本当の別れ ~兄~
「あんた、まだ逝かないのかい?」
目の前に広がる泉を覗き込んでいると老人に話しかけられた。
泉を覗き込んでは笑みを浮かべ消えて逝く者や、まだ逝けずにいる者。
「可愛い妹が気掛かりで逝こうにも逝けないんだ。」
そっと泉を覗けば、俺の妹が映し出される。
「ほぉ、えらく別嬪さんだね。
天に逝く前に良いものが見れた。」
老人はそう言うと笑いながら消えて逝った。
そう、此処は死んだ者が天に逝く前に立ち寄る場所。
生前、悔いが残った者は此処で成仏できる時を待つ。
俺もその1人。
藍を独りにしてしまった。
泣いてはいないか、危険な目にはあってはいないか…
心配でたまらない。
藍を救ってくれる者が現れることを願い、藍の幸せを見届けるまでは、兄として天には逝けないんだ。
妹の藍は生まれた時から人とは違っていた。
明るい髪色に、白い肌。
時折輝くような綺麗な瞳。
藍は愛らしく笑う女の子だった。
藍を囲み、父と母が笑う。そんな日常が幸せだった。
だが、藍を見た人々が噂をするようになった。
その頃からか、父は俺に剣を教えた。
嫌な予感というのはどうして当たってしまうのか…。
もうすっかり夜も更け眠りについていた時だった。
父と母に起こされ、ただならぬ雰囲気を感じた。
「どうしたの?」
そう聞いた俺の口に手を当てると、父が俺の頭を撫でて言った。
「藍を連れて床下から逃げるんだ。子供なら通れるから。」
「藍を守ってね。
あなたもまだ小さいのに…
あなた達を愛しているわ。」
そう言って母は俺を抱き締め、眠っている藍を背中に乗せた。
「さぁ、行くんだ!」
父から荷物を受け取り床下に潜った。
その時だった。
家の中に何者か達が入ってきたのは…。
それは噂を聞き付けて藍を拐いにきた賊だった。
俺は藍を起こさないように、もの音を立てないように、溢れ落ちそうな涙を堪えながら、父と母に別れを告げることもなく、ただひたすら逃げた。
気が付けば朝日が射していた。
それでも歩む足を止めずに歩いた。
見慣れない場所を人目を避けながら歩いていると、背中の藍が起きた。
キョロキョロと辺りを見回した後、俺の顔を見て笑った。
「…っ、なんだよ…もう…っ。」
泣いた俺に手を伸ばした藍。
その小さな手を握って誓った。
命に変えてでも、藍を守ると。
不安な夜を何度も過ごした。
あの日、父が渡してくれた荷物の中に短剣が入っていた。
その剣を振り、藍を守るために強くなった。
季節は巡り、
藍は美しく成長した。
その美しさは人々を豹変させ、怖い思いをどれほどしたことか。
どれだけ辛かったことか。
俺は藍に被り物として布を与えた。
本当は明るい色の方が似合うのに、目立つ色は与えることが出来なかった。
「藍は人を惹き付けてやまないのだから、お前を守ってくれる人が現れるまでは、隠すこと。素顔も、心も。」
俺がそう言うと、
「お兄ちゃんだけ居てくれたらいいよ。」
と藍は笑った。
そんな日々が続くと思っていた。
だから油断していたのかもしれない。
まさか刺されるとは…。
泣きじゃくる藍。
自分のことじゃ泣かないくせに、私が怪我なんてするといつもこうだ。
あぁ、藍…
困ったな。
愛しい妹を残すのは嫌なのに…。
「藍…一人ぼっちにしてすまないね…。」
そんなに泣かないで。
…まだ藍を守りきれていないのに…
声さえ出てこない。
目覚めた時はこの泉の前にいた。
俺は死んだのか…。
あれからどのくらいの時が経ったのだろう。
泉を覗くと、剣を振るう藍の姿が映し出される。
様になっているその姿…身を守る術を身に付けたか。
俺が死んでしまった今、藍を守ってくれる者を願った。
藍を見つけてくれる者を。
ある日、藍が人助けをした。
人に裏切られ、怖い思いを何度もした藍が。
藍、強くなったな。
泉に映る藍に手を伸ばし頭を撫でると、水面が揺れた。
藍に助けられたこの男、藍を"少年"だと思い込んでいる。
おいおい、どう見たって藍は女だろう。
こんな勘違いをするような男が"陛下"だなんて驚いた。
そんな"陛下"は自らの立場も省みずに、藍の危機に駆け付け藍を守ってくれた。
強く、優しい男だった。
彼になら藍を任せられる、そう思ったんだ。
それにしても、妹が心配すぎて泉から一歩も離れることが出来ないなんて、藍が聞いたら笑うに違いないな。
だけど、もうそろそろ天に逝く時が近づいてきた。
泉に映るのは藍の笑顔。
最期に見たのは泣き顔だったからなぁ。
大切なたった1人の妹。
もう藍は独りじゃない。
本当に良かった。
2人の行く末を見たいところだけど、
水面に触れた指先が透けてきた。
もう本当のお別れか…。
藍は俺の生きる糧だったんだ。
"藍、姿はなくても、ずっと想っているよ。
藍の幸せを心から願っている。
愛しているよ。"




