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私の婚約者は死んだ

作者: 入多麗夜

随分前に書いたものです。

 「――婚約者は、死んだ」

 

 その言葉が頭をよぎるたび、胸の奥に鈍い痛みが走る。


 エリゼ・ウェールズは、薄暗い書斎の中で膝を抱えたまま動けずにいた。冷たく重い空気が、息をするたびに肺に突き刺さる。目の前には、一冊の古びた報告書が机に置かれている。婚約者――フィレオ伯爵の名が、その表紙に大きく記されていた。


 顔を合わせることなく、彼は死んだ。北方戦争の最前線で指揮を執る若き伯爵として、多くの命を救うために命を散らせたという。その死は「英雄の最期」と称され、その名は国中で語り継がれるようになった。


 しかし、エリゼにはそんなものは何の慰めにもならなかった。


 彼のことを愛していたわけではない。ただ親が決めた婚約だった。互いの未来を話し合うどころか、彼の存在を実感する間もなく、すべてが終わった。


 それでも、彼が命を捧げた地――北方ヘルヘンゲール。その名を聞くたび、彼の姿を想像せずにはいられなかった。無理にでも立派に振る舞っていたのだろう。冷たい風が吹き荒れる荒野の中で、何を思い、何を守ろうとしていたのか。


 「――戦死です。伯爵様は北方の最前線で、最後まで指揮を執られました」


 執事が震える声で読み上げた手紙の内容は、エリゼの心に深く突き刺さった。


 「伯爵様は、多くの兵士たちとともに、魔物の侵攻を食い止めるため奮戦され……その末に……」


 執事の声は途中で途切れた。彼自身も、この手紙の内容を最後まで読み上げる勇気がなかったのだろう。


 エリゼは視線を下に落とした。膝の上で握りしめた自分の手が白くなるほど力を込めていることに気づき、力を抜く。その瞬間、何かが零れ落ちるような感覚に襲われる。


 フィレオ伯爵――婚約者。彼と交わした言葉は一つもない。会う機会さえ訪れることなく、彼は北方の地でその短い生涯を終えた。婚約は形式だけのものであり、互いに愛情も関心もないものだった。それなのに、この知らせがこんなにも胸に突き刺さるのはなぜなのか。


 「……伯爵様が最後に残された指揮によって、多くの兵士が命を拾いました」


 執事が続ける言葉が耳に入らない。エリゼはただ、静かに目を閉じた。


 フィレオの遺体は帰ってくることはなかった。戦場で命を落とした者たちの多くは、北方の冷たい地に埋もれたまま、故郷に戻ることさえ叶わない。

 

 冷たい風が吹き荒れる戦場で、剣を握り締め、仲間たちに指示を飛ばしていたのだろうか。それとも、最期の瞬間は一人きりだったのだろうか。


 「伯爵様のご遺体は……回収は難しいとのことです。北方の地は未だに魔物が支配し、近づくことさえ危険だと……」


 執事が低い声で告げたその言葉は、書斎の冷えた空気の中で鈍く響いた。


 「……そうですか」

 

 何かを言わなければならない気がしたが、喉が乾いて声が出なかった。

 エリゼはただ、手のひらを膝の上で強く握り締めるしかなかった。

 

 「それと、フィレオ伯爵様からの預かり物です」

 

 そう言って、懐から一枚の封筒を取り出した。厚みがあり、何か硬いものが中に入っているのがわかる。封筒には、フィレオ伯爵の名が記された蝋印が押されていた。


 「ありがとう……その手紙、預かるわ」


 

 震える声でそう告げると、執事は一礼して部屋を去った。エリゼは手紙を膝の上に置き、数秒間ただ見つめ続ける。そして意を決して封を切った。


 中から現れたのは、一通の手紙と、銀色に輝く指輪だった。


 手紙の文面は、彼の力強い筆跡で丁寧に書かれていた。


 『君との婚約が決まり、顔を合わせることもないまま、この手紙を託すことになったことを心から無念に思う。君と語らう日を、戦場の中でも密かに待ち望んでいた。それが叶わぬまま、これを読んでいる君に全てを委ねなければならないことを、どうか許してほしい。君には何の負担も負わせたくはない。だが、万が一私に何かあった場合、手紙の中に入れた物と一緒に受け取ってほしい。君がどのような選択をするにせよ、私はそれを尊重し、君の幸せを祈っている。


 ――フィレオ・ヴァーレス


 

 エリゼはそっと閉じた。その手紙は、まるで死地に赴く戦士が遺した最後の言葉のようだった。けれど、そこに滲むのは婚約者としての無念さと、彼女への誠実な思いだった。

 

 封筒の中にはもう一つ、小さな銀色の指輪が入っていた。装飾の少ないその指輪を手のひらに取り出すと、冷たい金属の感触がじわりと掌に伝わる。


 彼がこれをどんな気持ちで手紙に同封したのかを思うと、胸が締め付けられる。形式的な婚約者であるはずの自分に、ここまで真摯な言葉と想いを託す彼の人柄が滲み出ていた。

 

 エリゼは、指輪を指の間で軽く回しながら眺める。それは彼がこの世に遺した、たった一つの宝物だった。






 

  「どうかお願いします、エリゼさん。どうかこの領地を継いで欲しい」


 フィレオ・ヴァーレスの葬式が終わった後、深い悲しみの中にある彼の両親が、頭を下げながらエリゼに懇願してきた。


 「どうか、あなたの手でこの領地を守ってください。このままでは、ヴァーレス家の名も、この土地もすべて失われてしまいます……」母親が嗚咽交じりにそう告げると、父親も静かに口を開いた。


 「フィレオは、この領地を守るために戦いに赴きました。しかし、彼の命を賭けたその努力も、このままでは水の泡になってしまいます。彼の死を無駄にしたくはないのです。エリゼさん、どうか……どうか力を貸してください」


  貴族の社会では女の立場が不利になりやすい。嫁ぎ先の家の跡継ぎの長男が亡くなった場合、次男へと継承が渡るのが通常の流れだ。そうなった場合、長男の婚約者は婚約そのものを解消されるか、形式的な処遇で一族から遠ざけられるのが常だった。


 エリゼも、まさにそのような立場に置かれるはずだった。婚約関係が解消され、フィレオの死とともに縁も消える。貴族の社会では、それが暗黙の了解であり、誰もが当然だと考える規範だった。


 だが、フィレオには次男がいなかった。ヴァーレス家は他に近親者もおらず、家を継げる者が誰もいない。そのため、婚約者であったエリゼが、例外的にこの家を継ぐ候補として挙がったのだ。


 しかし、それは決して簡単な話ではない。


 エリゼが家を継ぐということは、彼女自身が新しい当主として領地を治める責任を負うことを意味していた。それはすなわち、貴族社会の規範や偏見に逆らう行為でもあった。女性が家を継ぐことに対して、周囲からの批判や冷たい視線が向けられるのは明白だ。それでも、ヴァーレス家の存続には、彼女の存在が必要不可欠だった。


 「ですが、エリゼ様……」


 執事が口を開いた。彼もまた、フィレオの死を受けて揺れ動くヴァーレス家の現状に心を痛めているようだった。


 「フィレオ様は、エリゼ様に例えお会いできなくても、全幅の信頼をお持ちでした。彼が手紙に託した思いをご存知のはずです。それに、領地を引き継ぐという選択肢を取らなければ、この家も、この地もすべてが国に没収されてしまいます」


 領地が没収されれば、そこに住む人々の暮らしもまた大きな影響を受けることになる。土地を守るべき者がいなくなったとき、国家がどう動くかは予測がついていた。


 エリゼはその言葉を噛み締めながら、再び左手の指輪を見つめた。


「……私は、領地のことを何も知りません。どうすればいいのかもわからない」


 エリゼの声は震えていた。しかし彼の両親や執事、そして彼がこの家を守るためにどれほどの努力をしたのかを思うと、簡単に背を向けることはできなかった。


 フィレオの母親が涙をぬぐいながら深く頭を下げる。


 「どうか、時間をかけて考えてください。フィレオの家を、土地を守れるのはあなたしかいないのです」


 「……わかりました。しばらく考えさせてください」


 執事とフィレオの両親が、安堵と哀しみの入り混じった表情で頭を下げる。

 それを見届けると、エリゼは静かに席を立った。


 すぐに答えを出すことはできない。

 けれど、立ち止まったままでもいられなかった。


 この家を離れ、少しだけ時間を置こう。

 自分自身の中に、確かな答えを見つけるために――。

 

 彼女は一度、自分のウェールズ家に帰る事にした。自らの進退を決める為の時間が必要だったからだ。胸中には、自分自身の未熟さへの自覚もあった。領地を引き継ぐことの意味や責任について、彼女は何も知らない。ヴァーレス家の期待に応えられるかどうかもわからないまま、答えを出すのは軽率だと思えた。


 そして、もう一つの理由は、ウェールズ家が彼女にとって唯一の拠り所であるという事実だった。兄がそこにいるからだ。


 エリゼの兄、クライゼンは、ウェールズ家の長男であり、家督を継ぐ立場にある人物だ。幼い頃から父のそばで領地経営や政治の知識を学び、実直で冷静な判断力を持つ彼は、数多の人物から信頼を集めていた。そして彼女にとっても理想の兄であり目指すべき尊敬の対象だった。


 クライゼンは幼い頃から優秀で、家族や周囲の者たちを自然と引っ張る存在だった。その背中を見て育ったエリゼにとって、彼は近くにいる存在でありながら、どこか遠い憧れのような存在でもあった。


 「兄様なら、どうするのだろう……。」


 と彼女は、窓の外の景色を見つめながら、小さく呟いた。冷たい冬の風が木々を揺らし、馬車の車輪が規則正しい音を立てて進む。その振動が伝わる中、エリゼの心は落ち着かないままだった。


 兄の直感はいつも正しかった。彼がそうといえば必ずそうなる。兄の言葉はまるで先見の明と言えるほどに的確だった。彼がヴァーレス家を継ぐということに対して、確信を持って「これが正しい」と言い切ることができるのなら、迷いもいっそ晴れるかもしれないとエリゼは思っていた。


 馬車の振動が微かに身体を揺らす。

 窓の外には、まだ冬の色を残す灰色の空が広がっていた。


 心はまだ決まっていない。

 それでも――兄に会えば、何か答えが見つかる気がした。

 

 

 ウェールズ家の門が開き、馬車がゆっくりと進むと、並んでいた使用人たちの中にクライゼンの姿が見えた。彼は静かに腕を組み、妹を迎えるために立っていた。


 「お帰り、エリゼ。」

 

 短い言葉。ただそれだけでも待っていてくれたのは嬉しかった。兄クライゼンの姿を見た瞬間、エリゼは胸の奥にあった緊張が少しだけほぐれるのを感じた。

 

 「兄様……。」

 

 「中に入ろう。もう夜だ。寒いだろう。」


 いつの間にか夜になっていた。屋敷を包む空は深い群青色に染まり、わずかに輝く星々が寒空を照らしていた。外気は冷たく、肌を刺すような冬の夜の空気がエリゼの頬に伝わる。

 

 馬車を降りたエリゼは、兄の隣を歩きながら屋敷の中へと向かった。広々とした玄関ホールに入ると、暖かな空気が全身を包み込み、冷えた指先がじんわりと温まるのを感じた。


 「部屋で休むか?」


 クライゼンが振り返りながら尋ねる。だが、エリゼは小さく首を振った。


 「いいえ、少しお話を聞いていただけますか?」


 兄の顔がわずかに険しくなる。

 エリゼのただならぬ様子を察したのだろう。


 短い沈黙のあと、クライゼンは小さく頷いた。

 

 「執務室に行こう。そこなら落ち着いて話せる。」


 クライゼンは先に歩き出し、エリゼもその後を追った。玄関ホールを抜け、暖かく静かな廊下を進む。足音が石造りの床に柔らかく響き、広々とした空間に消えていく。屋敷の中は静寂に包まれており、外の寒々しい空気が嘘のように穏やかだった。


 執務室に着くと、クライゼンは机の上に並んでいた書類を手早く片付け、椅子に腰を下ろした。エリゼも促されるまま席に着く。暖炉の火が揺れながら部屋全体を照らし、木の香りがほんのりと香る。


 「話してくれ。ヴァーレス家で何があった?」


 その言葉に、エリゼは一瞬視線を落とした。胸の奥に渦巻く感情をうまく言葉にできず、しばらく沈黙する。フィレオ伯爵の両親からの懇願、託された手紙と指輪、そして自分が抱える迷いや不安をゆっくりと語り始めた。


 クライゼンは腕を組み、眉をひそめながら黙って聞いていた。しかし、エリゼが「ヴァーレス家を継ぐようお願いされた」と語った瞬間、その瞳がわずかに動いた。


「エリゼ、お前がヴァーレス家を継ぐ――それは、初めて聞いたな。」

 

 その言葉には驚きというよりも、慎重に事態を捉えようとする冷静さが感じられた。クライゼンは少し身を乗り出し、机に肘をつきながら妹を見つめた。


 「フィレオ伯爵の両親がそう頼んできたのか?」

 

 「はい……跡継ぎがいないから、せめて私に形だけでも家を守ってほしいと……。」


 クライゼンは目を閉じ、考え込むように一度深く息をついた。


 「なるほどな……確かに、ヴァーレス家には他に直系の親族がいないと聞いている。それで国が領地を没収すれば、彼らが築いてきたものもすべて失われる。だが、それをお前に任せるとなると――」


 「エリゼ、お前にその責任を背負う覚悟はあるのか?」


 その問いかけは、エリゼの胸に鋭く突き刺さった。彼女は答えを探しながらも、すぐには何も言えなかった。ただ、指先で手の中に握った銀の指輪をそっと撫でていた。


 「正直、まだわかりません。でも、彼らの期待を無視することも、伯爵様の遺志を軽んじることもできない気がして……。」


 その声は次第に弱くなり、最後はかすかな音に変わった。クライゼンはしばらくの間黙っていたが、やがて静かに口を開いた。


 「エリゼ、責任というものは、最初から覚悟が決まっているものではない。それは、受け止める中で少しずつ育てていくものだ。だが、一つだけ覚えておけ。お前が選んだ道には、お前自身が最後まで責任を持たなければならない。」


 クライゼンは少し眉を寄せながら言葉を続けた。


 「それにだ。私がヴァーレス家に対して口出しをすれば、ウェールズ家が内政干渉をしていると取られかねない。あの家の置かれた状況を考えれば、国も周囲の貴族たちも、今後の動向に敏感になっているはずだ。そんな中でウェールズ家が積極的に関与しているように見られれば、我々に余計な波風が立つ。下手をすれば、周囲から『領地の掌握を目論んでいる』などと疑われる可能性もある。」

 

 その言葉に、エリゼはハッと息を飲んだ。兄の立場で考えれば当然の懸念だったが、彼女自身はその視点を全く考えていなかった。

 

 「だからといって、お前を放り出すつもりはない。だが、ウェールズ家として関与できる範囲には限界があることを理解してほしい。」


 エリゼは、かすかに唇を引き結んだ。

 兄の言葉の重みを、痛いほど感じていた。

 誰かにすがることはできない。選ぶのは、自分自身なのだ。


 静かな沈黙のあと、クライゼンはさらに言葉を続けた。

 

 「エリゼ、これはお前自身の問題だ。お前がどのような道を選ぶにせよ、私はお前を支えるが、表立った介入はできない。だからこそ、自分の意志で決めるんだ。」


 その言葉は厳しくも真摯で、エリゼの胸に深く響いた。ヴァーレス家を引き継ぐか否かはエリゼ自身の問題であり、兄が決めることではない。それを理解しているからこそ、彼の助言を求める一方で、彼に頼りきる自分が情けなく思えた。


 「……わかりました、兄様。私が責任を持って答えを出します。」


 震える声でそう告げると、クライゼンはわずかに表情を緩めた。


 「それでいい。お前が考え抜いて出した結論なら、どんな道でも私はそれを尊重する。」


 エリゼが執務室を後にしたとき、彼女の心にはまだ迷いが残っていた。それでも、歩みを止めるわけにはいかなかった。いまはまだ自信がなくても、進むことでしか、答えを見つけることはできない。


 自分が成すべきこと、守るべきもの。それはヴァーレス家のためなのか、それとも自分自身のためなのか。どちらであれ、決断の時はすぐそこに迫っていた。


 




 

 エリゼはヴァーレス家に戻ることを決めた。返事をしなければならないからだ。彼女は兄のクライゼンに別れの挨拶をしに執務室へ入る。


 「そうか。もう行く事になるのか。」


 クライゼンの声は静かだったが、その奥にはわずかな寂しさが滲んでいた。

 エリゼはうなずき、真っ直ぐな目で兄を見つめ返す。

 

 「はい。兄様のおかげで自分自身を見つめ直す事が出来ました。」


 その言葉に、クライゼンの表情がわずかに動く。

 短くも、確かに目に浮かんだ感情は、誇りだった。

 妹が自らの意志で道を選んだことを、兄として喜ばしく思っているのが伝わる。

 

 「そうか。お前がそう決めたのなら、もう何も言うことはない。」


 その言葉には、エリゼの決断を尊重する兄の思いが込められていた。


 「兄様、これまでお世話になりました。どうかお元気で。」


 「ああ、身体に気をつけてくれ。」


  門前で待つ馬車に乗り込むと、エリゼは窓から兄の姿を見つめた。クライゼンは玄関前に静かに立ち尽くし、寒風に吹かれながらも微動だにせず、妹を見送り続けている。る兄としての優しさが滲んでいた。


 やがて馬車が動き出し、クライゼンの姿が小さくなっていく。エリゼは姿が完全に見えなくなるまで窓の外を見つめ続けた。




 

 


 ヴァーレス家はいつもと変わりない様子であったが、どこか重たい静けさが漂っていた。


 「お帰りなさいませ、エリゼ様。」

 

 玄関前では、数名の使用人が列を成していた。その姿にエリゼは、一瞬足を止める。まだ主人になった訳でもないのに、このような待遇を受けるのは、少し気恥ずかしかった。


 執事が一歩前に進み、頭を深く下げる。


 「ただいま戻りました。」


 屋敷の扉が静かに開かれ、エリゼは一歩足を踏み入れた。いつもと変わらない整然とした空間が広がっている。だが、その空気はどこか冷たく、張り詰めたものを感じさせた。


 目を上げると、広間の壁に遺影が飾られているのが目に入った。そこに映るのは、婚約者だったフィレオ・ヴァーレスの若い顔。端正な顔立ちと落ち着いた表情が印象的な肖像画だ。


「……。」


 エリゼは思わず足を止める。顔を合わせることすら叶わなかった婚約者。その姿がこうして絵画として目の前にあるのは、皮肉にも彼がこの世にいないことを示していた。

 

 彼女はそっと手を合わせる。この肖像画は成人になった時に描かれたものらしく、少し若々しい頃のだと執事は説明する。


 「フィレオ様は、似顔絵を描かれるのをあまり好まれない方でした。『記録よりも生きた証が大事だ』と仰っていましたが、ご家族の強い願いで、この一枚だけ描かれることになりました。」


 「……それでも、この絵が残っていてよかったです。」


 例え生きていても誰かの記憶に残らないのはあまりにも酷だ。エリゼはそう思わずにはいられなかった。こうして彼の姿が遺影として残されていることで、彼が確かに生きていた証を感じることができる。


 暫く執事と近況を話した後、エリゼは久しぶりにヴァーレス家の寝室に入る。重厚な家具と、冬の寒さを遮る厚手のカーテンが印象的な部屋だが、どこか物寂しい雰囲気が漂っていた。


 部屋の窓辺に立つと、冷たい風が微かに漏れ入る隙間から頬を撫でた。目の前に広がる庭園は雪で覆われ、白い世界が静かに広がっている。


 兄のクライゼンように何かに秀でてる訳でもないし、人望がある訳でもない。

 たまたまヴァーレス家に嫁いできたしがないの存在だ。そんな自分が、この家を守るにふさわしいのだろうか。


 エリゼは窓の外をじっと見つめたまま、小さく息を吐いた。


 しかし、もう迷ってはいられない。

 迷い続けることは、何も変えられない。ただ立ち止まっているだけでは、彼の遺志も、家の未来も守ることはできない。


 そう心に決めたとき、エリゼの中に一つの覚悟が芽生えた。







 数日後、エリゼはヴァーレス家の執事や役人たちを招集した。会議室に集まったのは、長年ヴァーレス領を支えてきた家臣たちだった。執事をはじめ、領地の財務を担当する会計官、農地管理を担う農政官、兵力を統率する軍事顧問など、各分野を代表する顔ぶれが揃っていた。


 ヴァーレス家は彼女が想像していたよりも多く、大広間は人で埋め尽くされていた。

 彼らは見かける事はないものの家を裏から支えている、縁の下の力持ちであるといえよう。

 彼らに告知をしないのは、家に失礼だ、そう思ったエリゼは近郊地域にいる者から遠方の者まで全員を呼び寄せた。

 

 執事が扉を閉めると、広い会議室の中は静寂に包まれた。彼女は深呼吸し、前へと歩み出た。


 「まず、皆さんにお集まりいただいたことを感謝します。私は、亡きフィレオ伯爵様の遺志を継ぎ、このヴァーレス家を守る決意をしました。領地の現状は厳しく、道のりは決して平坦ではありません。しかし、この家を守るため、皆さんの力をお借りしたいのです。」


 その言葉に家臣たちは驚きと期待の入り混じった表情を見せる。殆どは今初めて知ったという者が多かった。


 「私は亡きフィレオ・ヴァーレス様の婚約者に過ぎませんでした。しかし、婚約者という立場でありながら、彼とは顔を合わせることもなく、その生涯が戦場で終わってしまいました。それでも、彼が私に残してくれたもの――この指輪と手紙には、彼の想いが確かに込められていました。」


 エリゼはそっと指輪を見つめながら言葉を続けた。


 「私が女性であるということは、この時代において大きな壁です。女性が家を継ぐというのは、世間の偏見や批判を受けることでしょう。それでも、フィレオ様が最後にこの家と領地を守るという願いを託してくださった。その遺志を軽んじることはできません。」


 エリゼは一度言葉を切り、静かに家臣たちを見渡した。

 

 「私にはまだ分からないことばかりです。この家を守るために何をすべきかも、どこから始めればいいのかも。ただ一つだけ確かなのは、フィレオ様が命を懸けて守ろうとしたものを、私も守りたいという気持ちです。そのために、皆さんのお力をお借りしたいのです。」


 エリゼの言葉が静かに部屋に響き渡った後、しばしの静寂が訪れた。全員の視線が彼女に集まる中、その空気を破ったには、執事だった。

 

 「エリゼ様、亡きフィレオ伯爵様が貴方に託された遺志、確かに受け止めました。女性が家を継ぐという例がないとしても、それが何だというのでしょう。この家を守り抜こうという貴方の決意に、私たちは全面的に賛同します。」


 「私たち農政官も、エリゼ様と共にこの領地を再生してみせます!伯爵様の遺志を無駄にはしません。」

 

 「財政は確かに厳しいですが、やりくり次第で農民への支援も十分可能です。エリゼ様が導いてくださるなら、私たちもその道を支えます。」

 

「軍事面も問題ありません。今ある兵力を最大限に活用し、防衛体制を強化していきます。魔物からこの領地を守る覚悟はできています。」

 

 エリゼは誰かが反対するのではないかと心配していたが、その心配は杞憂に終わった。むしろ全員が彼女の言葉に力を得たようで、部屋の中には一体感が漂い始めた。


 彼らの言葉に他の家臣たちも次々に頷き、賛同の声を上げた。エリゼは胸の中にこみ上げる感情を抑えながら、深々と頭を下げた。


 エリゼは深々と頭を下げた後、顔を上げた瞬間、頬を伝う温かいものに気づいた。それが涙だとわかったとき、自分でも驚いた。これほど多くの人々が、自分の言葉に耳を傾け、賛同してくれるとは思っていなかったからだ。


 「……本当に、ありがとうございます。」


 その声は震えていたが、新たな決意が込められていた。




 



 エリゼが家臣たちからの賛同を得て数日が経った。彼女は屋敷の中で各部署の役人たちと会談を繰り返し、領地の現状を把握しつつ、当主としての立場に馴染もうと努めていた。


 しかし、そう簡単にすべてを受け入れることはできない。世の中の情勢が変わるたびに、必要な判断も変化する。


 エリゼは、書斎の机に広げた報告書と地図を見つめながら深く息をついた。農地の収穫不足、魔物の侵攻、隣接する領地からの圧力――どれ一つとして簡単に解決できるものはなかった。


 特に直近の問題といえば北方の魔物の暴徒化による難民の流入だった。


 ヴァーレス領の北に位置するヘルヘンゲール地方では、魔物の侵攻が激化し、多くの村が壊滅状態に陥っていた。住む場所を失った人々が次々と領地に流れ込み、ヴァーレス領内の村や街は急激な人口増加による混乱に直面していた。

 

 「エリゼ様、難民の受け入れにより、食糧が不足しつつあります。また、一部の村では住民たちと難民との間で小競り合いが発生しているとの報告も……。」


 執事の言葉に、エリゼは険しい表情で地図に視線を戻した。難民を拒絶すれば、彼らは行き場を失い、さらなる悲劇を生むだろう。しかし、領地が持つ資源には限界がある。安易に受け入れるだけでは、内部崩壊する危険性があった。

 

 「具体的な発生場所はどこですか?」

 

 エリゼは執事に尋ねた。視線を地図から離さず、その指先はヴァーレス領内の村々をなぞっていた。


 「現在、最も問題が深刻なのは北部のガルナ村です。」


 ガルナ村は、北方と南方を繋ぐ中央諸国への交易路の中継地点に位置していた。


 ガルナ村は、北方と南方を繋ぐ中央諸国への交易路の中継地点に位置していた。中央諸国は、その名の通り、アイザー山脈をはじめとする険しい山々に四方を囲まれた自然の要塞のような地形をしている。このため、外部との交流は限られ、交易路は中央諸国の生命線となっていた。


 特に北方から南方への移動は、山脈を越える必要があるため極めて困難だった。山道は狭く、天候が崩れれば一瞬で命を奪う危険がある。


 しかし、アイゼン山脈は、その険しい地形ゆえに、魔物の侵攻を食い止める天然の防壁としても機能していた。北方には多くの魔物が生息しているが、その大半はこの山脈を越えることができず、侵攻が中央諸国や南方に及ぶのを防いでいた。

 

 それゆえ、山脈に穿たれたわずかな道筋――交易路の安全確保は、領地の存亡に直結する重大な課題だった。

 

 アイゼン山脈は二重の役割を果たしていた。ひとつは北方と南方を繋ぐ生命線としての役割。そしてもうひとつは、魔物の脅威から中央諸国以南を守る防衛線としての役割だった。そして山腹に位置するわずかな交易路が、中央諸国と周辺地域を結ぶ唯一の道となり、その要衝がガルナ村だった。

 

 そのため、魔物の侵攻による影響を受けやすく、常に緊張状態にあった。この地理的条件ゆえに、難民だけでなく、交易商人や周辺領地の勢力からも注目される地域だった。


 ヴァーレスの税収の半分ほどは、ガルナ村を通じた交易によって賄われていた。その村を失えば、領地全体が経済的にも政治的にも立ち行かなくなる。


 つまり、ガルナ村を守ることは、ヴァーレス家の存続そのものに直結していた。放置すれば、財政破綻は時間の問題だった。


 エリゼは、ガルナ村と交易路を守るための解決策として、民間の傭兵団の創設を提案した。それまで中央諸国や南方では、主に国の軍隊だけが防衛と治安維持を担っており、民間で組織された武装集団はほとんど存在していなかった。そもそも国自体が民衆の武装化を危険視し、その放棄を推進してきた歴史があった。この方針は、平時には効果的だったものの、魔物の増加や交易路の混乱といった非常事態には対応しきれないという欠点を露呈していた。


 ガルナ村の難民は、多くの者がかつては農民や鍛冶職人、さらには戦場経験のある者たちであり、能力を発揮する機会を求めていた。彼らを難民のままにさせるのは勿体無い。


 そう思った彼女はすぐ行動に移す事にした。


 最初の課題は中央諸国への説得だった。この傭兵団の創設が「民間武装化」として問題視される可能性は高く、計画が頓挫する恐れもあった。ここが最初にして最大の難関だったが、その懸念は思いのほか早く取り払われることとなった。


 彼女の実家であるウェールズ家が彼女の提案に対し賛成の立場になる事を約束してくれたのだ。ウェールズ家は中央諸国にも顔が利き、多くの有力者たちと強固な関係を築いていた。

 

 この事もあってか、たった数週間で保守的な立場であった中央諸国議会ではエリゼの提案は、条件付きであったものの承認されることになった。


 中央諸国議会が出した条件は以下の3つだった。


 1つ目は、傭兵団の設立においてヴァーレス家が全責任を負うこと。

 2つ目は、傭兵団は帝都に入ることを禁じるということ。

 3つ目は、ガルナ村の商業活動における優先権であった。


 おおよそ彼女の予想通りの条件だった。裏でウェールズ家が圧力をかけたのだろうか、中央諸国の要求は至極当然ともいえる。


 ガルナ村は、仲介役としてヴァーレス家が商売の他にも他国の取引の斡旋として活動をしてた訳なのだが、その主要取引相手は北方が陥落する前から中央諸国だったのだ。なので3つ目の要求は実質的には取引を確実にするための再確認に過ぎなかったのだ。


 エリゼにとっても、この条件は決して不利なものではなかった。むしろ、中央諸国との繋がりを強化できる好機だと捉えることができた。

 

 次に傭兵団としての扱いだ。団員たちの報酬は、ガルナ村を通じた交易利益から捻出されることになった。基本給に加え魔物の討伐数に応じた歩合制の報酬を導入をすることとなった。これによえい団員達の士気が上がる事になるだろう。


 しかし、この報酬制度により、商業組合がヴァーレス家への税金と傭兵団への支払いという形で多重課税となる懸念が生じた。


 この問題を解消するため、傭兵団への支払い分だけ課税が免除されるという措置がとられた。

 これは商業組合にとって大きな安心材料となるだろう。


 「負担が増えるのではないかと心配していましたが、このように配慮していただけるとは思っていませんでした」


 と後に商業組合から感謝される事となった。


 また、この措置により、商業組合と傭兵団の関係も強化される結果となった。交易利益が直接傭兵団の活動を支えるという形は、地域の経済の循環の役割を果たすというWIN WINな仕組みとなった。

 

 エリゼは書いていた書類を止め、ペンをそっと机に置いた。窓の外には、冷たい風に乗って雪が静かに舞い落ちている。その視線の先には、交易路へ続く道の灯りが見えていた。


 結果としては彼女の初仕事は無事成功を終えた。


 村の状況も徐々に改善されつつあり、傭兵団の活動が交易路の安全を確保し、それに伴い村の経済が安定したことで、難民たちの生活環境も以前より大幅に向上していた。まだ多くの難民が村に留まっていたものの、混乱のピークは過ぎ去り、彼らはそれぞれの役割を見つけ始めていた。


 村に馴染み始めた難民たちは、自らの手で生活を築こうと努力していた。仕事を見つけ、商業活動を支える職人や労働者となった者もいれば、新たな土地を耕して村の食糧供給を支える農民となった者もいた。また、戦場経験を活かして傭兵団の一員として村を守る力となった者たちも多かった。

 

 彼女はそれ以外に長期的な目標としてフィレオの遺体を回収したいと思っていた。それが彼女がヴァーレス家を受け継いだ理由でもあった。


 しかしやるべきことは多い。外交は勿論、女の主としての立場やそれに関連した諸問題も数多く残っている。

 まるで手探りのように一つずつ課題を拾い上げ、彼女は毎日を乗り切っていた。


 そうこうしている内に季節は巡り、ヴァーレス領にも春の気配が訪れ始めた。

 



 ◇




 エリゼは、屋敷の書斎を出て、応接室へ向かっていた。

 中央諸国から届いた新たな要請に応じるためだ。


 北方の混乱は、いまだ収まる気配を見せない。

 交易路を守り続けるには、これまで以上の覚悟が求められるだろう。


 けれど――エリゼは、迷わなかった。


 歩き出した道は、もはや誰のものでもない。

 押しつけられた運命ではなく、自分自身で選び取った道だ。


 

 廊下を進む中、ふと、微かな風が頬を撫でた。わずかな温もりを含んだ、春の風だった。

 エリゼは、歩みを緩める。手元に視線を落とすと、胸元に下げた指輪が、風に揺れていた。


 あの日、託されたもの。失われたもの。

 そして、今もなお、胸の奥で疼き続けるもの。


 指先に触れた金属の冷たさに、ほんの少し、胸が痛んだ。

 けれど――それでも。


 (私は……)


 エリゼは、そっと目を閉じた。


 彼の言葉も、温もりも、もう届かない。

 それでも、彼が生きた証は、確かにここにある。

 私の中に、残っている。

 

 ――ならば、進もう。


 彼が遺した想いと、今の自分自身。


 その二つを抱いて、エリゼは扉の取っ手に手をかけた。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


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