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【9】婚約破棄 ①


バルコニーに出て空を見上げると、今の私の心を映したようなどんよりとした灰色の雲が空を覆っている。

これからダヴィードとカノヴァ侯爵夫妻がやってきて、ダヴィードに婚約の破棄を伝える。

ダヴィードの相手であるロザンナ・アルテアガ子爵令嬢と子爵には、不貞の慰謝料を申し伝える。

ダヴィードは子爵令嬢とその両親も来ることを知らない。

私が待つ応接間には、私と護衛三名と侍女二名だけで父はいない。父は後で呼ぶことになっていた。


アルテアガ子爵夫妻とロザンナ嬢は、ダヴィードたちより早い時間に呼んでおり、すでに応接間の続きの部屋に通してある。そこにも護衛がおり、アルテアガ子爵家の方々には声を出さないように申し伝えていた。

今は部屋と部屋の間の扉は閉じてある。ダヴィードとカノヴァ侯爵夫妻が着座したら侍女がさりげなく開ける算段だ。


***


「どうぞお入りください」


ようこそいらっしゃいました、お待ちしておりました──。

これまではそんなふうに言っていたのに、今日はそうした言葉を意識して言わない。そのことに感じた少しの寂しさを胸の奥に追いやった。

呼び立てした理由を伝えていないので、カノヴァ侯爵夫妻もダヴィードものんびりとしたごく普通の表情でソファに座った。

私は小さく息を吐いて、口を開いた。


「今日お出でいただいたのは、私とダヴィード・カノヴァ侯爵令息との婚約を、破棄とする話し合いの為です」


「婚約破棄……意味が分からないが……」


ダヴィードは驚いたような顔をして、それきり言葉が続かない。


「……まずは、その理由を伺ってもよろしいでしょうか……」


カノヴァ侯爵は、絞り出すようにそう言った。『破棄』と私が言ったのだから、自分の息子に理由があると思ったのだろう。ダヴィードよりも頭が回っている。


「ダヴィード・カノヴァ侯爵令息の不貞が理由です。サンタレーリ公爵家は、不誠実な者の血を取り込むことは致しません」


「……ご、誤解だ……レティ、不貞なんて誤解だ!」


「私やサンタレーリ公爵家が、誤解を基に特に調べもせずに婚約破棄を伝える愚か者だと、そう言っていることになりますが、それでよろしいの?」


「そ、そうではないが、誤解なんだ、レティ」


「では、ロザンナ・アルテアガ子爵令嬢についての誤解とやらを、解いてみせてくださる?」


ダヴィードは、ここでその名が私の口から出るとは思っていなかったという顔をした。

カノヴァ侯爵は、それまで背筋を伸ばして寄りかからずに座っていたのに、崩れるようにソファの背もたれに身体を預けた。


「かっ、彼女とは、カフェでお茶に付き合ったことはある……そ、相談を受けただけなんだ。そう、その場には僕の友人だって居たよ。レティが誰にどんな話を聞いたのか知らないが、本当に誤解なんだ。僕はレティの領主教育だって共に受けている。それは君との将来を真剣に考えているからに決まっているじゃないか」


ダヴィードは、肉食動物に追い詰められた小動物のような顔を私に向けていた。

続きの部屋との間の扉が開けられていることを、目で確認する。


「私は誰かの噂を聞いたのではありません。城南アンセルミ区にあるティーサロンで、この目で見て、この耳で聞きました」


「……そんな……嘘だ……」


「……ブレスレットを着けてきてくれたんだね。そう言ったあなたは子爵令嬢の手を取り、華奢な手首に良く似合うと令嬢の目をみつめた。互いの瞳の色、ブラウントパーズとグリーンガーネットだったかしら、その石をあしらったお揃いの革のブレスレットを着けていたわ。そして、子爵令嬢は、ブレスレットを贈ってくれたのは、この手を離さないという意味だといいのだけれどと言い、もちろんそうだ、俺は君の手を離さない、俺が好きなのはロザンナだけだ。子爵令嬢の手を握って、あなたはそう力強く答えた。もう一度言うけれど、この目で見たのよ、あのティーサロンで」


「ダヴィード、どういうことだ? きちんと説明をしなさい」


カノヴァ侯爵がダヴィードに静かに声を掛ける。動揺が怒鳴り声にならないところはさすが侯爵と言うべきだろうか。


「どうしてそんな、嘘を言うんだ……僕は君との婚約を破棄などしない。そんな嘘で僕の気を惹こうとしないで。もしも何か誤解があったのなら謝る。僕は君の手を取るに決まっているよ」


アルテアガ子爵令嬢には、このダヴィードの言葉が聞こえているのに。

二人の間に本当に愛があったのなら、私との婚約を解消してから向き合うはずなのに、ダヴィードはそうしなかった。不誠実なダヴィードの本性を、私も子爵令嬢も今しっかりと聞いたのだ。


「こちらをご覧ください。法務院の書記官立ち合いのもとに作成された宣誓書です」


カノヴァ侯爵の前に宣誓書を並べた。侯爵は広げて目で読み、紙を持つ手が小さく震えている。

ダヴィードはそのうちの一枚をひったくるように手にして、同じように目で読んだ。

そして眼球を落としそうなほどに目を見開いて、怒りからなのか羞恥心なのか、顔を赤くして口元を歪めた。


「……僕の友人まで……抱き込んで、こんな嘘を……」


「嘘ではないだろう。スペルディ侯爵は私の先輩であり、その令息はダヴィード、おまえの一番の友人ではないか。おまえを諫めても聞く耳を持たなかったと、このような証言を法務院の書記官立ち合いの場面で、彼が嘘をついておまえを陥れる理由などない。これは事実なのだろう、ダヴィード」


「……法務院? 書記官? どうしてこんな手の込んだ嫌がらせをするんだ……。だからって婚約破棄など受け入れない、僕はサンタレーリに選ばれたんだ。そうだ、一時の癒しを求めただけなんだよ!」


その時、ロザンナ・アルテアガ子爵令嬢が、開けられていた扉からふらふらとこちらに入って来た。


「一時の癒しを求めただけとはどういうこと……? 婚約破棄を受け入れない? ダヴィ、何を言っているのか全然分からないわ……」


「ロザンナ……どうしてここに……」


「私とダヴィード・カノヴァ侯爵令息の婚約を破棄するにあたって、当事者を全員ここに呼びました。お互い嫌なことは一度で済ませましょう。ノーラ、父を呼んでもらえるかしら」


ノーラが慌ただしく部屋を出て行くのを皆の視線が追った時、ロザンナ・アルテアガ子爵令嬢が、ダヴィードに近づきその頬を平手打ちにした。


「嘘つきはダヴィよ! 私は……本当にダヴィを信じて愛して……身も心も捧げたのに、酷い、酷いわ……」


子爵令嬢は、しゃくり上げて泣きながら、その腕から革のブレスレットを外してダヴィードに投げつけた。


「……ロザンナ……婚約者がいる男に純潔を渡したというのか……なんてことを……。侯爵令息を娘が叩いた無礼は、娘の純潔と未来を奪ったことと相殺させてもらいます。それで不足なら私をいくらでも叩いてください」


アルテアガ子爵も隣室からやってきて、真っ赤な目でダヴィードを睨んでいる。

今日は高い位置のツインテールではなく髪を下ろしていて年相応に見えるものの、父親からすればいつまでも可愛く無邪気な娘なのだろう。

すでにダヴィードは何かを言う気力を失っているように見えた。


「ダヴィード、本当にロザンナ嬢を好きだったのなら私との婚約を話し合いで解消して、身綺麗になってから愛を囁けば良かったのよ。それが誠実というものでしょう? あなたは私にも子爵令嬢にも、ただただ不誠実だったの。だから一時の癒しだったなんて平気で言えるのよ」


「……不誠実……僕が……」


「この書類にサインをしてもらうわ。ダヴィード・カノヴァ侯爵令息の有責での婚約破棄として、カノヴァ侯爵家に慰謝料を求めます」


ダヴィードの、頑なに自分は悪くないのだという態度に少し変化があった。

もう、先ほどのように言い訳にもならない戯言を口にするのはやめたようだ。

叔父や父が、一度はサンタレーリの婿に相応しい知性ありと目を掛けた人間なのだから、最後くらい潔く自分のしたことを認めて欲しい。

不貞を働く前に、その知性を基に行動してほしかったけれど、もうすべてが遅かった。


「……ダヴィードの父である私からサインをいたします」


そう言うとカノヴァ侯爵が、私が置いた書類を確認してサインをした。その様子をみつめていたダヴィードも、侯爵に続いて震える手でサインをした。

あとは私と父がそれぞれサインをすれば、サンタレーリ公爵家とカノヴァ侯爵家を繋いでいた縁が終わる……。

そして、ロザンナ嬢にも自分がしたことを償って貰わなければならなかった。


「被害者のように泣いているロザンナ・アルテアガ子爵令嬢、あなたはダヴィードに婚約者がいることを知りながらダヴィードの手を取った。心と身体をダヴィードに捧げた憐れな娘だとご自分のことを思っているかもしれないけれど、私の立場から言わせてもらえば単なる分別の無い泥棒猫です。騙されたのではなく自ら飛び込んで行ったのですから、アルテアガ子爵家にも相応の慰謝料を求めます。これはお金の問題ではなく、誰が悪かったのか、それをはっきりと公的に残すためですので」


「……泥棒猫……酷いわ……。そんなことを言う人だから、ダヴィに嫌われたのよ」


「目の前に泥棒が現れて、あなたはその泥棒を男性に嫌われないようにと意識して何と呼ぶのかしら。『私の財産を掠め取ろうとするミスター』だとか? ずいぶん優雅ね」


皆が驚いたように私を見る中、アルテアガ子爵が立ち上がった。


「申し訳ございません、すぐにサインをいたします! ロザンナ、おまえは口を開くな!」


こちらはアルテアガ子爵が娘の不始末の尻拭いをきちんとしますという意味合いの書類なので、ロザンナ嬢のサインは不要だ。

まるでカノヴァ侯爵とダヴィード、そしてアルテアガ子爵が書類にサインを終えたのを見ていたようなタイミングで父が部屋に入ってきた。



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