【6】婚約者ダヴィードの不貞
「レティーツィア様、お支度をいたします」
侍女たちが支度を始める。
これからヴィオラと、あるティーサロンで会う約束をしている。
あの痛ましい子キツネ狩りの後、何度かヴィオラと会った。
一度は定例議会の後のいつものメンバーで、それから王立図書館の目録作りでも一緒になった。
王立図書館の中でも王家と公爵家しか手にすることのできない本のあるゾーンの目録作りを、王宮からの依頼でヴィオラと共に行っている。
自分を律することに長けているヴィオラは、私の前で気丈に振る舞っているように見えた。
ヴィオラが私に見せたい自分がそうであるなら、必要以上に気遣いの言葉を掛けることは控えた。
二人で何度も書庫と書架の間を本を抱えて往復しながら、手先と頭と身体を使うこの作業は、何かを忘れるためにはちょうどいい、そう思えた。
そんな日々を過ごしていた頃、私の婚約者であるダヴィードが『城南アンセルミ区』にあるティーサロンで他の令嬢と親しげにしているとヴィオラが教えてくれた。
それも一度ではないというのだ。
王都はその中央に広い王家の敷地があり、それを取り囲むように四大公爵家が四分割している。『城北サンタレーリ区』ではなく、わざわざ『城南アンセルミ区』のティーサロンにダヴィードが何度も行っているというのが厭な感じがした。
そのティーサロンは完全予約制だそうで、ダヴィードのカノヴァ侯爵家の名で今日の予約が入っているとヴィオラが教えてくれて、これからこっそり二人で確かめることにしたのだ。
子キツネ狩りの後、ダヴィードとの婚約を白紙にすることを考えていたけれど、まさかこんな形で具体化されるとは思ってもいなかった。
オープン時間の少し前に、間仕切り代わりの植物の鉢植えを並び変えて私たちの居場所を隠し、そのすぐ近くにダヴィードの予約席を作ってくれた。
そんなことを事も無げにやってくれるヴィオラは、アンセルミ公爵家を継ぐ者として着実に前に進んでいる。
一瞬、私はこんなところで何をしているのだろうと思ってしまった。
「まだ良くないことだと決めるには早いわ。疚しいことがあるならカノヴァ侯爵家の名前で予約などしないでしょう?」
「そうだといいのだけど……」
ヴィオラは私を元気づけるように言ってくれたけれど、元よりダヴィードは見える範囲のことは考えられても、裏にあるものまで想像して動くことは得意ではない。
婚約者以外の令嬢と密会するならサンタレーリ区以外ならいい、それくらいしか考えていない気がする。
わざわざ家名で予約したのも、侯爵家の名前を出せば……例えば良い席の予約が取れるなど、何らかの便宜が図られると思っただけではないか──。
そろそろ予約時間、私は緊張してきた。
いつも下ろしている髪をまとめただけの変装ですらない恰好だけれど、私たちを隠している植物の葉の密度が少しの安心をくれる。向こうを見ようと意識をすればよく見えるけれど、普通にしていたらほぼ何も見えない。
「そろそろね。レティ、しっかり確認しましょう」
予約時間を五分ほど過ぎて、その席にやって来たのは確かにダヴィードだった。
ダヴィードは連れの令嬢の椅子を引いて座らせた。
相手は子爵家の令嬢だとヴィオラが調査したらしい内容を教えてくれたけれど、見知った顏ではなかった。
オレンジ色と黄色の花模様のデイドレス、小柄でハチミツ色の巻き毛を高い位置で二つに結んでいるせいか幼く見える。なんとも可愛らしい感じだ。
ロザンナ・アルテアガ子爵令嬢──。
ロザンナ嬢は兄と姉がいる次女で、万が一のことがあってもダヴィードが婿入りできることはなさそうな家だ。そのことだけでもダヴィードが私との婚約を白紙にして、子爵家を継がないロザンナ嬢との未来を考えているわけではなさそうだと分かる。
ダヴィードは変装のつもりなのか縁の太い眼鏡を掛け、いつもはきっちり上げている前髪をさらりと下ろしていた。
「ブレスレット着けてきてくれたんだね、華奢な手首によく似合っているよ。俺も着けてきたんだ」
「ふふ、秘密のお揃いね。私のはダヴィの瞳の緑色の革にブラウントパーズ、ダヴィのは私の瞳のライトブラウンの革にグリーンガーネット」
「ライトブラウンの革のブレスレットなんて、いい意味でありきたりで助かるよ。石も小さくさりげない。金細工のブレスレットにしたら目立ってしまうからね」
「手首に着けるブレスレットを贈るのは、その手を離さないという意味だといいのだけれど……」
ロザンナ嬢がうっとりした目でダヴィードを見つめながら言った。
こういう仕草がダヴィードの好みなのだとしたら、私はまったくダヴィードの好みではないわね。
「もちろんそうだ。俺は君を離さない。俺が好きなのはロザンナだけだよ」
互いの瞳の色を使ったお揃いのブレスレット、それだけで立派な証拠となる話が僅かな時間で出たのはありがたいことのようにさえ思えた。
それよりも、ダヴィードが自分のことを『俺』と言ったことのほうが衝撃だった。
普段は『私』、二人きりの時には『僕』と、使い分けていると思っていたけれど、もっと細かく使い分けていたのね……。
私の前でついぞ見せたことのない『俺』と言うダヴィードを、ヴィオラがもう充分よ行きましょうと言うまで見て聞いていた。
***
奥の通路からティーサロンを出て、アンセルミ公爵家の馬車でヴィオラの屋敷に向かう。
ヴィオラは先ほど、こんな時にごめんなさいと言いながら、店頭のクッキーを迷うことなく素早く買っていた。一番下の妹さんへのお土産だという。下の妹さんはこの頃、勉強が本格的になってきて懸命に学んでいるという。
私にも妹がいればこんなふうにお土産を買ったりしただろうと、ヴィオラが必要もないのに謝ってくれた『こんな時』なのに、ふっと温かい気持ちになった。
それも束の間、馬車の中はすぐにダヴィードの話になる。
「もう離さないってどういうことかと思うわ。愛人にでもするつもりなの? サンタレーリ公爵家の婿ではなくて自分が公爵になれると勘違いしているのかしら、あの愚か者は」
「たぶん何も……何も考えていないだけだと思うわ」
ダヴィードを私の婚約者に決めたのは、母方の叔父と私の父だ。正統なサンタレーリの血を持つ叔父が、それを受け継いだ私の婚約相手を決めるのは当然のことだった。
母の時もそうだったらしいが、婿は少しおっとりしていて優秀過ぎず、真面目であればそれでいいと叔父は言っていた。
まさに父がそうだ。
コンカート伯爵家の次男として生まれた父は、真面目が服を着ているような人だ。
母が亡くなって十年近くも経つのに後添えを迎えることもなく、自分の妻は生涯一人きりだと父は言った。もちろん愛人のような存在も無く、サンタレーリに捧げた忠誠を今も貫き通している。
私が婿を取ってサンタレーリ公爵を正式に継ぐまで、父は私を大事に育ててくれながら、サンタレーリの墓地で眠る母と弟の墓を守っているのだ。
私には二つ年下の弟がいたけれど、七歳の時に発疹を伴う高熱を出して亡くなってしまった。直後に同じ症状を母も発し、幼い弟を追いかけるように亡くなった。
私にアクシデントがあって公爵家を継げなくなっても、弟が存命であれば何の問題もなかったのだ。むしろそれを期待する者も居ただろう。
その大事な弟と、正統なサンタレーリの血を持つ母が相次いで亡くなり、私は叔父や父から過保護なほどに大事にされてきた。
定例会議の時に王宮の庭で遊ぶことだけが、唯一の楽しみだった。
あんなふうに駆けているところを父たちが見たら倒れてしまっただろう。
そして、先ほどのダヴィードを見たら、父は怒りで血が沸騰してしまうのではないか。
ダヴィードが別の令嬢に愛を囁いているのを見たことより、サンタレーリ後継ぎの婚約者の裏切りを知った叔父や父が、ダヴィードとカノヴァ侯爵家にするかもしれない『報復』について考えるほうが憂鬱だった。
父は穏やかで真面目な人だが、私のことを溺愛していてそれは少し怖いくらいだ。
それが傍から見ても判るから、直系の叔父は母が亡くなった今でも父をサンタレーリの婿として大事にしているのだと思う。
二人とも、ダヴィードの裏切りを知れば容赦はしないだろう。
ダヴィードのカノヴァ侯爵家は、サンタレーリ公爵家だけではなく、おそらくヴィオラのアンセルミ公爵家を始め、ブレッサン公爵家やモルテード公爵家も敵に回すことになるかもしれない。
四大公爵家すべてから疎まれたとして、カノヴァ侯爵家はどうなってしまうのか。
ヴィオラが『ここに予約が入ったのは一度目ではない』と言ったことを思い出し、とっくに叔父と父はこの事態を握っている、そう思えて首の辺りがゾクっとした。