勇者のいない物語
ある人物が本を開いた。
始まりはこうだ。
『この世界に勇者はいない。』
『勇者』とは何か?
その本を開いた人物も、そう考えただろう。
『勇者』とは、大いなる『悪』に立ち向かい、痛みや苦しみに決して屈することのない者。また、勇ましい者に捧げられる称号である。
そしてこの物語には、確かに『悪』が存在している。
『魔王』と呼ばれる存在が、だ。
だが、その『魔王』に立ち向かうべき『勇者』は存在していない。
それはなぜか。
本にはこう記されていた。
『魔王が生まれるとき、それに呼応するように勇者も生まれる』と。
しかし、10年。
『魔王』が誕生してから、10年が経っても『勇者』は現れなかった。
『魔王』はその10年で、多くの街を焼き払い、村を滅ぼしていった。
人々は絶望し、ついには誰もが辺境の地に身を潜め、ひっそりと暮らすようになった。
だが、それすらも長くは続かなかった。
『魔王』は、無人の街を見ては苛立ち、廃墟となった村を見ては不快そうに眉をひそめた。
「人の悲鳴が聞こえないとは、これほどまでにつまらないものなのか……」
そう呟いた『魔王』は、考えた。
そして、決めた。
「よい。人を見つけ出す魔法を作ろうではないか――」
魔法とは、人間の力では到底成しえない、不思議な現象を引き起こす術である。
『魔王』と『勇者』だけが使えるその力は、人智を超えた存在が持つ、特別なものであった。
そして『魔王』は、その魔法を駆使して、人々が隠れている場所を見つけようと決意する。
未知の力を紡ぎ出し、世界の隅々まで人の気配を感知する魔法――それを創り出そうと『魔王』は動き始めた。
だが、それが世界の行く末に何をもたらすかは、誰にも分からなかった――。
―――。
長い年月が過ぎた。
『魔王』は膨大な時間と知識を費やし、ついに人々を探り出すための魔法を完成させた。その魔法は大地を包み込み、空気を揺らし、隠れた命の気配を余さず暴く力を持っていた。
『魔王』はその魔法を用い、人々の集落を一つずつ見つけ出しては襲撃を始めた。
辺境の山奥、深い森の奥底、洞窟の影――どこに隠れていようとも『魔王』の目はそれを見逃さなかった。
人々は再び恐怖に駆られる日々を送ることになった。
『魔王』の力から逃れるために築き上げたかりそめの平穏は、あっけなく崩れ去った。村を焼かれ、隠れ家を失い、命の危険に怯える日々が再び始まったのだ。
それでも、誰もが一度は心の中で諦めたはずの希望――『勇者』の誕生を願う声が、どこからともなく広がり始めた。
「誰か、『魔王』に立ち向かう者はいないのか?」
「『勇者』は、まだ現れないのか……?」
人々の声は小さく、弱々しいものだったが、それはまるで風に乗り、世界を巡る祈りのようでもあった。
そして物語は、ここで終わる――。
本を読んでいたその人物は、ふと視線を上げる。
ページを閉じる音が静かに響くと、周囲は再び静寂に包まれた。
『勇者はたった今、本を読み終えた。』
その言葉が何を意味するのか――それは、本を閉じた者だけが知るだろう。
これは”あなた”の物語――。