第1話「いつもの朝」
朝日が差し込む前に、嫌な予感で目が覚めた。
こういう勘だけは三百年も生きてると妙に鋭くなる。三百年。自分で言っておいて、たまに意味がわからなくなる。
案の定、台所から煙が出ていた。
「……おい」
「あ、おはよう零時。見てこれ、面白いの」
母さんが振り返る。手には焦げた何か。いや、もはや炭だ。
「朝飯を作ろうとしたの」
「嘘つけ」
「嘘じゃないよ。途中でちょっと火の配合を変えてみたら——」
「だから燃えたんだろ」
「燃えたんじゃない。変質したの」
言い方を変えても結果は同じだ。
俺は窓を開けて煙を逃がしながら、棚から干し肉とパンを取り出した。長い付き合いだ。こういう時の段取りは体に染みついている。
母さんはもう炭のことなど忘れて、テーブルに広げた紙に何かを書き込んでいた。さっきの「火の配合」とやらが、よほど収穫だったらしい。
ちらりと覗くと、びっしりと式が並んでいる。俺には読めない。一度も。
「零時、今日は何するの」
「依頼が入ってる。風越の南のほう、畑を荒らしてる何かを見てきてくれって」
「何か」
「何かは行ってみないとわからん」
「ふうん」
興味なさそうに言って、また紙に目を落とす。
と思ったら顔を上げた。
「ねえ、ついでに南の森でゴルド草採ってきて」
「ついでの距離じゃないだろ」
「え、近いよ? 町から歩いて二刻くらい」
「それをついでと呼ぶな」
母さんはにっこり笑った。この笑顔を向けられると大体断れないことを、本人も俺もよくわかっている。三百年の学習結果がこれだ。何も学んでない。
「……量は」
「両手いっぱい」
「片手にしろ」
「じゃあ片手と半分」
「片手だ」
「はーい」
素直に引き下がったように見えるが、帰ってきたら「あら、それだけ?」と言う未来が見えている。
支度を終えて、玄関で草履を履く。母さんはまだテーブルに向かっていた。
「行ってくる」
「はいよ。——あ、零時」
「ん?」
「南の畑、たぶん角猪だよ。この時期、山の水場が涸れるから降りてくるの」
振り返ると、母さんはこっちを見ていなかった。紙に目を落としたまま、まるで天気の話でもするように言った。
「……行ってもないのによくわかるな」
「長く生きてるからね」
軽い口調だった。だが時々、この人の「長く」がどこまで遡っているのか、俺にはわからなくなる。
三百年一緒にいて、俺はこの人のことを何も知らない。俺自身のことも。
——まあ、べつにいいんだが。
腰に二振りを差して家を出ると、実月の風が林を抜けていった。
俺たちの家は風越の街から少し離れた森の中にある。街までは歩いて小半時。木漏れ日の中を行くと、道の脇に灯草が群生していた。花の季節はとうに過ぎて、今は丸い葉だけが地面を覆っている。
春に咲く白い花を母さんは気に入っていて、「毒にも薬にもならない、ただ綺麗なだけの草」だと言っていた。
林が途切れた。坂の上に出ると、風越の街が下に広がっていた。蒼嶺の瓦屋根が左手に並び、右手にヴァルディアの石壁が続いている。真ん中の通りに朝市が出ている。坂を下ると、土の道が石畳に変わった。草履の底に硬い感触が伝わる。
朝市はもう始まっていた。瓦屋根の軒下と石壁の庇が向かい合う通りに、露店が出ている。人間も亜人も関係なく声を上げていた。国境の街だ。いつもの朝。
通りの角で痩せた犬が日向に寝ていた。誰の犬かは知らない。何代目かも知らない。ずっとここにいる。
市場の通りを抜けて、仲介所に入った。木造の平屋だ。入口の扉を開けると、正面に帳場がある。ゴンザが座る受付だ。右手の壁に掲示板。依頼票が何枚か貼ってある。受付の奥に廊下が伸びていて、突き当たりに小部屋がある。
「おう、零時。今日も早いな」
ゴンザだ。がたいのいい中年の男で、声がでかい。
「畑の件、もう聞いてるか」
「ああ。南のほうだろ」
「そうそう。トモエさんとこの畑がやられててな。ここ三日で二回。報酬は追い払いなら銀貨三枚、仕留めたら五枚だ」
「行ってから決める」
ギルドカードを出して受理を通した。ゴンザとはもう四十年くらいの付き合いだ。会った頃は髪が黒かった。俺が全然老けないことについて、一度だけ訊かれたことがある。「体質だ」と答えたら、「ふうん」と言ってそれきりだった。深入りしない。風越はそういう街だ。
トモエさんの畑はすぐにわかった。柵が壊されて、根菜の畝がめちゃくちゃに掘り返されている。足跡を見ると、蹄の幅が手のひらほどある。やはり角猪だ。
足跡を辿って丘を越え、山裾の林で三頭見つけた。雄が一頭と雌が二頭。雄は額の角が二股に割れた大型で、こちらに気づくなり突っ込んできた。朧月で二頭仕留めて、一頭は逃がした。隣の冴月は抜かずじまいだ。いつものことだが。
アイテムバッグに詰め込む。母さんの手製だから、この大きさでも入る。「適当に作った」と言っていたが、市販品より明らかに容量がおかしい。
群れの主を倒したから、しばらくは畑には来ないはずだ。仕留め二頭で十枚、追い払い一頭で三枚。計十三枚。
思ったより早く終わった。
——ということは、南の森が、ついでの距離になってしまう。
ゴルド草は、南の森の湿った場所に生えている。
金色がかった細い葉が目印で、見つけるのは難しくない。ただ、抜くのが面倒だ。根ごと取らないといけないのに、根がやたらと深い。
片手分。約束は片手分だ。
片手にぎりぎり収まる量を採って、アイテムバッグに放り込んだ。角猪二頭とゴルド草が同居している。カオスだが、中で混ざったりしないのが魔道具の便利なところだ。
家に着いた頃には日が落ちていた。
玄関に向かう途中、庭の隅でちらりと白いものが目に入った。灯草だ。一輪だけ、季節外れに咲いている。道端の群生はとっくに花が終わっているのに。変なの、と思いながら通り過ぎた。
扉を開けると、母さんがテーブルで茶を飲んでいた。朝と同じ位置にいるが、紙の量が三倍くらいに増えている。
「ただいま」
「おかえり。遅かったね」
「誰かさんのゴルド草のせいだ」
「あら、採ってきてくれたの? 優しいねえ」
「頼んだのはそっちだろ」
ゴルド草を出してテーブルに置くと、母さんが覗き込んだ。
「……これだけ?」
「片手って言っただろ」
「言ったけど、もうちょっとこう、気持ちを乗せてくれても」
「気持ちの分は最初に削った」
「けち」
母さんは笑ってゴルド草を受け取り、工房へ消えていった。
窓の外は暗い。角猪を二頭仕留めて、ゴルド草を採って。明日は街で肉を降ろして、報酬を受け取ってこよう。
工房の奥から、母さんの鼻歌が微かに聞こえた。何の曲かは知らない。だがこの鼻歌は、たぶん俺が拾われるよりずっと前から歌われていた気がする。
翌朝。
アイテムバッグの重みで角猪を思い出した。魔道具だから腐りはしないが、いつまでも同居しているのは気分的によろしくない。
「母さん、肉いる?」
「角猪? いらない。硬いし」
「じゃあ仲介所に持っていく」
「あ、ついでに塩と油買ってきて」
ついでの範囲は今回まともだ。街までだから。
仲介所でゴンザに角猪を二頭分出すと、受付の台がぎしっと鳴った。
「でかいな。よくそのバッグに入ったな」
「母さんの手製だから」
「ああ、あの錬金術師のお母さんか。器用な人だな」
ゴンザは灯里のことを「零時の母親で、腕のいい錬金術師」くらいに思っている。それ以上のことは知らないし、訊いてこない。
銀貨十三枚を受け取った。肉はゴンザが捌いて市場に回すらしい。
トモエさんの畑に寄ったら、大根を二本持たされた。断り続けるほうが時間がかかる。
塩と油と昆布を買って、東通りを歩いていると、道端の茶屋に座っていた老人と目が合った。
見覚えのない顔だ。だが老人のほうは、こちらを知っている目をしていた。
「——まだおったか、あんた」
低い声だった。隣の若い女が「おじいちゃん、誰?」と訊くと、老人は首を振った。
「いや。昔の知り合いに似とっただけだ」
俺は足を止めなかった。珍しいことじゃない。
通りの角にドルンの鍛冶屋が屋台を出していた。包丁、鉈、蝶番。鍛えた金物が布の上に整然と並んでいる。ドルンは金属の声が「聴こえる」らしく、刃物の切れ味がいいと評判だ。
霊社の脇を抜けると、仲介所の掲示板が目に入った。新しい依頼が何枚か貼ってある。
「南の森でゴブリンの目撃情報。群れの規模は不明。調査依頼。報酬:銀貨二十枚」
南の森はゴルド草を採りに行った場所の近くだ。今日はいい。明日考える。
家に着くと、母さんが庭に出ていた。珍しい。しゃがんで何かを見ている。近づくと、灯草だった。昨日見た、季節外れの一輪。
「きれいだね」
「ただの草だろ」
「ただきれいなだけの草。それがいいの」
母さんは立ち上がって、俺の手の大根に気づいた。
「あら、大根。どうしたの」
「トモエさんにもらった。角猪の礼だってさ」
「いい人ね。今日は煮物にしようか」
「母さんが作ると炭になる」
「失礼ね。煮物は得意なの」
「いつから」
「さっき決めた」
不安しかない。だが台所に向かう母さんの足取りは妙に楽しそうで、塩と油と昆布を棚にしまった。
母さんの煮物は、思ったより悪くなかった。大根はやや焦げていたが、昆布の出汁はちゃんと効いている。
「どう?」
「……まあ、食えた」
「褒め言葉として受け取っておく」
食べ終わると、母さんはそそくさと工房に消えた。ゴルド草が待ち遠しかったらしい。
静かになった台所で、茶を一杯だけ飲んだ。
三百年、こんな日々を繰り返している。飽きたかと訊かれたら、たぶん首を傾げる。
——まあ、今日もいい一日だった。
縁側を閉めようとした時、裏手の森で何かが鳴った。枝が折れる音。重い。獣だろう。
この辺りに大型の獣はいないはずだが。
耳を澄ませた。もう聞こえなかった。




