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第11話「鼻歌」

 鼻歌が出ていた。

 いつからかは覚えていない。気づいたら歌っている。何千年も同じ曲を歌い続けていて、もう曲名も思い出せない。そもそも曲名があったのかどうかも怪しい。

 乳鉢の中でゴルド草の根をすり潰しながら、指先に伝わる抵抗を確かめた。繊維が硬い。品質は悪くない。零時れいじが採ってきたやつだ。あの子は適当に見えて、素材を選ぶ目は確かだ。教えたわけでもないのに。

 「ちょっとだけ」と言って工房に来たのが、何時だったか。もう覚えていない。

 ちょっとだけが朝まで続くのは、あの子も知っている。ずっと同じことを繰り返している。あの子は呆れた顔をする。でもたぶん怒ってはいない。怒ったことがないわけじゃないけど、こういうことでは怒らない子だ。優しい。三百年経っても変わらない。

 乳鉢を回す手を止めて、粉末を瓶に移した。ラベルは貼らない。私にはわかる。

 棚の奥に、紫色の瓶が見えた。

 ……今日は触らない。

 あの瓶の中身は、まだ時間がかかる。三百十五年かけて、答えが出ていない。あの子が何なのか。なぜこんなに長く生きているのか。なぜ老いないのか。

 私と同じではない。私には理由がある。あの子には、ない。少なくとも私が知る限り。

 答えを見つけるのが怖い。見つけて、あの子に伝えて、あの子が「じゃあ俺は何なんだ」と思ったら。あの、感情が枯れていない目が曇ったら。

 やめよう。今夜はこの瓶の前に立たない。

 鼻歌を続けた。次の瓶に手を伸ばした。鉄粉。ドルンの鍛えた鉄には、独特の共鳴残滓がある。指先で摘まんで、目を閉じた。悪くない。いい鉄だ。

 壁の向こうで、零時が寝返りを打った。布団の擦れる音。

 あの子は普段なら寝つきがいい。横になって目を閉じたら、五分もかからない。ずっとそうだ。赤ん坊の頃から……

 今日は何かあったのかな。仲介所から帰ってきた時、顔に出ていた。「別に。仕事の話」と言ったけど、あの子が「別に」で返す時は、だいたい別にじゃない。長くいれば、それくらいはわかる。

 まあ、訊かない。あの子にも企業秘密はある。



 空気が変わった。

 手が止まった。

 森の匂い。いつもと違う。

 夜の森は冷たくて、湿っていて、苔と朽ちた木の匂いがする。それはいつも通りだ。だがその下に——甘い匂い。腐った果実のような、重い匂い。

 薄い。遠い。

 でも、知っている。

 この匂いを最後に嗅いだのは、いつだったか。千年前。いや、もっと前。

 考えるのをやめた。あの日のことは、考え始めると底がない。

 壁の向こうで、零時がまた動いた。起き上がったのかもしれない。

 ……眠れないんだね。私も、ちょっとだけ落ち着かない。

 時計を見た。深夜。あの時間だ。

 零時が教えてくれた、あの足音の時間。

 「あいつ、毎晩来てる。南から西、北を回って帰る」

 あの子がそう言った時、私は動かなかった。動かないふりが上手になったのは、こんなに長く生きているんだからしかたがない。

 でも、知らなかった。本当に知らなかった。

 毎晩、来ていた。あの子が。この家の周りを。

 私が工房で鼻歌を歌っている間も。零時が布団で寝ている間も。ずっと。

 何千年、気づかなかった。気づけなかったのか、気づかないふりをしていたのか。自分でもわからない。

 零時に教えてもらってから、聴くようになった。あの時間に耳を澄ませると、遠くで枯れ葉を踏む音がする。重くて、静か。一定の間隔。あの子の足音だ。

 今夜も聴こうとした。

 時間がだいぶ過ぎた。

 ——来ない。

 いつもなら、とっくに南の方から聞こえているはずだ。

 来ない。

 代わりに、別のものが届いた。低い振動。地面を通って伝わってくるような、遠い残響。森の奥から。

 それと、血の匂い。

 甘い腐臭とは違う。もっと生々しい。

 知っている匂いだ。



 工房の裏戸を開けた。

 月明かりが庭に落ちていた。半月。灯草ともしそうが白く灯っていた。

 森の縁は暗い。木々の輪郭が月に照らされて、黒い壁のように立っている。

 虫の声がしていた。風はない。

 待った。

 どれくらい待ったかは覚えていない。たぶん長くはない。でも長く感じた。どれだけ長く生きても、待つ時間は短くならない。

 木々の間から——影が出てきた。

 ゆっくり。重い。体を引きずるように。

 灰色がかった鱗が月明かりを受けて、鈍く光った。三本の太い鉤爪が地面に深い線を引いている。一歩ごとに。普段なら音もなく歩けるはずなのに。

 金色の目。

 暗闇の中で、その目だけがはっきりと見えた。

 ——知っている。

 あの鱗は、私が見た時には皮膚だった。あの爪は指だった。あの目は——あの目だけは、変わっていない。色も、光も。人だった頃と同じ金色だ。

 何千年も会っていなかった。ずっと近くにいたのに。気配は感じていた。足音は聴くようになった。でも会いに行かなかった。行けなかった。

 私のせいでああなった。

 あの日、私が止められたら。あの場所に連れて行かなかったら。

 獣が、倒れた。

 森の縁。灯草のすぐ傍。家の敷地に入らないぎりぎりの場所。

 あの子は知っている。ここが境界だと。家と森の間の見えない線。私が越えられなかった線を、あの子も越えない。越えようとしない。

 ——でも、今夜は。

 歩き出した。

 草履の底に夜露が冷たかった。七歩。八歩。零時が西の森に行った時と同じ歩数かもしれない。あの子が越えた線を、今度は私が越える。

 近くで見ると、傷が見えた。

 左の脇腹。鱗が裂けて、暗い赤が露出していた。血が鱗の表面を伝って、地面に滴っている。

 裂け目に何かが結晶化していた。青白い。冷たい光。

 ……これは。

 見たことがある。

 考えるのは後だ。

 しゃがんだ。膝が地面についた。冷たい。湿っている。

 手を伸ばした。

 鱗に触れた。

 冷たかった。硬い。石でも金属でもない。なのに——その下に、微かに脈がある。弱い。だが確かだ。

 生きている。

 「……面倒な子だね」

 声が出た。自分でも驚いた。

 「昔から面倒な子だった」

 金色の目が、私を見た。

 零時はあの目を「確かめている目」と言った。「知っている目」とも。

 私には——ただの、あの子の目に見えた。

 毎日工房の前に来て、「師匠」と呼んで、追い返しても翌日にはまた来た。面倒くさくて、しつこくて。でも才能はあった。教えれば吸収した。手先が器用で、目が良かった。

 その目。金色の、まっすぐな目。

 変わっていない。何千年経っても。

 「待ってて。薬を持ってくる」

 立ち上がった。



 工房に戻って、棚を開けた。

 手は迷わない。この手は、どこに何があるかを覚えている。

 止血の膏薬。消毒の蒸留液。再生を促す鉱物粉。紫の瓶の隣、いや、それは零時のだ。二つ右の、緑の瓶。

 薬を抱えて裏戸から出た。

 獣はまだ同じ場所にいた。目を閉じかけている。呼吸が浅い。

 「寝ないで。まだ」

 膝をついて、傷口に手をかけた。

 蒸留液で洗う。獣の体が小さく震えた。……ごめんね。でも洗わないと。

 血と一緒に、青白い結晶の破片が流れ出た。月明かりに透かした。冷たい。かすかに脈打っている。

 やっぱり。まだこんなものが、この森の奥に残っている。

 考えるのは後。今は手を動かす。

 膏薬を指に取って、傷口に塗った。鱗の感触が指先に伝わる。硬くて、冷たくて。でも少しだけ温かい場所がある。脈が通っている場所。生きている場所。

 鉱物粉を傷の縁に振った。鱗の再生を促す。人の傷の治療法が、この子の体にどこまで通用するか。わからない。でも、長くやってきた。試した分だけ、わかることはある。

 手が動く。洗って、塗って、押さえて。

 私の手は震えない。この手は、震えることを忘れている。

 ——嘘。

 震えている。気づかれないように、動かし続けているだけ。

 獣が鼻先を動かした。

 私の手に顔を寄せた。

 匂いを嗅いでいる。

 零時を通して届いた残り香ではない。今度は直接。私の手の匂い。薬草と、鉱物粉と、炉の煤と、石鹸。

 工房の匂い。

 あの子が弟子だった頃、毎日この匂いの中にいた。

 ……覚えているの。

 金色の目が閉じかけていた。呼吸が深くなっていく。安心しているのかもしれない。獣にそんな感情があるのかは、わからない。でもそう見えた。

 鼻歌が出た。

 意識して歌ったのではない。手を動かしながら、自然に。いつもの曲。工房で一人の時に歌う、何千年も変わらない曲。

 でも、私だけの曲じゃなかった。

 あの子が弟子だった頃。工房で聴いていた曲。私が作業している横で、瓶を磨いたり、素材を仕分けたりしていた。しつこくて、面倒くさくて、でも手を動かし始めると黙る子だった。その間、ずっとこの鼻歌が流れていた。

 覚えているわけがない。名前も、自分が誰だったかも、もう残っていないはずだ。

 でも獣の呼吸が、落ち着いていく。

 目が閉じた。体の震えが止まった。鱗の下の脈が、ゆっくり安定していく。

 匂いと、音。

 言葉を忘れても。名前を失っても。体が変わっても。

 匂いと音だけは——届くのかもしれない。

 鼻歌を止めなかった。獣の呼吸に合わせて、ゆっくり。月が傾いていった。



 傷口の血は止まっていた。膏薬が固まって、鱗の表面に薄い膜を作っている。完全ではない。でも命に関わるものではなくなった。

 獣が目を開けた。

 金色の目。月明かりを受けて、静かに光っている。

 ゆっくりと体を起こした。前脚に力を入れて、後ろ脚を引いて。動きが鈍い。でも立てる。

 森の方を向いた。

 ——帰るんだね。

 止めなかった。止める権利は、私にはない。

 獣が一歩、森に向かった。

 二歩目で——振り返った。

 零時が言っていた。あの子は振り返らないと。南の森で初めて会った時も、西の森で会った時も。振り返らずに去ったと。

 今夜は、振り返った。

 金色の目が私を見ていた。

 長い時間。

 何を見ているか。私の顔を覚えているのか。覚えていないのか。それとも、何も覚えていなくても、匂いと音だけで、ここが自分の場所だったと知っているのか。

 わからない。わからなくていい。

 今、この子がここに来た。傷ついて、痛くて、どこかに行かなくてはいけなくて——ここに来た。

 それだけで。

 視界がにじんだ。

 「……行きなさい」

 声が掠れた。

 「明日も来なさい。来なくてもいい。でも——来ていいから」

 獣が小さく鼻を鳴らした。

 もう一度私を見て、それから、森に消えた。

 いつもの水のような動きではなかった。少し重くて、少し遅い。でも、歩けている。

 灯草が揺れた。風はないのに。一枚、花弁が落ちていた。その隣で、新しい蕾が膨らんでいた。

 毒にも薬にもならない。ただ綺麗なだけの草。

 ……嘘。この草は薬だ。誰にも効かないけど、私には効く。

 立ち上がった。膝が痛かった。手には血と薬草の匂いが染みていた。

 家に戻り、手を洗った。水が冷たい。血が薄い赤になって流れていく。

 工房の扉を閉めようとして、やめた。少しだけ開けておいた。理由はない。なんとなく。

 台所に行った。

 米を研いで、握り飯を作った。二つ。形はまとも。焦げてもいない。たぶん。

 テーブルに並べた。

 あの子が起きたら、びっくりするかな。「奇跡だ」って言うかな。

 窓の外が白み始めていた。

 鼻歌が出た。あの曲。何千年も歌い続けている曲。さっき、あの子の傷を治しながら歌った曲。

 同じ鼻歌だ。何も変わっていない。

 ——でも、声が軽かった。


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