見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ 第十七話
「オーバン・オーブリー君だったかな……どこかでお会いしていただろうか」
「ええ。貴方の方では御記憶に無いとは思いますが」
サリエルは銃身の方を握り、今奪った拳銃を差し出す。
「……どうも」
アンドレイはそれを受け取り……黙って懐に戻す。
「さて……私をどうする?」
「いくつか質問をさせていただいても?」
「ああ、構わない」
サリエルはアンドレイに近い間合いを離れなかった。アンドレイがゆっくりと低木の茂みから離れ、先程の池の畔に歩いて行くのについて行く。
「貴方はあまりこういった事を、使用人には任せないのですか?」
「考えられないな。信用出来る人間など居ない……君も貴族の世界は、古い物語のように美しい主従の忠誠と愛情で成り立っていると信じている口かい?」
サリエルは心密かに考える。少なくとも自分にとっては、それは古い物語ではなく、今の自分だ。自分の世界はエレーヌへの忠誠があってはじめて成り立っている。
「では……実際にストーンハート屋敷を見張っているあの男は」
「たまたま知り合った素人を使っているだけだ。奴は私が何者なのかも知らない」
それではトマにも簡単に目を付けられる訳である……しかし。
自分の使用人も、プロの探偵も信用出来ない。アンドレイはそういう人間なのか。
或いは以前に何かそういう事があって、今のような有り様になったのか。
「私も君に質問をしていいか?今日……エレーヌは来ると思うか」
「ああ……彼女は来ない。私は貴方を待つ為にここに来た。それはアンドレイ男爵ではなく、エレーヌ嬢を監視する男とその上役だと踏んでいましたが」
「彼女は来ないのか……それは朗報だ」
アンドレイは池の畔のベンチに座る。サリエルは杖術の間合いを保ったまま、傍らに立つ。
「何故……」
「うん?」
「何故、このような回りくどい方法を?エレーヌ嬢を遠くから見張り、他の男が近づかぬよう工作して、貴方は何をなさっておられた?貴方のような華も実もある貴公子が。何故正々堂々、お嬢……エレーヌ嬢にアプローチされなかったのですか」
多分に、憤りを含んだ声で、男装のサリエルは言った。その台詞はあくまでオーバン・オーブリーという被り物が発したものではあったが。
何故人を監視したりライバルを海外に飛ばしたりするのではなく、正々堂々エレーヌに近づかなかったのか。アンドレイははっきり言って美男子でその点ではお嬢様の眼鏡にも敵っていると思う。乗馬の趣味も合うはずだ。
そしてお嬢様自身、ローゼンバーク家とは仲良くしたいという意味の事を言っておられた。
アンドレイはこんな酷いやり方をしなくても、普通にお嬢様に近づいてくれたら良かったのではないか。
「デカダンが過ぎたよ、私は。貴公子とは笑わせてくれる。私は古い社会が遺してしまった……腐肉にたかる蛆虫だ」
「良く……解りませんな」
「知らない方がいい。耽美な青年男爵と呼ばれた男の爛れた私生活など。私自身が許せないのだよ。そもそも……君には解っているのかな……」
アンドレイはベンチの背もたれに大きく身を預け、空を見上げる。
「エレーヌがどんなに希少な存在なのか。彼女は貴種の末裔としてこの文明狂瀾の世に生まれながら、その生活は禁欲的。あの羞月閉花の美貌を持ちながら、異性を誘惑する事も無い……その気になれば……どんな享楽も思いのままだというのに」
サリエルは、アンドレイが言いたい事のだいたいを理解した。だが内容には全く同意出来ない。
「彼女のような人をこそ、清楚可憐と言うのだろうね……この誰もが美しい物を見れば、我先にと踏み散らす、爛れた世の中で……エレーヌは奇跡の花だ。彼女に触れる事は、例えこの私であっても許されない」
サリエルの背筋から首筋まで、寒気が走る。
アンドレイは狂っている。エレーヌはエレーヌだ。美男子にときめいて何が悪い。花だの奇跡だの知るものか。そんな押し付けは御免だ。
そして彼の目がどんな狂った世の中を見て来たのか知らないが、お嬢様を取り巻く世界は少しも狂ってなどいない。母娘喧嘩は少し派手かもしれないが。
「アンドレイ殿の気持ちは解りました。ですが私としては看過出来ない事もある。彼女の私生活を見張るのは結構。だが干渉はやめていただきたい。エレーヌ嬢を愛する男達が、正々堂々名乗りを挙げるのを、妨害する事は許さない」
サリエルは怒りを込めた声で言い放つ。
「どうかな……君だって、私のような者が彼女に近づくのは耐え難いのではないのかね?私は卑怯にも、君の恋敵を南半球に追い払った男だよ?それともライバルを減らしてくれた事に感謝しているのかな?」
サリエルの顔が紅潮する。他の事ならば我慢出来るが。他ならぬお嬢様の恋路を妨げた男に、目の前でそれを平然と白状されては、勘忍にも限界がある。
本当は憎くて仕方が無いのだ。この男さえ居なければ、何一つ問題は無かったのだ。エレーヌは相思相愛のリシャールと結ばれ、自分はそれを温かく見守れば良かったのだ。
手にしたステッキで。アンドレイを打ち据えようかとも思った。
だが。それではこの男を倒した事にはならないと、サリエルは考えた。
「私がライバル……モンティエ大尉を貴方が遠ざけた事に感謝していると?これ程の侮辱はない。この場で決闘を申し込む!銃を取り給え!」
サリエルはそう、低く呟いた。
「御免蒙る!私はそういう、古い貴族の慣習、誇り、矜持、そういう物が……一番嫌いだよ。文句があるならその杖で私を打ち殺すがいい……決闘?はははは!」
そう言って。アンドレイは立ち上がり、懐に手を入れ……ただ。銃を地面に投げ棄てた。
サリエルは、その銃を手に取ろうと、身を屈め……
――ドン!!
発せられた銃弾は。池の中央の馬の像の背中に当たり……それを僅かに砕いた。
サリエルは、アンドレイが棄てた銃を取ろうとしてはいなかった。取ると見せ掛けただけだった。
アンドレイは銃を二丁持っていたのだ。
アンドレイはもう一丁の、先程サリエルに返された方の銃を抜いたのだが……計略を見抜いていたサリエルに、その腕をステッキで打ち据えられる方が先になった。
サリエルが銃を手にしていれば。アンドレイの前には、正当防衛を主張する為の……銃を持った死体が出来ていたはずだった。
アンドレイの体が、揺らぎ……どさりと。地面に倒れた。返す刀ならぬステッキで頭を痛打されたアンドレイは、脳震盪を起こしていた。
サリエルは屈み、アンドレイの具合を確かめる……命に別状はあるまい。
ここですべき事は終わった。
サリエルは辺りを見回す……目撃者は居なかっただろうか。居た所で別に構わないが。しかし、本当にローゼンバーク男爵は自分一人で来たのか。自分の家の馬車にすら乗らずに……そこまで身内の脅迫を恐れているのか。
ローゼンバーク屋敷……あれは確かに、あまり良くない場所なのではないか。
この男も、ストーンハート屋敷のような場所で、ディミトリやヘルダ、エドモンにジェフロワ……愚直で善良な人々に囲まれて育っていれば、お嬢様のような素敵な青年貴族に育ったのかもしれない。サリエルはそう思った。
「ごきげんよう」
サリエルは池の畔を離れ、ベアトリクス教会の聖堂の方へと、立ち去って行く。
酷く寂れた庭園を離れ、聖堂の裏手を回り、表に回るサリエル。由緒のある立派な教会なのだが、市民が多く住む地域からは少し離れているのだ。
表門から出るとちょうど遠くから……静かな通りを、朱塗りの四頭立ての馬車がやって来るのが見えた。時刻は……ちょうど今、三時頃だろうか。
サリエルはそれを待つ事なく、教会を出て通り沿いを歩いて行く。やがて馬車はゆっくりと近づいて来て、サリエルを追い越し、二十メートル程進んでから……止まった。
来るなと言ったのに……溜息をつき、サリエルは立ち止まる。
馬車の扉が開き……エレーヌが降りて来る。
「銃声が聞こえたわよ」
「お馬さんの像に当たっただけですわ」
サリエルはオーブリー氏ではなくサリエルの声で答える。
「……乱暴な事をしたんじゃないでしょうね?」
エレーヌは、腰に手を当て、胸を逸らして構えた。
サリエルはゆっくりと近づいて行き、そのまま……エレーヌを追い越そうとするが……その腕はエレーヌに捕まえられた。
サリエルは呟く。
「勿論ですわ」
今度は、エレーヌが溜息をついた。
「乗りなさい」
「……はい」
エレーヌに連れられ、サリエルは馬車に乗り込む。
扉が閉じ……ストーンハート家の馬車は、ゆっくりと進みだした。




