らかい表情ではなかった。真剣、とも違う。——どこか遠くを見ていた。
長く一緒にいて、時々こういう顔をする。
「母さん」
「ん?」
顔を上げた時には、もう何でもない顔に戻っていた。
「それ、何に使うんだよ。ちょっとくらい教えてくれたっていいだろ」
「んー……」
母さんは少し考えるような顔をして、それから笑った。
「零時が風邪ひいた時の薬」
「俺、風邪ひかないだろ」
「ひくかもしれないじゃない。三百年ひいてなくても、明日ひくかも」
「その理屈はおかしい」
「備えあれば憂いなし」
いや、そんな大層な準備を必要とする風邪薬があるか。ゴルド草を根ごと採らせて、謎の紫色の液体まで使って、風邪薬。嘘だ。
だが母さんがそう言うなら、それ以上は訊かない。
手伝いが一区切りついたところで、街に向かった。
ドルンの鍛冶屋は東通りの奥に工房を構えている。
「母さんが、鉄の削りくずを少し分けてくれって」
「ああ、前にも頼まれたな。何に使うんだ?」
「さあ。企業秘密だそうだ」
鍛冶屋が笑って、鉄粉を袋に詰めてくれた。金は取らなかった。
「ついでだ、刀出しな。見てやる」
朧月を抜いて渡した。ドルンが刃を光に透かして、指の腹で峰を撫でた。共鳴で聴いている。
「悪くない。油はちゃんと引いてるな。研ぎはもう少し先でいい」
「冴月は」
「抜いてないなら見る必要もないだろう」
そうだな。抜いていない。もう何年も。
朧月を鞘に戻した。
受け取りながら、ドルンが思い出したように言った。
「そういえば零時、南の森に最近行ったか」
「ゴルド草を採りに。どうした」
「猟師のヤスが妙なことを言っててな。でかい三本爪の足跡を見たって。この辺にいる獣じゃないらしい」
「三本爪?」
「ああ。手のひらより大きいって話だ。ヤスも三十年以上森に入ってるが、見たことないと」
三十年以上。俺はもっと長いが、聞き覚えがない。
「いつの話だ」
「四、五日前だな。ゴルド草が生える辺りのさらに奥で見たって言ってた。まあ、森には色々いるからな。気にするほどでもないかもしれんが」
「……ああ」
「あと、釘を頼めるか。薪小屋の屋根がやられた」
「先月の風か。了解、二、三日で作る」
鉄粉をアイテムバッグにしまって、鍛冶屋を出た。
家に着くと、母さんが工房から出てきた。
「あ、鉄粉。ありがとう」
袋を開けて、中の鉄粉を指先でつまむ。目を閉じて、何かを確かめるように指を擦り合わせた。
「……うん、いい鉄。あの鍛冶屋、腕がいいね」
「何に使うんだ」
「企業秘密」
知ってた。
「母さん」
「ん?」
「鍛冶屋が言ってたんだが、南の森で三本爪の足跡を見た猟師がいるらしい。でかいやつだと」
母さんの肩が上がった。一瞬だけ。
「三本爪? どのくらいの大きさだって?」
「手のひらより大きいって話だ」
「……ふうん」
母さんは鉄粉の袋を閉じた。何でもない顔だった。だが一つだけ、気になった。
「ふうん」の前に、訊いた。大きさを。興味がないなら、訊かない。
「まあ、森には色々いるからね。気をつけてね」
母さんは鉄粉を持って工房に戻っていった。その足取りを、なんとなく目で追った。変わらない速さ。変わらない背中。
たぶん、気のせいだ。
翌朝は母さんより先に起きた。
握り飯を二つ作り、一つはテーブルに置いた。仲介所でゴブリンの調査依頼を受けた。南の森の東寄り。数と巣の場所の確認。
南の森に入ると、空気が変わった。
木々の密度が上がって、日差しが届きにくい。足元は落ち葉が厚く積もっていて、湿っている。ゴルド草を採ったのはこの森のもう少し西寄りだ。東は初めて踏み込む。
しばらく歩くと、匂いが来た。
——臭い。
ゴブリン特有の酸っぱい獣臭。慣れないわけではないが、好きになることもない。何年経っても臭いものは臭い。
足跡を辿る。小さな裸足の跡が地面に無数についていた。踏み荒らし方からして、二十、あるいは三十。嫌な数だ。
木の上に登って、高い位置から様子を窺った。
——見えた。
百歩ほど先の窪地に、木の枝と泥で雑に組んだ囲い。中でごそごそ動く影。二十は超えている。
問題は、中央の少し大きな影。ゴブリンキング。千匹に一匹のリーダー個体。こいつがいると群れが統率されて厄介だ。
風向きが変わった。角猪の時もこれだった。俺は風運に恵まれていないのかもしれない。
下のゴブリンが数匹こちらを向いた。だが木の上までは見ていない。キングが叫び、全員が囲いの中に引っ込んだ。統率が効いている。
十分ほど待ってから、音を立てずに木を降りた。
帰りに、足をゴルド草の方角に向けた。ヤスが見たという場所に近い。
地面が不自然に掘り返されている。ゴブリンの足跡とは違う。もっと大きくて、深い。
しゃがんで見ると、太い三本爪の跡だった。幅は俺の手のひらより大きい。爪の食い込み方からして、かなり重い生き物だ。
鍛冶屋の話は本当だった。
この辺りの森は何度も歩いている。角猪、ゴブリン、スライム、たまに大型の狼。だがこの爪跡は、そのどれとも違う。ヴァルディアの山岳種やサハリナの沿岸獣とも違う。俺の知っている生き物の足跡じゃない。
跡は三つだけ残っていて、森の奥に向かっている。ゴブリンの巣とは方向が違う。
……気にはなる。だが今日は情報が足りない。
記憶にとどめて、仲介所に向かった。
「二十以上、キング持ちか」
ゴンザが腕を組んだ。
「討伐依頼に切り替える。報酬は銀貨五十枚まで上げるか。零時、受けるか?」
「考える」
「お前が考えるって言う時は大体やるんだよな」
否定はしなかった。
調査報酬の銀貨二十枚を受け取って、仲介所を出た。
三本爪のことは、報告しなかった。もう少し確認してからでいい。
家に帰ると、母さんが台所で茶を淹れていた。
「……何か見つけた?」
ゴブリンの話をしたのではない。母さんの目は、もっと別の何かを訊いていた。昨日、三本爪の話をした。その続きを、待っている顔だ。
「三本爪の足跡があった。ドルンの話は本当だ。俺の手のひらより大きい」
母さんがテーブルの上で手を組んだ。
「……ふうん」
昨日と同じ相槌。だが昨日より、間が長かった。
「母さん。あれ、何か知ってるだろ」
直球で訊いた。昨日は流した。だが足跡を自分の目で見た今は、別だ。
母さんは茶を一口飲んで——いや、飲み終わっていたかもしれない。空の湯呑みを口に運んで、それに気づいて苦笑した。
「まあ、森には色々いるからね」
「明日、もう一回見に行く」
「——気をつけてね」
母さんの声が変わった。いつもの「行ってらっしゃい」ではない。もっと切実な何かが、一瞬だけ滲んだ。
母さんは工房に消えた。その足取りが、ほんの少しだけ速かった。
昨日は気のせいかと思った。今日は、違う。
まあ、明日確かめればいい。足跡のほうを。
母さんのほうは何百年かけても、たぶん無理だ。
工房の奥で何かが倒れる音がした。




