ソリチュード ~La Route semée d’étoiles~
カーテンを開けると、パリは雪化粧をしていた。
ヘクセンハウスさながらの街並みの彼方には、エッフェル塔が枯れた針葉樹のように佇立していた。
水無瀬愛里紗は、街路に行き交う人の姿を確かめてから、墨黒地に絣の市松を織り込んだ結城紬に袖を通した。淡いベージュ地に小花を散らした名古屋帯を合わせ、帯締めは若草と桃の花を思わせる組紐にした。
春まだきの今日、来客を迎えるには相応しい装いだった。
寝室を出てアトリエの扉を開ける。
静寂の中で、空気も時間も凍りついていた。
暖房を入れると、暖められた空気が時間を動かしながら、ゆっくりと室内に広がっていった。
キッチンで茶菓の準備を整えていると、サクレクール寺院の鐘が鳴った。
その余韻が消えると同時に、チャイムが来客を告げた。
ドアを開けると、焦げ茶の瞳に柔らかな光をたたえた青年がひとり、雪のなかに立っていた。
青年は「こんにちは」と挨拶をして、「安田稔です」と名乗った。
「水無瀬愛里紗です」と返したあと、「ああ」と愛里紗は思わず吐息を漏らした。
「どうかしましたか」と、稔が首を傾げる。
愛里紗は「失礼しました」と詫びた。
「久しぶりの日本語だったので、つい……。どうぞ、お入りください」
稔は「お邪魔します」と会釈をした。セーターにジーンズという軽装に似合わぬ、整った所作だった。背中の楽器ケースが、稔に合わせてお辞儀をした。
アトリエに入ると、稔は室内を見渡した。
炉を切った小上がりの座敷を、円窓の障子紙で濾過された陽光が淡く照らしている。
草木も置物もない空間をさまよった稔の視線が、床の間の短冊に留まる。
『暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月』
囁くように詠んだ稔は、振り向いて戸惑ったような顔つきで「和泉式部ですね」と確かめた。
愛里紗は頷きで答えながら、立礼用の卓に煎茶と兎饅頭を出し、稔に椅子を勧めた。
稔は、着席して茶を一口すすると、目を細めてほうっと息をついた。
「こんなに旨い煎茶は、あのとき以来です」
「あのとき?」
「彩花里さんが、新堂のじいちゃんのために、奥出雲の山茶を淹れてくれたんです」
「あの子が、新堂和尚さまに……」
愛里紗は言葉尻を濁したが、稔は破顔して「はい」と頷いた。
「じいちゃんは、彩花里さんの活けた芍薬を褒めていました。きっと先代も――貴女も安心されるだろうって。そのときに彩花里さんから、パリにいる貴女に曲を届けてほしい、と頼まれたんです」
「そうだったの……」
愛里紗は泳がせた視線を、稔の楽器ケースに留める。
「それで、パリへはご旅行で? それとも音楽留学?」
稔は「いいえ」と答えながら、楽器ケースから三味線を取り出した。
「いまは、これの演奏で暮らしてます。大道芸ですが」
「大道芸で生計を立てるなんて、たいしたものだわ」
愛里紗の賛辞に、けれど稔の眼差しは遠くなった。
「今でこそ、です。駆け出しの頃はひどいものでした。三味線の皮が破れて稼げなくなって、行き倒れになりかけたこともありました」
「貴方もそんな苦労を……。でも、どうして津軽三味線安田流の跡取りの貴方が、そこまでして大道芸を?」
稔の顔に翳りが差し、それきり口を噤んだ。
ひとときのしじまが、アトリエの空気をひりつかせた。
やがて稔は首を横に振り、愛里紗の和服に目をやった。
「本場結城紬ですね。彩花里さんもそうでしたが、和服を着慣れている。華道家だからですか?」
稔の問いに、今度は愛里紗が言葉に詰まった。
点茶盤の椅子に腰かけ、煎茶を飲んで喉を潤す。それから、ゆっくりと返事をした。
「華道家だから、じゃないわね。……好きなのよ」
稔の表情から翳りが消えて、明るい笑みが浮かんだ。
「好きだから、か。……いい言葉だ。でも、それを通すのは難しい」
愛里紗は、「そうね」としか答えられなかった。
稔は再び茶を口にすると、「それでは」と三味線を構えた。
いかにも無造作に糸巻きを動かしたように見えたが、撥で弾かれた糸は長く深い響きを残した。
満足したように目を閉じた稔は、二の糸と三の糸の勘所を押さえて撥を当てた。
アトリエの空気を震わせて、三味線の音が鳴り渡る。
たった三本の弦を撥で弾くだけで、稔は、深くそして彩りに満ちた音楽を奏でる。
愛里紗は背筋を伸ばし、眼差しを稔の手許からを円窓に向けた。
窓が向いた方角――東の果てには、あの場所がある。帰るにはもう遠すぎ、けれど、捨て去るにはまだ近すぎる、あの人々と日々が……。
*
冬枯れの庭園に面したガラス張りのロビーには、この美術館を訪れた客に混じって、顔見知りの華道家の姿がちらほらとあった。
花を生け終えた愛里紗の耳に、「ほう」と優しい響きの男の声が聞こえた。
「移ろう心のありようすら、花に見立てるとは。相変わらず、尖った花を生けるね。ここに刺さるよ」
羽織姿の壮年の男はそう言って、胸に拳を当てた。
愛里紗は丁寧にお辞儀をする。
「ありがとうございます、洞院有恒先生」
「この私をまだ師と呼んでくれるんだね」
「悔しいけれど、尊敬できる華道家は、母の他には貴方しかいませんから」
有恒は「そうか」と頷いて、壁際に並ぶガンダーラ弥勒仏の石像に目をやった。
肩でひとつ息をして、再び愛里紗に向いた有恒の表情は、仏像を思わせる超然としたものだった。
「作品はいいんだ。だが、君自身の品性は、華道家として褒められたものではない。身持ちの悪さ、なんとかならないのか」
「いまさら、わたしの生き方に口出しするつもり?」
愛里紗の反抗に、有恒は「わかっているよ」と応じた。
「君の生き方をどうこう言うつもりも資格も、私にはない。だが協会としては、そうもいかない。君と花心流を除名すべきだというのが、委員の多数意見なのだ」
「除名……」
「そうだ。君は、わがままのために、花心流を潰すつもりか。明日花の苦労が、だいなしになるのだぞ」
その名を口にした有恒を、愛里紗は睨みつけた。
「先代は――いえ、母は、わたしの生き方を認めてくれている。好きにしていい、と。だから……」
愛里紗は、その先を言葉にできずに、唇を噛んだ。
有恒は硬い表情のままで、愛里紗の言葉尻を捉えた。
「だから、なんだというのだ。そんな子どもじみた言葉は聞きたくない。袂を分けたとはいえ、明日花は私のパートナーだったのだ。だからこそ――誰も彼も遠慮してそれを君に言えないからこそ、この私が言わなければならないんだ。君という存在は、その才能も生き様も、この国の華道界では受け入れられないのだ」
言いきって、有恒は深く嘆息した。
愛里紗は、「そんなこと……」と言いかけて口を閉じ、拳を震わせた。ひとしきり有恒と眼差しをぶつけ合った愛里紗は、「それは」と呻いた。
「協会理事長としての通告? それとも、最大流派の家元としての忠告のつもり?」
言ってしまってから、愛里紗は口もとをゆがめて自嘲した。
有恒は、苦笑とともに愛里紗の言葉を受け止めた。そして、「いいや」と首を振った。
「父親としての、お節介だよ」
*
同じ音を短く二つ重ねた直後から、稔の演奏が一変した。
撥は早く激しく動き、弾かれた糸は泣きわめくように、めまぐるしく変化する旋律を奏でる。
この魂が、この声が、届かぬのかと。
聞く者に訴えかける。
呼応したように、閉じられた愛里紗の目元が険しく歪んだ。
*
床の竹筒に、一輪の胡蝶侘助が咲いていた。
ほの暗い空間に、紅が差した白い花が浮かび上がっている。
「わたしは……どうすればいいの?」
問いかけた愛里紗の目前で、明日花は茶の手前を始めた。
愛里紗の問いには答えず、時間をかけて濃茶を練った。そして、床の侘助を茶碗に添えて、愛里紗に差し出した。
愛里紗は、茶碗を手に取り、濃茶に口をつけた。
茶を飲み干し、茶碗を戻す。
明日花が日向のような笑みで、問いかけた。
「あなたは、生け花が好き?」
愛里紗は、答えが返せなかった。
二人の間には、侘助の花だけがあった。
冬の日が、格子の影を畳の縁に落としていた。
愛里紗の手が侘助に伸び、しかしそれに触れる前に引っ込む。
釜の湯がたぎる音だけが、茶室の時を進める。
やがて、黙り込んだ愛里紗の顔から、険しさが引いていった。
格子の影が、愛里紗の膝に届いた。
ふうっ、と。
愛里紗は、深く長い息を吐き出す。その顔には、もう穏やかな笑みが浮かんでいた。
「わたし、やっぱり生け花が好きです」
愛里紗は、明日花に深々と頭を下げた。
「ありがとうございました……今まで」
明日花は侘助を手に取って、愛里紗に差し出した。
「息災に」
母の手から受け取った侘助を帯に挿し、愛里紗は茶室を後にした。
自宅に戻った愛里紗は、彩花里を稽古場の茶室に呼んだ。
「彩花里ちゃんに、だいじなお話があるの」
「はい」
「あなたに、花心流の家元を任せたいの」
彩花里の視線が泳ぎ、愛里紗の胸元にある侘助に留まる。
はっとしたように、彩花里は首を振った。
「私には、まだ……早いです」
愛里紗は「うん」と、頷いた。
「わたしもそう思うわ。でも、すべてのことには相応しい時がある。それにね、わたしはあなたがどんな花を生けるのか、見てみたいのよ」
すこしの間があって、彩花里は「もし」と切り出した。
「断ったら、花心流はどうなるの?」
「わたしの代で、おしまいになるわね」
「引き受けたら、お母さんはこれからどうするの?」
「パリに行こうと思ってるの。むこうで、自分の力を試したいのよ」
「パリ……」
天井を仰いだ彩花里は、「遠いね」とつぶやいた。
「そうね」
「お別れ、じゃないんだよね?」
「もちろんよ」
これを、と愛里紗は、侘助の枝を彩花里に差し出した。
彩花里は、遠慮がちに、けれどしっかりとその枝を受け取った。
「それをどうするのも、あなたの自由よ」
ひとしきり侘助を見つめた彩花里は、花枝を胸に抱いて立ち上がった。
内露地に出た彩花里は、蹲の脇を埋める苔の上に、侘助の枝を置いた。
愛里紗は、言葉も忘れて、愕然と立ち尽くした。
ただ、そこにあるだけで。
花が生き、そこが花で活かされていた。
振り向いた彩花里は、蕾がほころぶように微笑んだ。
「花が、ここで咲きたいって。そう言ったから」
愛里紗は目を閉じる。
露地の侘助を、彩花里の笑みを、この刹那を記憶に焼きつけるために。
*
稔は、激しい撥の動きを、一瞬で鎮めた。
冒頭のモチーフがリフレインされる。
だがそれは、ただの繰り返しではない。より静かに、そして、より深く。音が覚悟をまとって、語りかけてくる。
『Solitude』
愛里紗は、ささやくようにその曲の名を口にした。
円窓の障子をそっと開ける。
一輪の侘助が、雪を被って咲いていた。
唇を引き結び、眦を決して、愛里紗はその花に向きあった。
曲を締めくくる三連音が鳴り、ふっと息をついた稔が目を開けた。
愛里紗は障子を開き切る。
稔の目に、侘助が映った。
円窓から差し込んだ陽光が、愛里紗と稔の前に一筋の光の道を作った。
愛里紗は、床の間の短冊を外し、円窓の横に正座した。
侘助に積もった雪が、はらりと落ち……。
凛、と。
その花を、東の空に向けた。
(了)