【16】母の日記
眠りに落ちるために読む物として、これほど適さないものはない。
母の日記を見つけた私は眠るのをやめ、ガウンを羽織って机に日記を持って行く。
温かいお茶が欲しかったけれどそのためにノーラを呼ぶのも気が引けて、とりあえず水差しの水をコップに移して机に置いた。
日記帳を繰る手は止まらなかった。
逸る気持ちを抑えて、落ち着いて母の綴った言葉を噛みしめるように読む。
私は胸が詰まり、しばらく動けなくなった。
夜着から部屋着にもう一度一人で着替え、お茶を淹れるために部屋を出る。
隣室に居たノーラが出て来て、お茶なら私がと言ってくれたけれど、自分でやりたかったのでそう伝えた。では軽いお菓子をと言ってノーラが持ってきてくれたものは、メレンゲを焼いたお菓子だという。卵白と砂糖だけでできていて、料理人が余った卵白で使用人向けに端のほうで一緒に焼いたものらしい。
「旦那様やお嬢様にお出しするような菓子ではないと言われたのですが、私はとても好きなのです。この時間ですから軽いものがよいかと思いまして、勝手をして申し訳ございません」
「ううん、ありがとう。ノーラの優しさをもらっていくわ」
ノーラが下がると、私は丁寧にお茶を淹れる。
そしてメレンゲのお菓子をソーサーに二つ載せた。
その白い焼き菓子を口に入れると、すぐにほろほろと崩れて消えてしまった。
「甘いわ……すぐに消えてしまうなんて面白いわね」
母の日記を読んで心があちこちに浮遊していた感じがしていたけれど、温かいお茶と甘くて優しいお菓子のおかげでしっかり感情は私に戻ってきたように思えた。
そして、再び母の日記を開いた。
***
サンタレーリの嫡子として生まれ育った母と入り婿となった父とは、完全なる政治的観点からの結婚だと思っていた。
父の生家であるコンカート伯爵家は、私の祖父にあたる前伯爵、そして伯父となる父の兄が宮廷伯を務めていた。
そんなコンカート伯爵家の次男である父が、サンタレーリの婿として見出された。
二人は幼馴染だった。
父は両家の間でサンタレーリの婿となることが決められていたけれど、政略的な関係だけではないことを、自分の想いを父は母に真摯に伝え、そこから互いに唯一無二の存在となった。
愛し愛され、二人でサンタレーリ公爵家を守っていた。
母の日記は、父への愛に溢れていた。
読んでいて少し恥ずかしくなるほど、母は父を愛していた。
単に父からの愛に応えるというものではなく、母はまっすぐに父を愛していたのだ。
そして一番私を驚かせたのは、母が亡くなって途絶えた日記の新しいページから、父が綴った日記となっていることだった。
父は母が亡くなってから、折りにふれここボージオ湖畔の別荘を訪れていた。
母の部屋で過ごしていた父は、この日記を見つけた。
そこに綴られていた自分への愛を、父は万感の思いで読んだと書かれていた。
『愛しい娘レティーツィア』を残し、『愛しい息子フェデーレ』を追うように亡くなった母を想う父の慟哭がそこにあった。
私はこれまで自分のことを、政略結婚の間に生まれた後継ぎという『駒』だと思っていた。
重い義務と期待を背負う、それが生きる意味だと……。
九歳で母と弟を急な病で亡くし、母からその覚悟について何も聞くことができなかった。
私の存在意義はサンタレーリを継ぐこと、そのために父も母も私を育てたのだと、そう思っていた。
でも、私は父と母の愛の証だった。
たとえ家同士に決められた相手であっても、愛は生まれていた。
サンタレーリ家のためだけに私が生まれたわけではなかった。
「お母様……」
母と父の愛が私の胸に満ち、私は部屋を出て父の部屋の扉をノックした。
「遅い時間に申し訳ありません」
「いや、来るだろうと思っていた。入りなさい」
父に招かれ、初めてこの別荘の父の私室に足を踏み入れた。
白地にブルーグレーの花の壁紙を見て驚いた。
母の部屋の壁紙と、地色と花の色が反転している。
ファブリックはすべてブルーグレーだ。
そしてデスク上の真鍮の一輪挿しには、真っ赤な薔薇が挿してあった。
***
「この部屋は……」
「エウジェニアが二つの部屋をこのように設えたのだ。私たちはその日の気分によって、どちらかの部屋で過ごした。こちらはエウジェニアの部屋より狭いが、彼女はこちらの部屋を好んでいた」
「それならこちらがお母様のお部屋みたい」
「ああ、見えている事柄がそのすべてを表しているわけではないということだ」
母の日記を読んだから、両親の関係はこれまで思っていたものとまるで違ったことを知っている。
父は、表向き『母の部屋』とされているサンタレーリ公爵家当主の部屋に私を案内し、母が一番気に入っていた部屋を自分で使っているのだ。
父がここを訪れるのは、父だけが知っている母を求めていたのかもしれない。
「お父様、お母様の日記帳を見つけました」
「そうか。それで読んだのか?」
「はい。お父様の手による部分も」
「遅い時間だが、茶を付き合ってくれ」
父はそう言うと、続きの小部屋で自ら茶の支度を始めた。
私は母が本当に好きだったほうの部屋で、部屋の雰囲気にあまり合っていない古びたぬいぐるみや、赤ん坊か人形に着せるようなサイズの可愛らしいドレスが小さなトルソーにあるのをゆっくり見て回った。
感情が何かを形作りそうになる前に、父が私にお茶を淹れてくれた。
「お父様のカップの中は色こそ同じように見えますけれど、お茶ではない香りがしていますね。グラスではなくて良いのですか?」
「ああ、特にこだわりはないからね」
父は蒸留酒の香りと湯気が立ち上っているカップを、軽く持ち上げて微笑んだ。
「お母様の日記を、もっと早く読んでいたらと思いました」
「そうしたらあの婚約者との関係性も変えられたと思うか?」
「……いいえ、私がどのように接したとしても、立場の差から生じる彼の負の感情を変えることはできなかったと思います。変えられるほどの対応をすることは、今度は私が終わりなき譲歩をすることになりますから、どうあっても彼とは道を分かつことになったでしょう」
「あれから、婚約を結ぶ前の彼についての調査書をもう一度読み返したんだ。そうしたら、勝ち負けに拘泥するきらいがあるがそれを自身の向上に繋げているとあった。その時は、その負けず嫌いのようなものをバネにしているのだと、良いように捉えてしまったのだな。彼は、互いが生まれた家の格の違いを『負け』と感じ、それが自身の努力でどうにもならないことから、他の女性を大事にすることで密かにレティに溜飲を下げていたのだ。そこまで読み取れていなかった」
立場の違いからくる劣等感のようなものから目を背けるために、他の女性を愛し自分から愛されない惨めな私と見下げることで己を保つような人とは、友情すら育てることは難しい。
「お母様の日記に、友愛、敬愛、慈愛、どのような愛でも互いの間にその種があれば、いろいろな形に育てていくことができるとありました。私とダヴィードの間に種は無かったのだろうかと、考えていました」
父は黙ってカップの蒸留酒を飲んでいる。
母と父の間にあって、私とダヴィードの間に無かったのはどうしてなのか……。
もう終わったことなのに、明確な答えが欲しくていつまでもグジグジと考えてしまうのを止めることができないでいた。
「政略結婚だからこそ、加点法で相手を見ていくことが大切なのだと思う」
「加点法……ああ、お父様、私はそうではなかったように思います。ダヴィードの小さな欠点に気づくと、そればかり見てしまいどんどん減点されていきました。今にして思えば、彼も良いところはたくさんあったのに、私はよくないところばかり気にしていた……」
「彼は今、養子先の子爵家の領地で黙々と働いているそうだよ。当初は遠巻きに彼を見ていた者たちも他者から距離を取っていたダヴィード君も、少しずつ歩み寄っているようだ」
侯爵令息だったダヴィードが、使用人として働くことは簡単なことではないだろう。それでも生きるために、日々懸命に暮らしている。
私も立ち上がらなければ……。
「お父様、お父様が王都に戻る日に私も一緒に帰ります。私も次の婚約者を決めなくてはなりませんもの。お父様や叔父様にお任せしようと思っていましたが、私がこの目で見て、この心で感じて探したいと思います。好きになれるかどうか、私にしか分からないのですから」
「これから忙しくなるな」
「ええ。でも忙しく動いているほうが私には向いていますわ。お茶をごちそうさまでした。お父様とお母様の愛も、ごちそうさまでした」
父は私の言葉に驚いた顔をしたから、少しすっきりした気分になって父の部屋を後にした。
私は周回遅れの競走馬のようだった。
ヴィオラとジュスティアーノ殿下の婚約にショックを受けてここへやってきたのに、やっとダヴィードのことを自分の中で昇華できた気がしているのだから。
私だけがまだ過ぎ去った景色の中を走っている。
ゴールは遠いと思いながら、私はどこに向かって走っているのだろうという気持ちにもなった。