便所掃除のミリーナ 第三話
コンスタンには全く気の進まない仕事だった。伯爵令嬢の気まぐれの為に、下働きのさらに見習いをしているような、痩せた無教養な娘にバレエのレッスンをする。それは全くの時間の浪費としか思えなかった。
しかし、芸術家というのは金が無いのだ。稼ぐ事が難しい職業であるのに、付き合いは多くて金がかかる。他の芸術を鑑賞し自らの器を広げるのにも多額の資金が要る。留学などしようと思ったら尚更だ。
相場の三倍の個人レッスン料と言われては、首を縦に振るより無い。
サリエルはエレーヌから何も言われていなかったので、午前中に突然訪れたコンスタンに驚いた。それでエレーヌが不在である事を告げたのだが。
「今日はミリーナに用があるのです。彼女の個人レッスンを…伯爵令嬢より依頼されておりますので」
その返事にサリエルはさらに動揺した。お嬢様はどこまでミリーナを苦しめるつもりなのか。一体ミリーナの何がお嬢様の気に触れたのか。
ミリーナは悪い子ではない。そして人には適材適所というものがある。彼女はとてもよく働くし、我々使用人の間では好かれる性格をしている。
しかし…教養ある良家の子女が集い、バレエのレッスンをする教室は、彼女にとっては針の筵にも等しいのではないだろうか。サリエルはそう思った。
ミリーナは昼寝などしていなかった。午前中はずっと農場の手伝いをしていた。
しかしこの日から彼女は、午前中は屋敷でコンスタンのレッスンを受ける事になった。
屋敷には十分レッスンが出来る広さのある空き部屋があった。
「…正直な所、あまり気がすすみません。ですがエレーヌさんがそうお望みですので。それでも…時間の無駄と思えば、私はレッスンをやめて帰りますし、二度とは来ませんわ」
コンスタンは最初からそう言い放った。
ミリーナは…深くお辞儀をした。
「お嬢様の望みに沿えるように頑張ります!よろしくおねがいします!」
「…貴女ね…嫌ならやめる事も…出来るのよ?」
「いいえ!私頑張ります!レッスンを御願いします!」
コンスタンはミリーナの返事を意外だと思った。ミリーナはバレエなどやめたいと思っているに違いないと考えていたのだ。
ミリーナにしてみれば小さい頃から、与えられた仕事に対しては絶対「できない」とか「やりたくない」とか言ってはいけないと、先輩達に教えられて、そうして来ただけの事だったのだが。
「では。厳しくやります」
コンスタンは、手にしていた教鞭を握り締めた。
昼過ぎにエレーヌが学校から戻った時には、コンスタンはもう帰っていた。
「お嬢様…先生をこちらにお呼びしていたのですか?」
「ええ。来て下さったかしら?」
「…はい」
サリエルはそれ以上何と言っていいか解らなかった。
「それで、もうお帰りになったのね?では私もバレエ教室に向かいませんと。さあミリーナを連れて来なさい」
「お嬢様、ミリーナは午前中に相当厳しいレッスンを受けたようですので…今日はもう宜しいのでは…?」
「は?何の為にあの汚いチビに個人レッスンなんか受けさせてると思ってるの?」
伯爵令嬢は、両手を腰に当ててサリエルに向き直った。
「あのボサボサ頭があまりにも不出来だからよ。あんな姿のまま教室に通わせていたらストーンハート家の恥だわ。うちの使用人だという事は皆が知ってますのよ」
一体誰のせいなんですか…サリエルは心の中で肩を落とす。
それからまた、一週間が過ぎた。
コンスタンは結局毎日、ミリーナの個人レッスンに来ていた。
少しお金の入用の予定がある事もあったが。自分の中に妙な違和感を覚えたからというのもある。
「貴女は本当に…どうして全部一から簡単な言葉にして教えなきゃならないの…どうして勉強が出来ないのかしらね…」
「申し訳ありません、それは…私、あまり字が読めないからです…」
「何度も聞いたわよ!だからこうしていちいち、手取り足取り教えているのよ!」
例えば普段の彼女の生徒になら一言で済む所でも、ミリーナに教える場合は踵をつけろ、つま先を開け、膝を曲げろと全部言わなければいけない。
しかし。
「…昨日教えた事は出来るようになったわね」
「ありがとうございます!」
違和感の原因は、このミリーナの度を過ぎた素直さかもしれない。本当に言われた事は何でも嬉々としてやる。教える手間は他の生徒の数倍かかるが、飲み込み自体は大変早く、一回身につけた事は忘れない。
そんなに…伯爵令嬢が怖いのかしら。コンスタンはそうも思った。
そして。
「…貴女には本当はまだ早いんだけど。ちょっと跳んでみて下さる?」
「?…はい!やります!」
背は低いけどジャンプが高い。滞空時間も長いし…なにより彼女は羽根が生えたかのようにフワリと飛ぶ。
たった二週間しかやってない上、教養が全くない素人。
教養も全くないのに、たった二週間でここまで来た素人。
コンスタンはこの事をどう考えたものか、思案し始めていた。