第32話 人質の少女
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「ねえ、ちょっと! どこに行くのよ?」
マリスはふくれっ面で前を行く背中に問いかけた。腕を縄で縛られていなければその背中を殴ってやるところだ。
「うるさい。黙ってついてこい。逃げたら瘴気を浴びせるからな」
振り返りもせずに不機嫌そうに答えるのは、黒いローブを着た若い男――瘴気を操る力を持つ闇の魔導師だ。
詳しい事情はわからないが、マリスはこの男に捕まり取引材料にされている。森の小屋の前で見た小さな女の子と引き換えにするつもりなのだ。
あの子供は何者なのか、何故自分の父親と一緒にいたのか、マリスには何もわからない。
(もしや、お父様の隠し子? もしそうだったら、生え際から頭頂部まで草むしりしてやる!)
マリスは堅く心に誓った。
しばし無言で男についていく。足の下で落ち葉や木枝ががさがさ音を立てる。マリスは明るくなった空を見上げた後で、前を行く男の背中に視線を戻した。
昨夜、この男は何かの術を使ってその場にいない誰かに語りかけていた。男の会話に割って入ったのは覚えているのだが、その後は記憶がない。おそらく薬か何かで眠らされたのだろう。
「ねえ、あなた名前は?」
マリスは男の背中に問いかけた。
「黙っていろと言っているだろう」
「いちいち『闇の魔導師』って呼ぶのが面倒なのよ。教えてくれないなら適当に呼ぶわよ。アンドレとフランソワ、どっちがいい?」
「……レイクだ」
男は振り返らずに答えた。
「レイクね。私はマリスよ。よろしくね」
マリスは少し足を早めて、レイクの隣に並ぼうとした。それに気づいたのか、レイクが困惑気味に振り向いた。
「おい。あまり近づくな」
「なんでよ。逃げるなって言ったくせに」
マリスはかまわずにレイクの隣を歩いた。なだらかな坂になっている道を下っていくと、木々の合間に光る水面が見えた。
それでマリスにも目的地がわかった。
「大沼に行くの?」
ジューゼ領の北東にある「大沼」と呼ばれる小さな湖だ。水鳥が多数生息していて、近くの村では特産である羽毛製品を作っている。
「……水辺は瘴気を発生させる負の気が集まりやすい。そうういう場所にいると闇の魔力が回復する」
「へー。そうなんだ」
「お前、少しは怖がったらどうなんだ?」
レイクが呆れたような目をマリスに向けてきた。
「貴族の令嬢って、もっとか弱いもんじゃねえのかよ」
マリスは言い返そうと口を開いた。だが、何か言う前に大沼の方から声が響いた。
「おのれっ! よくもアンドリューを!」
わあわあと怒声ご罵倒が聞こえてきて、マリスとレイクは目を丸くした。どうやら人が集まっているようだ。
「猟師達かしら?」
腕を縛られているため肩でぐいぐいレイクの背中を押して進み、大沼を見渡せる場所に出たマリスは辺りを見回した。
すると、少し離れたところに人だかりと――何故かベンチがある。
「……アルル?」
ベンチに座っている少女をみつけて、マリスは目を凝らした。
(なんでアルルがここに? それに、あんなに真っ白な、まるで聖女様みたいな格好を……)
マリスは不思議に思いながらその光景を眺めた。




