【15】ボージオ湖畔にて
久しぶりのボージオ湖畔の館は、記憶のままにそこに佇んでいた。
母が亡くなってから一度も私はここを訪れていなかったけれど、父は毎年夏に来ていたらしかった。サンタレーリの親戚たちに呼ばれることがある父が、一泊や二泊家を空けるのはよくあることだったので知らなかった。
父は、この別荘の本来の持ち主である母の部屋に、今回私が滞在することを許してくれた。
この部屋のことはよく覚えている。
ブルーグレーの地に白い花模様の壁紙は、王都の母の部屋には使われていない大胆な柄行だった。カーペットは無地のブルーグレーで毛足の長いもの。カーテンやベッドファブリックはすべて真っ白でフリルなどが一切ないシンプルな物で、ブルーグレーの壁紙にとても映えている。リネン類はあの頃の物ではないだろうが、色合いだけは同じように揃えてあった。
デスクの上の真鍮の一輪挿しもあの頃のままだった。
ここに赤い薔薇が挿してあれば、本当にあの頃のまま。
ブルーグレーと白の部屋の中の一輪の真っ赤な薔薇、その美しさが子供心に大人っぽく感じ、とても素敵だと胸を躍らせていた、そんなことを思い出した。
窓から、濃い緑に囲まれたボージオ湖を見る。
この別荘は湖にせり出すように建てられており、母のこの部屋はちょうど湖の上になるように作られている。鏡のように美しい湖面を見ながら、私がここで向き合わなければならないものを思い浮かべた。
***
ジュスティアーノ殿下の婚約者がヴィオラに決まったと聞いて、私は衝撃を受けた。
何故、アンセルミ公爵家の嫡子に生まれ、それを継ぐべくして生きてきたヴィオラが第一王子の婚約者になったのか──。
幼い頃からずっと、ヴィオラと同じ未来を見ていたと思っていた。
女公爵が特殊なことではないこのロンバルディスタ王国においても男性が継ぐほうが多い中で、女公爵という立場に向けられる目はそれほど温かいものではない。
優秀でなければ相手にされず、優秀であれば妬まれて足元を掬われる。
名声を得れば、女はお手軽な武器があって羨ましいなどと言いだす者が必ずいるのだ。
そしてそういう時に、何故か男性たちは一瞬で結託する。
私はそうした男性たちに対し、ヴィオラと共闘していると思っていた。
これからもこの先も、ずっと同じ立場で手を取り合っていくのだと。
同じ立場、同じ苦しみや重責を分かち合う、唯一無二の友人だと、そう思っていたのに……。
でも……ヴィオラはそうではなかった。
嫡子としての責任も矜持も、すべて妹に譲れるものだったのだ。
ヴィオラも同じ気持ちでいてくれていると、私が思い込んでいただけだった。
これを裏切られたと感じてしまうのは、身勝手だと分かっているけれど……何の話も聞かされておらず、いきなりあの場で頬を叩かれるように私が知る流れだったことが悲しかった。
ヴィオラが妹エデルミラ嬢に唯一譲れなかったのは……ジュスティアーノ殿下だったのだ。
全国から集まる他の貴族と同時に婚約を知らされたというのは、友人だと思っていたのは私だけだったということ……。
そう頭の中で言葉にすると、部屋の空気が薄くなったように胸が苦しい。
どうして……。
この息苦しさから逃れられる方法が、何も思いつかなかった。
私は湖が見えるのとは別の窓に近づいた。
こちらの窓からは、別荘の横のガーデンが見える。
ゆったりしたカーブを描く小径、そこに植えられている木が白い花を付けている。
小さな、白い花。
私は急にこみ上げてきたものを手で押さえ、洗面ルームに駆け込んだ。
閊えていたものを吐き出して、胸を掴む。
私は、何か大事なことを見落としているような不安感に襲われた。
***
頭がぼんやりしている。
ノーラが大きなバスケットを手に、ボージオ湖の水辺まで誘ってくれた。
王都で毎日忙しくしていた時に、私がボージオ湖に久しぶりに行きたい、バスケットに白いパンを詰めて水辺で食べたい、そう言っていたとノーラがいう。
そう言われてみれば、そんなようなことを言った気がしたけれど、今こうして湖の冷たい水に素足を浸していても、特別な思いは何も感じなかった。
心が砂で埋まっているように、見えなくなっている。
しばらく水の中で足をゆらゆら動かしていると、冷たさに感覚が鈍くなっていた。
今の私の心と同じだ。
切り傷を処置するときに、患部をこうして冷やして感覚を鈍らせてから縫合するとよいと聞いたことがある。
今なら心を握り潰しても、そんなに痛みを感じないで済むかもしれない。
湖に浸していた足を戻して立とうとしたらよろけてしまい、護衛に支えられてしまった。裸足のまま歩こうとしたけれど、水の冷たさに感覚を失った足ではまともに歩けなかった。
「レティ、一緒に食事をしよう」
気が付いたらそこに父が居た。
父は私を軽々と抱き上げると、ノーラが準備をしてくれていた湖畔の草の上に敷いた布の上に私を置いた。
「ここで、皆で食べよう。さあ君たちも座って」
父はノーラと、私と父にそれぞれついていた三人の護衛にも、布の上に座るように促した。
バスケットの中には、燻製肉や野菜や卵を挟んだ白パンがたくさん詰められていた。チーズやフルーツを切ったものもあって、父がサンタレーリから連れてきた料理人が頑張ってくれたようだった。
ノーラは父に深くお辞儀をしてから私の近くに腰を下ろし、三人の護衛は布の上は固辞して草の上に座った。
まだほのかに温かさが残っている白パンに、燻製の肉がはみ出るくらいに挟まっている。塩気の強い燻製肉が白パンの甘みと合っていてとても美味しい。
父は体格のいい三人の騎士に三つ目の白パンを勧め、彼らは見ていて気持ちがいいくらいに素早くきれいに食べていく。
もっとゆっくり味わって食べればいいのにと思いつつ、本来はまだ仕事中だということで、急いでいるのかもしれない。
「レティ、外で食べる食事はいいだろう」
「ええ、良い空気の中でいただくと格別ですね」
私は父が望む答えを口にする。
本当は胸が閊えていてあまり食欲はない。それでも白パンの柔らかさと燻製肉の美味しさで、一つはどうにか食べられそうだった。
水面を、滑るように白い鳥がやってきた。
「お嬢様、こちらをあげてみてはいかがでしょう?」
ノーラは薄い紙袋に入った白パンを小さく切ったものを出した。
聞けば、焼いている途中で隣り合ったパンがくっついてしまった失敗作の一つを切ったものだという。
私はそれを手に取って、水鳥に向かって投げる。
すーっと近づいた水鳥が嘴を開け、パンは吸い込まれた。
私がもう一つパンを投げると、水鳥はまた器用に吸い込んだ。
湖の水がとても澄んでいるので、水鳥が水中で掻いているのが見える。
湖面を滑るようにしていながら水中ではこんなに必死で掻いている水鳥は、まるで今の私のようだ。
いや、私はこの水鳥にも及ばない。
定例会議後の私は、こんなに涼しく優雅に見せることなどまったくできていなかっただろう。
「あの日、あなたのようで在りたかったわ……」
私はそう水鳥に呟き、袋のパンが無くなるまで投げる。
水鳥は右に左に優雅に動いて残らず食べた。
帰り道、小さな赤い実をつけている草を見つけた。
その草を折って、母の部屋の一輪挿しに活ける。
ブルーグレーの花柄の壁紙と白のリネンの中にやっと赤が加わって、思い出の中の母の部屋に近づいた。
赤い薔薇ではなく小さな赤い実というところが、今の私をよく表していて少し笑った。
***
夕食や湯浴みを終えて、母の部屋の本棚からこれから眠りに誘ってもらう本を探している。
面白過ぎる物語や重たい本は向いていない。
こう言うのも何だけれど、歴史書のようなものがちょうどいいのだ。
ナントカ三世がドコソコの街に進軍し……などという記述のある本が、眠りの淵に落ちるのに向いている。
これでもない、あれでもないと探しているうちに、一冊の革のカバーの本が、背表紙を奥にして挿してあることに気づいた。
その本を抜いて開くと、中は日記帳のようだった。
ゆっくりと開いた最初のページには、記憶にある母の手による文字が綴られていた。