【28】砕いた想い
ロンバルディスタ王国で最古の三階建て建造物というカルテリ市庁舎は、古くて趣のある素敵な建物だ。だからといって、まさかホール中央の大きなシャンデリアが落下するとは、誰も想像できなかったことだろう。
歌を披露するはずだった子供たちの、真上に下がっていたシャンデリアだった。
小さな台の上にいた男の子を抱き取ったジュスティアーノ殿下の上に、シャンデリアが落下した。
キャンドルが溶けた熱いオイルがかかった殿下の髪に着火し、咄嗟に私は素手で小さな炎を払って消そうとした。熱さのようなものは不思議と感じなかった。火はすぐに消えず、ドレスの裾で払った。
シャンデリアのキャンドルを支えていたアームが、殿下の左肩に刺さっていた。
殿下は呼びかけても答えず、祝賀会は子供たちの泣き叫ぶ声と、悲鳴と逃げる人たちでパニックとなってしまった。
この祝賀会の主催者側であるアルマンドはもちろん、イラリオもアルマンドと共に走り回っていた。
ジュスティアーノ殿下が抱き取った男の子が泣く声が聞こえていた。
こんな時でも不敬を恐れて誰もジュスティアーノ殿下に触れることができず、近くにいた私が殿下の腕をほどいて男の子を引っ張り出した。
男の子の身体の無事を確認し、母親に引き渡すと床に頭をつけて泣きながら謝罪をされてしまった。
王族に庇われ、その王族が大怪我を負ってしまったことは、母親にとってとても恐ろしいことかもしれない。
私は母親と男の子を、控室に連れて行った。
「とても恐ろしい目に遭った息子さんは被害者です。お母さん、どうか顔を上げてください。
ブレッサン公爵閣下も、被害者である息子さんやご家族の皆様に、胸を痛めていらっしゃると思います。ジュスティアーノ殿下も息子さんが無事だと知れば、喜ばれることでしょう。
私も指揮をする彼が見たかったです。今はただ、怖い思いをしたお子さんが安心できることを祈っています」
歌が終われば子供たちに配るはずだったお菓子の包みを渡した。
母親は何度もお辞儀をしながら、男の子を抱いて部屋を出て行った。
祝賀会どころではなくなってしまい、イラリオはジュスティアーノ殿下の事故の件を直接報告する役割を申し出て王宮へ向かった。
そのまま領地のお父様のところへ戻るという。
私はレナータ様と共に、できることを片付けて回った。
そして、祝賀会会場をあらかた片付け終えるまでは、意識して考えないようにしていたジュスティアーノ殿下のところへ向かった。
ブレッサン領の医師たちが、殿下の手当をしていた。
髪と頭皮の一部は焼けてしまい、キャンドルの熱いオイルが左目の際まで垂れ、左目の周囲が爛れてしまっている。視力が無事かどうかは、殿下が意識を取り戻さないと分からないらしい。
左肩に刺さったキャンドルを刺していた金属のアーム部分は丁寧に外されたが、そこからの出血も相当だったという。
あれだけの重さがあるシャンデリアの直撃を受け、ジュスティアーノ殿下は未だ意識が戻らない。
殿下の側近のドナート様も酷い顔色をしているけれど、深夜までは私が付き添い、そこでドナート様に代わって明け方にまた交代して休んでもらうことにした。
殿下をお守りできなかった護衛騎士たちも、掛ける言葉が見つからないほど憔悴しきっている。
でも、あの時の咄嗟の殿下の行動に、誰も何もできなくても仕方がなかった。
私もサンタレーリの父に使者を出し、しばらく帰らないことを伝えた。
***
事故から二日が経ち、まだ殿下の意識は戻らない。
大怪我を負って、眠り続けているその側から離れたくなかった。
幼い日に砕いた想いの欠片が、私の中のどこかに残っていたのだろうか。
匂いが消えてしまった香り袋に香油を垂らしたように、殿下への想いが立ちのぼる。
──ジュストが好き……
この想いは私の中にあってはならないものだった。
届くことのない想いと歩いて行けるほど、私は強くないと知っていた。
想いを隠しながら、公爵家嫡子として顔を上げて皆と切磋琢磨していく器用さなど無いことは自分が一番よく解っていた。
だから砕いたのに。
でも、目の前で命の灯が揺れているジュストを前に、自分に嘘をつくことが苦しい。
この国の第一王子の手を握るなど、私の立場で許されることではないのは分かっている。
それでも、眠り続ける殿下の手を離すことができないでいた。
こんな時なのに、こんな時だからこそ、私の気持ちが空気に曝されてしまった
「……ジュスト……あなたが好きなの……目を開けて、戻って来て……」
この場にあまりにも不似合いな言葉をそっと吐き出した。
もう身体の外に出さなければ、苦しくて息もできない。
このまま意識が戻らなかったら──
恐ろしい考えが、私を支配しようとしていた。
目を閉じればシャンデリアの下敷きになった姿が思い出され、目を開けていれば痛々しい姿に胸が塞がれる。
目を開けても閉じても、私を呑み込む恐ろしい闇の中だった。
気を失うように眠っていたようだった。
時計の針はそれほど進んでいない。
「ジュスト、どんな長編の夢を見ているの……」
まさか、聞こえたわけではないだろうに、ジュスティアーノ殿下の睫毛が揺れる。
慌てて手を離そうとしたのに、その手は握り込まれて離れなかった。
火傷を免れた右目がゆっくりと開いた。
「ジュスト、ジュスト……!」
私の目から涙が溢れる。
「……レティ……泣いて……どこか、痛むのか……?」
「どこも痛くないわ。ジュストこそ、酷く痛むでしょう……」
「……あの子は……」
「ジュストが抱きかかえたあの男の子なら、怪我ひとつなく無事よ」
「……よかった」
ジュストは安心したように薄く微笑むと、また目を閉じた。
「少しだけ待っていて、ジュストが目を覚ますのを多くの人が心配して待っているの。知らせに行ってくるわ」
私の手を握っているジュストの手の、この状態のどこにそんな力があるのかというくらい、さらに強く握られる。
「……少しだけ、あと少しだけ、ここに居てくれ……レティ……ジュストと、そう呼んでくれるのだな……」
「ごめんなさい、つい……」
「……俺は、夢を見ていた。レティに……手を伸ばしているのに、遠かった。でも、必死で伸ばし続けて、届いたんだ。俺は……レティの手を強く、握って……それで……レティが俺を、明るいほうへ引っ張ってくれた……」
「無理にしゃべらないで、人を呼んでこなくては! 少し待っていてね、後でゆっくり話しましょう」
「いや、もうこれ以上、待てない。人生……いつ、何が起きるか、まったく……分からない。レティ、俺はもうずっと、君のことが好きだ……」
「ジュスト……」
その右の瞳に揺らぎは無かった。
ジュストが……私を好き……。
とんでもないことを聞かされたのに、現実感がどこにも無い。
それは勘違いだわ、頭を強く打ったせいねとジュストの為に取り繕うこともできるのに、私の心はジュストの言葉に……水を与えられた花のように、喜んでしまっていた……。
「起き上がれるようになったら……ヴィオランテのことをきちんとして、それから……俺の地位や金や……あらゆるものを使って、卑怯にレティを娶りにいく。一緒になれないのなら、シャンデリアの……下敷きのままのようなものだ」
「そんな……私は……、私は、ヴィオラと違って兄弟がいないの……。どうしても無理よ……ジュストをシャンデリアの下から救えるのは、私ではないわ……」
「レティ……」
私はようやくジュストの手を優しくほどいた。
まるで自分の一部をナイフで切り離したように思えた。
「皆に知らせてくるわ。みんなジュストが目覚めるのを待っていたのだから」
部屋を出て、すぐ近くにいた側近のドナート様にジュストが目覚めたことを伝えた。
私はまだ涙が止まらなかったけれど、ジュストが目覚めたからだと思われただけだろう。
ジュストのことが誰よりも好きで、そのジュストから好きだと言ってもらったのに、私はサンタレーリ公爵家を継ぐことを手放すことはできない……。
……本当にそうなのだろうか。
私は愛する人の手を離しても、公爵家を継ぐことが最善なのだろうか。
そんなふうに考えてしまった自分が悲しかった。
私の涙は留まることを知らないように、溢れ続けた。




