便所掃除のミリーナ 第二話
翌日。ミリーナは本当に、馬車で伯爵令嬢と共に連れて行かれた。
さすがに不憫に思った使用人有志が、彼女の為に時間を作り、女達は彼女の体をお湯でよく拭いてやり、ボサボサの髪も、後ろだけはどうにか三つ編みにしてまとめてやった。
バレエの練習は普段着で行われるという。ミリーナの服はさすがにみすぼらしかったので、サリエルが工面していくらかマシな動きやすい古着を一揃え整えた。
それでも、コンスタンの教室に通う良家の子女達と比べられては、とてもミリーナの立つ瀬は無かった。
ミリーナはこの全くの未知の世界に動揺して、おどおどしていた。唯一の顔見知りはエレーヌだが、まさかエレーヌに親しく話しかける事など出来ない。
「はい皆さん…今日から新しい仲間が二人加わります…ストーンハート伯爵令嬢のエレーヌさんと…そのお屋敷で働いているミリーナです」
「よろしく御願い致しますわ」
エレーヌは余裕を持ってそう挨拶したが、ミリーナはただペコリと頭を下げる事しか出来なかった。
ミリーナが貧しく、全く洗練されていない事は、この瞬間にこの場の全ての者に伝わった。
レッスンが始まった。
コンスタンの危惧に反して、エレーヌの出来は想像以上に良かった。
優秀な生徒だった事もあったのだ。六歳から教室に通い始め、一時期はコンスタンの方が屋敷に出向いて個人指導する事もあった。最初は彼女自身も練習熱心だったし、元々の運動神経の良さと容姿の良さもあり、期待されていた時期もあった。
これなら伯爵令嬢が主役を所望されても、周りがサポートすれば何とかまともな舞台を維持する事が出来るかもしれない…コンスタンはそう思った。
彼女が連れて来た背の低い娘については、コンスタンも全く意味が解らなかった。バレエの事を知らないどころか、本当にろくに言葉も知らない。
バレエは道端の大道芸ではない。深い教養と芸術性の理解が無ければ舞台に立つ事も出来ないのだ。
動作や表現を意味する言葉の一つ一つが解らず、左の肘を上げろとか地面についている方の膝を伸ばせとか、いちいち簡単な言葉に言い換えてやらないと何も出来ない。
この娘にバカみたいな基本的な言葉の解釈を教えているせいで、どんどん時間が浪費されて行く。コンスタンも次第に苛立って来た。
そして、せめて身体能力ぐらいはあるのかと思えば、関節が固く、まともに足を上げる事も出来ないのである。
これが伯爵令嬢が連れて来た娘でなければ、とっくに外に放り出していただろう。だけど今の所、教室の最大のスポンサーである伯爵家の令嬢は何も言っていない。
それは他の生徒達も同様だった。生徒達は皆、はっきりと、ミリーナを邪魔だと感じていた。教室の足手まといであると。
だけど今の所、彼女と伯爵令嬢との関係が解らない。もし伯爵令嬢がミリーナを大切にしているのなら、彼女を粗略に扱うのは危険と言える。
この日のレッスンは、苛立ちと沈黙の間に終わった。
帰宅したエレーヌはいつになく上機嫌で、使用人達への当たりも柔らかかった。
「食事の用意がまだ?いいわよ、私に聞いてから準備するのが普通じゃない、今日は魚料理がいいわね。サリエル、昨日の本をお出しなさい」
一方、ミリーナは自分の屋根裏部屋に戻ると、すぐに今日揃えてもらった少しはマシな服を脱いで、きちんと整え、いつもの古い服に着替え、すぐに裏の離れへ向かった。
その日はまだ事件が残っていた。夕食の後でまたエレーヌが言った。
「ミリーナを私の部屋に連れて来なさい」
サリエルは溜息をついて答えた。
「お嬢様、彼女は今その…洗面所の掃除をしておりますので…」
「だから何?洗面所の掃除をしていたら主人が呼んでも来れないの?私の存在は洗面所以下とでもおっしゃるの?」
「とんでもございません…今連れて参ります…」
ミリーナは裏の離れの使用人用の洗面所の掃除をしていたが、サリエルに呼び出されて大慌てで屋根裏部屋に戻り、水で濡らした布で体を拭き、今日の一張羅に着替えて、エレーヌの居るリビングに向かった。
「遅い!遅いわよ!忙しい私をいつまで待たせる気!?」
「申し訳ありません、お嬢様!」
「フン。貴女ね。今日のレッスンを見てたけど、何よあれは。貴女は私の家の使用人なのよ?あんまり酷いと誰が恥をかくと思う?」
傍らのサリエルは、密かに長い溜息をついた。彼女は今ミリーナが来るまで散々、バレエの練習なら自分が付き合うと説得を試みていた所だった。もちろん、散々な罵倒しか返って来なかったが。
「申し訳ありません!」
「それしか言えないの!?」
「も…もっと練習します!」
「どうやって?」
「今日言われた事を、部屋でやってみます!」
「…ふーん…そう」
エレーヌはゆっくりとソファにもたれた。
「そうね…まあせめて柔軟体操くらいは念入りにやる事だわ…やり過ぎると怪我をしますから程々にね…」
エレーヌはそう言っておいてから、急に体を起こし声を荒らげた。
「いつまで突っ立っているのよ!仕事に戻りなさい!」
「は、はい!」
突然の物言いに、ミリーナは弾かれたように部屋から飛び出して行った。
サリエルは心の中で頭を抱えた。
それからまた、数日が経った。
エレーヌは毎日学校から帰ると、少し休憩して、それからミリーナを連れてバレエ教室に行く。レッスンは毎日、途中の休憩を挟んで二時間ある。
エレーヌは数日で三年分のブランクを取り戻した。技術は中途半端だが容姿はそれをカバーして有り余るものがあるし、本当に、真面目に練習さえしてくれたらそれなりのものが出来ると、コンスタンも思った。
ミリーナには全く見込みがなかった。とにかく練習にならないのだ。バレエを見た事もない、用語も解らない、物語も知らない、これでは何も教えようが無い。
ただ、どうにか柔軟体操くらいは始めているようで、初日に比べれば足も上がるようになって来た。
コンスタンの心配はミリーナの方に移りつつあった。エレーヌは彼女をどうしたいのだろうか。
ただの自分を引き立たせる為の道化だというのなら、もう彼女は必要無いと思う。エレーヌの美しさは十分引き立っているし、他の生徒達ももう彼女を新入りのような目では見ていない。
では一体何か?彼女にも端役を与えろというのか?一体何の為に?
まさかバレエを侮辱する為ではないだろうか。コンスタンはそうとさえ疑った。
エレーヌがレッスンに来るようになって一週間。コンスタンは意を決してエレーヌに尋ねてみた。
「あの…エレーヌさん。ミリーナの事ですが」
「ええ先生、何かしら」
「あの子には全く見込みはありませんわ。正直、あの子に基本以下のつまらない事を教えている時間がとても惜しいのです。他の生徒達ももうあの子を疎ましく思っていると思います」
エレーヌはそれを聞いて、腕組みをして考えていたが。
「先生。午前中に時間はごさいませんか?」
「午前中?」
バレエ教室の生徒は全員学校にも通っているので、少女達のレッスンは午前中には無い。けれども午前はプロのダンサーのレッスンや舞台演出の仕事が入る事もあるし、コンスタンだって自分の時間も欲しい。
とはいえ、時間が工面出来ない事は無い。
「御時間がある時だけで結構ですわ。個人レッスン料は規定の三倍御支払いしますから。私の屋敷でミリーナのレッスンをしていただけないかしら。あの子、学校に行ってないので午前中は屋敷で寝てますのよ。ホホホ」