【10】婚約破棄 ②
「婚約破棄について、どうやら娘が自分できちんと始末をつけたようで私から何か言うことはない。ただダヴィード君に、入り婿としてサンタレーリ公爵家に入った私から、一つ言わせてもらいたい」
父はいつも柔和と言われているけれど、今は私も滅多に見たことが無いほど厳しい表情をしている。
父に名指しされたダヴィードは、姿勢を正し座り直した。
「家と家が決めた婚約というのは、そう軽いものではない。婚約者である娘を裏切った君を穏便に扱えば、サンタレーリはそうせざるを得ない何かがあるのではないかと痛くも無い腹を探られてしまう。またカノヴァ侯爵家は、息子の不祥事に誠実に対処したと世間に見せなければ、貴族としての生命線を断たれる。ダヴィード君、君が軽んじたのはレティーツィアだけではないのだ。カノヴァ侯爵家が、サンタレーリ公爵家を軽んじたと世間では看做すだろう」
父はそこでひとつ息を吐いた。そして、どこか遠い目をして続けた。
「ダヴィード君にならレティーツィアを託せると思っていた。だが、私たちは目が曇っていたということになってしまい、残念でならない。サンタレーリの為だけではなく、カノヴァ侯爵家の為にも、ダヴィード君に見せかけだけの優しさを与えない。そちらのアルテアガ子爵令嬢も同じだ。二人が相応の罰を受けたと世間が認知すれば、カノヴァ侯爵家とアルテアガ子爵家の他の親族への波及が最小限で済むからだ。君たちの安っぽい劣情のせいで、これまで努力をしてきた家族や親類に影響が及ぶのは君たちだって不本意だろう。ならばきちんと罰を受けるべきだ。貴族であることの恩恵を受けていながら、貴族であることの義務を果たさないなどということは許されない。君たちの処遇は、それぞれの親御さんに一任する。きっと君たちだけではなく、一門や我がサンタレーリのことも鑑みた処分を与えてくれると信じている。誰のせいでもない、自身の浅薄さと愚かさからこうなったと心から思えた時、君たちの前に新しい道が開けるだろう」
父が長々と演説めいたことを言ったことに心底驚いている。
こんなふうに饒舌な父を初めて見たのだ。
それもすべては私のためだった。
ダヴィードと子爵令嬢が私に逆恨みの心を向けないように、今更にも思える貴族社会の在り様について説いたのだ。
私に『自分を好きでいようと思うな』と言った叔父に追従した父が、この場で私を護ってくれた。
「……大変……大変申し訳ございませんでした……。私が間違っておりました……。
婚約者であった……レティーツィア嬢を蔑ろにしてしまったことを、心よりお詫び申し上げます……申し訳ございません……。私はいかなる処罰も受け入れますので、こちらの令嬢のアルテアガ子爵家、及びカノヴァ侯爵家係累への……処罰に関しましては、誠に勝手ではございますが……寛大なお心でお願いできればと……ひとえに、どうか……」
ダヴィードはソファから降り、床に膝と手をついてそう言った。
最後のほうは途切れ途切れの涙声になってしまっていた。
ダヴィードのアルテアガ子爵令嬢を守りたいという必死の思いが伝わって、それが私ではなかったことに心臓を強く握られたように胸が痛んだ。
「……私も間違っていました。人を好きになることの何が悪いのかと思っていましたが、相手に婚約者がいたのなら、それは不誠実なことだったと、理解……できたように思います。申し訳ございませんでした……」
ロザンナ嬢も深々と頭を下げた。
燃えるような恋心をダヴィードに抱いたことはなかったけれど、そこに敬愛の心はあった。
ずっと一緒に生きるのだと、そう思っていた……。
でももう私たちの道は分かれた。
私は前を向いていく。
父や叔父が、すぐに新しい婚約者を見つけてくるだろうけれど、これからはもう間違わない。
何か思うところがあればそれを言葉で相手に伝え、飲み込んだり我慢したりしないように。
そして、自分のことだけではなく相手が何を思っているかを感じ取り、時にはきちんと言葉にしていい方向に持って行けるようにしていきたい。
ダヴィードとの婚約がこのような結果になって、自分だけでも自分を好きでいようというのが甘ったれた考えだったと思い知った。
相手に優しさを見せることのほうが簡単なのだ。
本質的に相手の為にならない優しさは少しずつ当人を足元から腐らせ、いずれ立ち上がることもできなくさせる。
その時は厳しいと思える言葉や態度で叩き伏せても、相手が自分の力で立ち上がれるようにするのが本当の優しさなのだと、自分を嫌いになりながら私は知ることができた。
***
ダヴィードは、カノヴァ侯爵の末弟である子爵の養子になった。
王都から遠いその子爵領にて、見習い従者として働くという。
ロザンナ・アルテアガ子爵令嬢は母方の実家である男爵家の養女となり、男爵令嬢としてダヴィードと結婚してダヴィードと共に子爵領でメイドとして働いているそうだ。
二人はカノヴァ侯爵家の応接間より狭い家で慎ましく暮らし、ダヴィードは領民から納められた穀物などを管理しているという。
父によれば、二人を平民に落として市井に放り出したとしても、慣れない平民暮らしの中で反省する余裕もないまま簡単に命を落とすだろうという。
それよりも、監視の行き届く場所で額に汗して働かせることで己と向き合わせたいという、カノヴァ侯爵の頼みを受け入れた。
ダヴィードはその仕事で得た二人の給金の半分ほどを、サンタレーリ公爵家への慰謝料を立て替えたカノヴァ侯爵とアルテアガ子爵家に送金しているとのことだ。
私もそれでよかったと思っている。
当初は父も叔父も、ダヴィードにもっと厳しい処罰を与えるものだと思っていた。
でも、考えてみれば侯爵家の次男として何不自由なく過ごしてきたダヴィードが、元の自分の身分よりも低い貴族の従者見習いとして遠方の領地で働くというのは、それだけで十分な罰になっていると思える。
侯爵家の次男との結婚を夢見たロザンナ嬢は、華やかな王都から離れメイドとして傅く日々だ。
そこで二人が何を思うか、もう私には分からないしその必要もない。
私もサンタレーリ次期公爵として、新たな婚約者を決めなければならない。
感傷に浸っている時間などなかった。