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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない  作者: 堂道形人
見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ

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見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ 第七話

 略礼服の紳士を追っていたトマは昼前には戻っていた。何も言わず留守にした事は師匠のエドモンに咎められ叱りを受けたが、トマが自分が見た事についてエドモンに話す事は無かった。


 夕方までに大急ぎで自分の庭仕事をやり終えたトマは、長屋の自分の部屋でショットグラスに注いだジンを手に、考え事をしていた。


 トマが尾行した略礼服の紳士は、辻馬車でカトラスブルグ市街を横断し、ローゼンバーグ家の屋敷に入って行ったのだ。


 この話は誰かにすべきなのだろうか。エドモンには既に話さないと決めた。ではディミトリに話すか?普通に考えれば話すとすればディミトリだ。

 しかし、事はお嬢様の身辺に関わる事で、いくら執事長とは言えこの話、ディミトリに預けていいものかどうか解らない。

 ではエレーヌの最側近と言えるサリエルに話すか。

 しかし……サリエルは秀才だしお嬢様への忠誠心は間違いなく屋敷一とは思うのだが、どうも粗忽な所があるような気がしてならない。


 ではどうするのか。お嬢様本人に伝えるのが一番な気はするが、自分の立場ではお嬢様に直接話をする機会がない。

 ただ、最近のお嬢様は今までと少し雰囲気が変わられた。今まで、時には冷酷な女帝、時には凶暴な猛犬だったお嬢様だが、ごく最近は、淑やかな少女だったり親切な女主人だったりするような事がある。

 この前もエドモンと季節の花の事で談笑されていた……自分にもそういう機会があるかもしれない。


 トマは一口、ジンを舐める。




 紫陽花の花弁を一枚、口に含み……サリエルは困り顔で呟いた。


「お嬢様……この紫陽花、ビターミント味ですわ……ミントの香りは宜しいのですが、苦味が強く甘みが少ないですわ」


 エレーヌも残念そうに言った。


「食べるより、見て楽しんだ方が良さそうですわね……こんなに細かな細工、どのくらいの御時間を掛けたのかしら。私、ただブルーノに焼き栗を御願いしようと思っておりましたのよ」


 サリエルの胸は締め付けられた。またしても自分のせいだ。自分が言った余計な一言がブルーノに火をつけてしまったのだ。そこに油を注いだのはジェフロワだが……ブルーノは今厨房に居るのだろうか?


 エレーヌはサリエルが落ち込んでいる事に気付かず、続ける。


「結局焼き栗はジェフロワに作っていただいたんですけど……甘みは足りないけど美味しかったですわ。ふふ。ポーラも、想像していた通りの味ですねって。季節の物の、見た目通りの味わいって素敵ですわね」


 サリエルはますます落ち込む。秋に摘み立ての栗の若い香りを楽しむ、エレーヌとポーラの姿は容易に想像出来る。

 それと比べ……この一枚一枚チョコレートを薄く削いで作った、季節外れの薄紫色の紫陽花の花弁に、ビターミントの味付けが施されている事にどんな意味があると言うのか。

 しかし、ブルーノにこれを作るよう仕向けてしまったのは自分なのだ。


「私、ちょっと厨房を見て来ます!」


 いたたまれなくなったサリエルは、一人で厨房へ行こうとするが、すぐに苦笑いのエレーヌに手を掴まれ、止められた。


「お嬢様?」

「もう、サリエルったらそそっかしいんだから。私先程申し上げましたわ、ブルーノが見つからないって、ディミトリから聞いたと」

「あっ……も、申し訳ありません!そうでしたわ!」


 サリエルは色々驚く。自分のそそっかしさや、今のエレーヌの優しさに。


「それに……私、我慢の限界ですの!本棚にビスケットが隠してありますから、これをおやつにいただきましょう!お茶の用意を手伝っていただけないかしら」

「まあ、お嬢様ったら……うふふ、只今」


 本棚から庶民的なビスケットの包みを取り出して得意顔のエレーヌに、サリエルの心は明るく浮き立った。

 エレーヌは本当にどうしてしまったのだろうと心配に思う気持ちも無いでもないが、少しでも長くこのエレーヌでいて欲しいと思う気持ちも抑えられない。



 エレーヌのリビングの窓からは、伯爵屋敷の庭が見渡せるようになっている。つまり庭からもリビングは見える。

 暮れ行く景色の中、エレーヌのリビングにはランプが灯っていたが、カーテンはまだ閉められていなかった。つまり。エレーヌのリビングの様子は庭からも見えた。


 今、一人の若者が、栗の木の陰からこっそりと、エレーヌ達の様子を見ていた。

 中で何が起きているか、全てが見える訳ではない。

 リビングの低いテーブルに置いてあるはずの彼の作品は、ここからでは全く見えない。しかし……彼の女主人が窓の近くで、市販のビスケットの袋を手に笑っているのは……見えてしまった。


 若者は、がっくりと両手を地面に着いた。

 女主人がビスケットを食べるという事は、自分の作品は受け入れられなかったという事だ。


 若者はしばらく、そのままの姿勢で居た。

 時折ぽたりと水滴が滴り、地面に染み込んで消える。


 やがて若者はよろよろと立ち上がり、庭のどこかへと消えて行く。




 色々な事が起きた一日が終わり、また翌日。


 一昨日も昨日もエレーヌより後に庭に出てしまったサリエルは、さらに早めの準備をしていた。それでエレーヌの準備や屋敷の家事を手伝おうと、メイド服に着替えようとしていると、誰かが扉をノックする。


「すみません、只今着替えておりますので……」


 ヘルダだろうかと思ってそう答えると、扉を少し開け、エレーヌが顔を出した。


「きゃっ……お嬢様!?」

「おはよう、サリエル。ねえ、朝食御一緒しない?」


 サリエルはまだパジャマのままだったが、見ればエレーヌもパジャマのままだ。

 サリエルは思った。世界は一体どうしてしまったのだろう。悪戯っぽく笑うエレーヌはすたすたと歩いて来て、自分の手を取り引っ張って行く。こんな事があっていいのだろうか。これではまるで比翼の(らぶらぶ)主従ではないか……


「はい!お供いたしますわ!」


 そうして夢見心地のサリエルは部屋から連れ出されて行き、後にはサリエルのメイド服が残った。



 前夜遅くから降り出した雨が、まだ少し残っていた。

 八時少し前に玄関に現れたエレーヌとサリエルは、それぞれに傘を差して馬車の方へ向かう。以前からエレーヌは自分で傘を持つ事を好む。


「それを貸して?」「あっ、ありがとうございます!」


 先に馬車に乗ったエレーヌはサリエルの鞄を受け取って席に置く。


「困った空ですわね」「そうですね……お嬢様」


 ディミトリが外から扉を閉め、馬車は走り出す。


「今朝もブルーノは見つかりませんでしたね……どちらに行かれたのかしら」


 エレーヌは、苦笑いでそう呟きながら、鞄から詩集を取り出す。


 サリエルはもう少しエレーヌと会話を楽しみたい気もしたが……昨日はお茶とビスケットを楽しみながら詩文や演劇の話をしたし、今朝は朝食を共にして童話と動物の話を楽しんだ。昨日今日だけで一年分くらい報われていると言っても過言ではないのに、これ以上を求めるのは欲張り過ぎかとも思えた。

 自分も何か読もう……と、サリエルは辺りに視線をやる。馬車の窓辺の小さなテーブルに、文庫本が二冊置いてある……


「……えっ!?」


 サリエルは驚いて手を止めた。その声に、エレーヌも顔を上げた。


「どうなさいましたの?」

「こ……この本……」


 エレーヌも窓辺のテーブルのそれに、手を伸ばしかけたが。


「な、何ですのこれ!?文庫本かと思ったら……ミルフィーユですわ!?」


 まるで、ただ窓辺に置かれた二冊の文庫本に見えたそれは、限りなく薄く焼いた生地を何百重に折り重ねてカットし、表紙のように見える生地で閉じて表紙絵やタイトルを丁寧に焼き付けられたミルフィーユ菓子だった。本当に、よく見なかったら解らない。


 エレーヌは恐る恐るそれを手に取り、二つに割ってみる……外からはただの文庫本のように見えるそれの中身は丁寧にくりぬかれ、カスタードクリームが詰め込まれていた。

 その匂いを少し嗅ぎ、端の方を……口元に近づけるエレーヌ。


「お待ち下さい!」


 サリエルはエレーヌの手首をとり、寸での所でそれを止めた。そして、自分が取ろうとしていたミルフィーユ文庫を取り、一口食べる。


「う……ぐっ!?駄目ですお嬢様!か……かなり説得力がある辛さですわっ……それに酸っぱいですっ……レモンのようにっ……」


 サリエルはその一口を涙目で飲み込んで言った。


「水筒、水筒をお持ちでないかしら!?」


 エレーヌは慌てて御者に訪ねる。


「大丈夫です、お嬢様、大丈夫……」


 サリエルは涙目で言った。半分はカスタードクリームに似せた酸味の強いマスタードのせいだったが、半分はエレーヌの優しさのせいだった。

 どうしよう。犯人は解っているのだが。この犯人には悪気は全くない。悪いのはサリエル自身なのだ。

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