便所掃除のミリーナ 第四話
「また貴女なの、ミリーナ!一人が間違うと全員が迷惑するのよ!」
「すみません!」
伯爵令嬢がバレエを再開して三週間が過ぎた。
コンスタンは再び後悔し始めていた。少しは見所があるように見えたミリーナは、やはりただの素人だった。一人で練習しているうちは良かったが、チームに入れると必ずミスをして、皆の足を引っ張る。
しかも、当初彼女の最大の強みと思われていた、素直さが失われて来た。少なくともコンスタンはそう思った。口ではわかりましたとか、すみませんとか言うのに、同じミスを繰り返したり、何も解っていなかったりする。
「もう、いいわ…ミリーナ。貴女は…」
もう、いいでしょう?そういう意味で、コンスタンは近くに居たエレーヌに視線を送る。あとはエレーヌが頷けば、ミリーナはバレエから開放される。
伯爵令嬢は無表情で腕組みをしていた。
「…やらせて下さい!御願いし…」
そう言い掛けたミリーナの姿が不意に揺らいだ。
「キャアアア!」
ミリーナの隣に居た生徒の一人が叫んだ。ミリーナが急に倒れたのである。
「…すぐに医者を!」
誰よりも早く動いたのは、他ならぬ伯爵令嬢エレーヌだった。彼女はミリーナの小さく痩せた体を軽々と抱き上げると、外に待たせてあった自分の馬車へと連れて行く。
その日の夕方。
「ホーッホッホッホ。義侠心溢れる私の活躍、貴女にも見せてあげたかったわ」
伯爵令嬢は先程から何度もこの話をしていた。
バレエ教室で倒れた自分の使用人を、令嬢は自ら担いで自分の馬車に運び込み、そのまま医者まで連れて行ったというのである。
「大勢の良家の子女とその親御さん、お付の人々の前でね!私の評判もうなぎ登りですわ!ホーッホッホッホ」
そう、豪華な羽根の扇で口元を隠して笑っておいてから、エレーヌは急に真顔に戻る。
「でも私が人間を一人担げるような力持ちと思われるのは癪ですわね。深窓の令嬢はフォークより重い物を持つべきではないわ。そうでしょうサリエル?」
そんな事を言われても何と御返事を申し上げればよいのでしょうか。サリエルは心密かにそう思った。
「ですがお嬢様…どうかお考え直しいただけないでしょうか?お医者様がおっしゃるには、ミリーナは酷い貧血だと…過労が過ぎるのですわ」
伯爵令嬢は扇を閉じた。
「何故過労になんてなりますの?」
「午前中はバレエのレッスン、昼は農場の仕事、午後はお嬢様とまたバレエのレッスン、それで戻って来てから屋敷中の洗面所と浴室を掃除して、深夜には使用人の洗面所や洗濯場を掃除、それから明け方まで鶏小屋の掃除をしているのです」
エレーヌは停止した。
「ゆっくり食事をする時間も無いのです…お医者様はミリーナにはとにかく休みと栄養が必要だと。そうでないとあの子、もうじき死んでしまいますわ」
エレーヌは再び動き出す。扇を開き、口元を隠し、サリエルから視線を逸らす。
「それが何よ?働けないのなら死ぬだけじゃないの?貧民なんだから」
「…お嬢様!」
「まあ死人が出ると面倒になるわね。何で私がそんな心配なんかしないといけないのかしら。サリエル。ミリーナに二日間の絶対安静を命じなさい。客室に寝泊りして絶対にそこから出ないようにと。そうね、出たら鞭で打つと伝えて」
サリエルは無理やり、この命令はお嬢様の優しさなのだと思う事にした。
「では、食事などは私共が運んで、洗面所も客室のを使わせて宜しいのですね?…お嬢様…この度はこれで良いのですが…このままではまたミリーナは倒れますわ。どうか御願いします、気まぐれはやめて、ミリーナにバレエをさせるのを止めさせてはいただけませんか?」
エレーナは一言だけ答えた。
「お黙り」
三日後。絶対安静の命令の解けたミリーナを、コンスタンが尋ねて来た。
「先生…!先日は申し訳ありませんでした!あの、今日もレッスンをしていただけるのでしょうか?」
コンスタンは溜息をついた。彼女はようやくサリエルに尋ね、事情を知ったのだ。
「ミリーナ…貴女なんて生活をしていたのよ…何でもっと早くに言わなかったの?そんなの倒れるに決まってるし、練習に集中出来る訳無いじゃない!」
「…先生」
「どうして私、気付かなかったのかしら…貴女の手首…こんなに痩せて…」
コンスタンはミリーナの手を取って泣き出した。温かな涙がミリーナの掌に落ちる。
「私…今日こそはエレーヌさんに申し上げなくてはなりませんわ!」
コンスタンは決意を込めて顔を上げた。
「…先生!それはどうかお許し下さい、私、お嬢様には大変御世話になっているのです!」
「駄目よ貴女、こんな所に居たら殺されてしまうわ!…いえ、大丈夫…仕事を減らして貰えるよう、御願いするだけだから!」
しかしその日はコンスタンはエレーヌに会えなかった。
コンスタンはこの日は体を使ったレッスンはやめにして、リビングでゆっくりお菓子をつまみながら、バレエの歴史や様々な演目、有名なバレエダンサーの事などをミリーナに語って聞かせた。
そして午後。ミリーナは馬車に乗せられて教室にやって来たが、そこにエレーヌの姿は無かった。曰く、本が読みたいので休むという事である。
この日コンスタンは午後のレッスンも中止にして、代わりにお茶会を開いた。お菓子をたくさん出して、生徒達に色々な話をさせ、自らも様々な話を聞かせた。