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第10話「棍棒」

 三日が経った。

 三日が経った。

 異議申し立てはなかった。わけがない。

 ハンスが仲介所に来たのは、二日目の昼だった。

 俺は買い物の帰りで、東通りを歩いていた。仲介所の前を通りかかった時、中から声が聞こえた。

「何もいなかった? そんなわけがない」

 ハンスの声だった。扉の向こうから、太い声が漏れている。扉は閉まっているのに、声が通りまで届いていた。

「足跡があったんだ。猟師が見たんだ。二十三軒が署名したんだ。それが『何もいなかった』で終わりか」

 ゴンザの声は聞こえなかった。低い声は壁を通さない。

「調査の結果だと? 半日歩いて何もない? あの冒険者は——」

 足を止めた。

「あの冒険者は本当に調べたのか。南の森を全部歩いたのか。あいつは前から——前からあの獣のことを知ってたんじゃないのか」

 当たっている。

 通りを行く人が二人、仲介所の方を見て足を速めた。声が外まで漏れている。

 壁越しに、ゴンザの声がかすかに聞こえた。言葉は拾えない。だが声の調子でわかる。低く、一定のリズム。手続きの説明をしている。「調査の結果、脅威は確認されなかった」「依頼は正規の手順で処理されている」。

 ハンスの声が上がった。

「手順? 手順で家畜が守れるのか!」

 間があった。長い間だった。

「……わかった」

 ハンスの声が、急に静かになった。

 怒鳴るのをやめた声。諦めたのではない。もっと深い場所に落ちた声だ。

「わかった。もういい」

 扉が開いた。

 ハンスが出てきた。後ろに四、五人の農夫が固まっている。

 目が合った。

 一秒。ハンスの目が俺を見た。怒りではなかった。もっと深い。金を出して、署名を集めて、正式な手順を踏んだ。それでこの結果。

 口は動かなかった。

 だが目が言っていた。

 ——お前は知ってるんだろう。

 ハンスは俺の横を通り過ぎた。肩は触れなかった。触れる距離にもいなかった。だが通り過ぎる時の空気が、重かった。

 後ろの農夫たちも、黙って後に続いた。一人だけ、俺を振り返った。目がすぐに逸れた。

 足音が遠ざかった。東通りの角を曲がって、消えた。

 仲介所の扉は開いたままだった。中からゴンザの声。

「——入れ」



 入った。

 仲介所の中は静かだった。さっきまでの声が嘘のように。壁の掲示板に貼られた紙が数枚、風で揺れていた。

 ゴンザが茶を淹れていた。二人分。湯気が受付の上でゆっくり昇っていく。

「聞いてたか」

「途中からだ」

「途中で十分だろう」

 ゴンザが湯呑みを置いた。俺の前と、自分の前に。

「異議申し立ては受理しなかった。手続き上の不備がない。調査は正規に行われ、報告は受理されている。覆す根拠がない」

「……ああ」

「覆す根拠はない——が、ハンスの言い分に理がないわけでもない」

 ゴンザが俺を見た。四十年の目だ。

「二十三軒が怖がっている。調査して何もいませんでした。はいそうですか、で済むと思うか」

「……思わない」

「ハンスは『わかった』と言った。俺の経験上、ああいう声で『わかった』と言う人間は、わかっていない。何かを決めた声だ」

 茶をすすった。苦かった。

「気をつけろ。お前にじゃない。ハンスにだ」

「どういう意味だ」

「ハンスは悪い男じゃない。怖がってるだけだ。だが怖がってる人間が正規の手段で守ってもらえないと思った時——自分でやろうとする」

 ゴンザの読みは、いつも正確だ。

「止められるか」

「仲介所は依頼を処理する場所だ。住民の行動を制限する権限はない。ハンスが一人で森に入ると言っても、止める手段がない」

「……」

「お前に言えるのはここまでだ。茶、もう一杯飲んでいけ」

 飲まなかった。立ち上がった。

「ゴンザ」

「ん」

「すまない」

「何がだ」

「面倒をかけた」

「面倒はいつものことだ。お前の面倒は四十年前から折り込み済みだ」

 いつもの声が戻った。

 仲介所を出た。



 その夜。

 布団の中で天井を見ていた。

 ゴンザの言葉が頭にこびりついている。「正規の手段で守ってもらえないと思った時、自分でやろうとする」。

 ハンスの目を思い出した。あの静かな声。怒鳴るのをやめた後の、底の抜けた声。

 あの男は、行動する。止める手段がない。

 仲介所は動かない。依頼はクローズされた。ヤスは追わない。俺は報告した。全部、「正規の手順」通りだ。手続きは完璧だ。

 手続きが完璧なのに、誰も守られていない。

 あの時間が来た。

 足音が聞こえるはずの時間だ。南から来て、西を通って、北を回る。重くて、静かな音。毎晩同じ時間に、同じ道を。

 ——聞こえない。

 耳を澄ませた。虫の声。風の音。遠くで犬が一声鳴いた。それだけだ。

 あの足音がない。

 今夜は来ていない。

 理由はわからなかった。あいつが来ない夜は、これが初めてだ。少なくとも、俺が気づくようになってからは。

 月明かりが、障子の隙間から入ってきていた。

 眠れなかった。



 同じ夜の、もう一つの話。

 ハンスは家を出た。

 妻は寝ていた。子供も寝ていた。末の娘の部屋から、小さな寝息が聞こえた。裏口から出た。音を立てないように。靴の紐をきつく結び直した。手が震えていたが、紐は結べた。

 手には棍棒があった。樫の木で作った、太い棒。猟師の道具じゃない。柵を打つ時に使う杭打ち用の棒だ。握りの部分だけ布を巻いてある。今日巻いた。

 月が出ていた。半月。道は見える。

 南の丘を越えた。牧場の横を通った。直した柵が月明かりに白く光っている。あの朝のことを思い出した。山羊が三頭、滅茶苦茶にされていた。首に太い爪痕。子供に見せないように、布で覆って運んだ。末の娘が「メイはどこ」と訊いた。答えられなかった。

 あれは岩猫だった。冒険者がそう言った。猟師もそう言った。南の森の獣とは別だと。

 ——嘘だ。

 嘘だとは思っていない。あの冒険者の目は嘘をついていなかった。岩猫の話は、たぶん本当だ。

 だが本当かどうかは、もう関係ない。

 署名を集めた。二十三軒。正式な手順を踏んだ。調査依頼が出た。冒険者が調べた。「何もいませんでした」。

 何もいない。

 何もいないのに、なぜ怖い。

 夜道を歩きながら、ハンスは自分に訊いた。答えは出なかった。出ないまま歩いた。草を踏む足音と、棍棒が太腿に当たる小さな音だけが、夜の中に響いていた。

 南の森の入口に着いた。

 木々が黒い壁のように立っている。月明かりが梢の隙間から地面に落ちている。白い斑点が、奥へ続く道のように見えた。

 虫の声がしていた。蛙も鳴いている。風はない。木の葉は動いていない。

 一歩、踏み込んだ。

 枝を踏んだ。音が大きい。大きすぎる。自分の足音だけが鳴っている。

 二歩目。三歩目。暗い。目が慣れてきた。慣れたくなかった。

 棍棒を握り直した。手が汗ばんでいる。布を巻いてよかった。滑らない。

 奥へ歩いた。

 何を探しているのか、自分でもわからなかった。獣を見つけてどうする。棍棒で殴れるのか。殴って、どうなる。

 どうにもならない。わかっている。

 だが家で寝ていられなかった。妻の寝息を聴きながら、天井を見て、柵の向こうの暗闇を想像して、それを毎晩繰り返すくらいなら、自分の足で確かめた方がましだった。

 「何もいない」。それを自分の目で見たかった。ただ、それだけだ。

 森の奥に入った。木々が密になっていく。月明かりが減る。足元が見えにくい。根を踏んで、よろめいた。棍棒で地面を突いて体勢を戻した。

 顔を上げた時、目の前の幹が目に入った。

 月明かりが届いている。幹の表面に線があった。

 三本。

 太い爪で引っ掻いたような、三本の線。高さは胸のあたり。傷は古い。縁が丸くなって、灰色に変色している。だが形ははっきりしていた。

 ——三本爪。

 棍棒を握る手に力が入った。

 やはり、いるじゃないか。

 「何もいなかった」。あの報告は、やはり。

 奥を見た。暗闇が続いている。この先に、いる。

 息が荒くなっていた。歩いているだけなのに。丘を越えた時より、脚は重くなっていた。だが足は止まらなかった。証拠を見つけた。ここで引き返すわけにはいかない。

 虫の声が——止まった。

 蛙も黙った。

 風はない。木は動いていない。なのに、空気が変わった。

 重くなった。

 ハンスの足が止まった。

 周囲を見回した。暗闇。木の幹の列が、黒い柱のように並んでいる。月明かりは頭上のどこかにあるはずだが、ここには届いていない。

 音がする。

 足音ではない。もっと低い。地面を通って伝わってくるような、腹の底に響く振動。何かが近い。何かが、この森の中で、動いている。

 棍棒を両手で握った。持ち方が間違っている気がしたが、正しい持ち方なんて知らない。

 振り返った。

 来た道の暗闇に、何かがいた。

 月明かりの届かない場所。木々の隙間の、最も暗い部分。そこに——影があった。

 影が、動いた。

 大きい。大きい。木の間を埋めるように広がっている。影なのか別の何かなのかわからない。

 棍棒を握る手が震える。

 匂いがした。甘い。重い。喉の奥に絡みつく。

 影の中で何かが光った。いくつも。青白くて、冷たい。

 ハンスの口が開いた。声は出なかった。

 影が一歩、近づいた。地面が震えた。足元の枯れ葉が、音もなく揺れた。

 ——走った。

 振り返らずに走った。棍棒を落としたが、拾わなかった。枝が顔を引っ掻いた。根に躓いた。手をついて、立ち上がって、また走った。

 背後で音がした。

 あの低い振動ではない。別の音。鋭い。地面ではなく空気を裂くような、短い咆哮。

 地面の震えが、止まった。

 甘い匂いが薄れた。空気が軽くなった。

 何が起きたかもわからない。ただ走った。

 息が切れた。脚がもつれた。木の幹にぶつかって、肩が痛んだ。構わず走った。追われている感覚はもうなかった。だが足は止まらなかった。

 森を出た。丘を越えた。牧場の柵が見えた。月明かりの下の、白い柵。

 走り続けた。家の裏口に辿り着いた。扉を開けて、中に入って、閉めた。背中で扉を押さえて、そのまま座り込んだ。

 息が荒い。心臓が痛い。手が震えている。

 妻が起きた。「どうしたの」と声がした。答えられなかった。

 あれは——三本爪じゃない。

 あの爪痕は確かにあった。森の奥の木に。だがあの影は、爪痕の主とは違う。もっと、もっと別の何かだ。

 では、あの咆哮は。

 あの影を止めた、あの鋭い音は——何だ。

 ハンスは顔を上げた。震える手を見た。傷だらけだった。枝で引っ掻かれた傷。転んで擦りむいた掌。だがそれだけだ。あの影には、一度も触れられていない。

 何かが、止めたのだ。

 あの影とは別の何かが。

 三本爪の痕跡。あの咆哮。

 ハンスは震える手で顔を覆った。何もわからない。何一つ。だが一つだけ、確かなことがあった。

 自分は——助けられた。

 棍棒は、森の中に落ちたままだった。


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