見習い庭師トマと新米菓子職人ブルーノ 第三話
翌日。
時間割も自分で整え宿題も全部自分で済ませ、伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートは自分の鞄を自分で持っていた。
そして、いつも遅刻ギリギリになって出て行っていたのに。誕生日以来、エレーヌは準備を始めるのが早くなっていた。
ただし、準備そのものはゆっくりと行う……つまり、以前は八時から身支度をして八時十五分に飛び出していたものが、七時から身支度を始め八時に出掛けるという按配だ。
そして今朝などはサリエルの方が準備が遅れていた。今までのエレーヌならそのままサリエルを置いて出発していたのだが。馬車の中にすら入らず、その前で大人しく待っている。
「遅れて申し訳ありません!」
そのサリエルが、鞄を手に玄関から飛び出して来ると。
「まだ時間はありますわ、慌てなくて結構ですのよ」
そんな気遣いまでする。
見送りのヘルダやディミトリは優しく、満足げに頷くだけだったが。サリエルからすれば気になって仕方が無い。
このお嬢様が正しいのか?世間一般の美意識からすれば、正しいのだろう。けれども……もしお嬢様が何かの劇薬のせいでこうなってしまったというのなら、それはそれで正しくないような気がする。サリエルにはそう思えた。
馬車の中でも、エレーヌは詩集などを読んでいる様子だった。
サリエルは何か大事な事を忘れているような気がしていた。象、ライオン、ゴリラ……違う……何だったか……
「あっ……!」
「どうかなさいましたの?」
サリエルの呟きに、エレーヌが顔を上げる。
「私、昨日ポーラと栗拾いをしていたのですわ!お嬢様、今年は栗拾いをなさいませんの?」
「あら……そういえば、もうそんな季節ですのね……そうですわね……去年はお父様が居らしたから、一緒に拾いましたけど。お父様はそういう細かい仕事をするのが大好きですから」
確かに。伯爵はたまに屋敷に居る時もロータリーの掃き掃除をしていたりする。
「ですが……今年はポーラにお任せしようかしら。貴女から……いいえ、帰ったら私から伝えますわ。ありがとう」
エレーヌは詩集に目を戻す。
何だろう、この寂しさは。模範令嬢エレーヌ?それはそれで何一つ間違っていないはずなのに。サリエルには、これが本来のお嬢様ではないように思えてならない。
学院に着いてもエレーヌの様子は変わらない。
「まあ……誰かしら、こういう事をなさるのは」
エレーヌは、ジョゼの席に誰かが悪ふざけをして置いた花瓶を手に取る。そこには一輪だけ菊の花が生けてあった。先日ジョゼが街で騒ぎを起こした事は、皆に知られていた。優等生のジョゼに対しては、やっかみの目も多かったのだ。
「お嬢様……?」
「花に罪はありませんのよ」
エレーヌは休日前から置かれていたと思われるその花瓶の水を替え、教室の隅の棚の上に飾りなおす。
ジョゼはエレーヌの誕生日前から休んでいたが、その後も数日休んでいた。そして先ごろ、急に隣国の姉妹校へ短期留学したという知らせが担任からもたらされた。
「優しくて明るい子でしたわね。またお会い出来る日が楽しみですわ」
「えぇ……」
サリエルも一瞬ジョゼの笑顔を思い出したが、それを何とか心の中から振り払う。ジョゼには本当に悪い事をしたと、サリエルは思う。
けれども自分の使命はお嬢様をお守りする事だけなので、ジョゼの事は忘れなくてはならない。サリエルは密かに、冷徹な表情で菊の花瓶を見つめる。
授業が終わる。エレーヌは自分の掃除当番を自分できっちりと終わらせる。サリエルは手伝わせてももらえなかった。図書室に居て欲しいと言うので、そのようにした。
仕方なくサリエルが電気工作の本を開き、内容に夢中になっていて、暫くして顔を上げると……向かいにいつの間にかエレーヌが座っていた。
「申し訳ありません!おっしゃっていただければ……」
「いいのよ、私がお待たせしたんですもの、電気工作に興味がございましたの?」
それから、静々と歩くエレーヌと連れ立ち、外で待っている馬車の元へ向かう……お嬢様は今日も満月サンドレースに参加せず、自分にも参加させなかった。
帰りの馬車の中。サリエルは密かに思う。やはり何か、物足りない。
それともう一つ。自分はまだ何か忘れているような気がする。それはとても大事な事だったような気がする。一体何だろう……何だろう……
屋敷についたエレーヌは、やはり自分の鞄を自分で持ち、使用人達にも行儀よく挨拶しながら、馬車を降りて自分の部屋へと戻って行く。
「私このまま今日の授業の復習を致しますわ。貴女も少し休んで」
「はい……あの、時間割と宿題は……」
「今日は自分でやりますわ。気にしないで」
当たり前の事を言いながら、エレーヌは自室に入りかけるが。
「そうですわ、ポーラに栗拾いの事、御願いしておかないと。ああ、いえ、貴女は休んで。私自分で伝えますわ」
代わりに行こうとするサリエルを遮り、エレーヌは制服のままいそいそと一階へ降りて行く。
ポーラは洗濯物を畳む手伝いをしていた。今日はメイド達の仕事が捗っていたようで、そう多くない洗濯物を四人ほどで、談笑しながら片づけていた。
そこへ急に女主人が来たので、皆は一様に緊張した。普段のエレーヌは厳しい主人である。
「ごめんなさい、ポーラに話があったのですけれど……宜しくて?栗拾いを御願いしようと思ったんですけど」
「あっ……はい!かしこまりました!」
「でも……折角皆さんで楽しくお喋りしてる所に、ポーラ一人だけ栗拾いに行っていただくのも、何だか気の毒ですわね」
エレーヌは苦笑いを見せる。伯爵令嬢がこんな表情を見せる事は滅多に無い。
その場のメイド達を見渡すエレーヌ。ポーラにもう一人つけてあげたいのだが、皆ベテランのメイドだ。栗拾いが楽しいという年でも無いかもしれない。
「そうですわ、私が参りましょう。栗拾い、御一緒させていただこうかしら」
エレーヌは本当に庭に出て、ポーラと栗拾いを始めた。
「お嬢様!もっと大きな実がありました!」
「まあ、本当!ふふ、私よりポーラの方がずっと上手ね」
幼いメイドを優しくエスコートするように、栗拾いに興じるエレーヌ。
エドモンなども詳しい事情を知らないので、最近の女主人は様子がおかしいとは思っていた。これではまるで模範令嬢ではないか。
「あの、お嬢様……この栗はどうなさるのですか?」
「すぐにいただきたい所ですけれど……涼しい所に一か月くらい置いておくと甘味が増しますのよ……でも折角拾ったんですから、後で私達二人で少しいただきましょうか!?ふふ」
「いいんですか!?とっても美味しそうで昨日も食べてみたいなってずっと思ってて、あっ……ごめんなさい、私……食いしん坊で」
「私も同じ気持ちですわ!じゃあジェフロワ……いいえ、ブルーノに頼んで焼き栗にしてもらいましょう、早速行きましょう、ポーラ!」
エレーヌは栗の入った篭を抱え、ポーラの手まで引いて去って行く。
そんなエレーヌの姿を、屋敷の外から見ている者が居た……灰色のコートを着た中年男……その男は、エレーヌとポーラが栗拾いに興じる姿を、道を行きつ戻りつしながら観察しているようだった。
男は、エレーヌが屋敷の建物の角の向こうに行き見えなくなると、伯爵屋敷から離れ、市街の方へと歩いて行く。
そんな男の姿を、屋敷の庭から見ている者が居た……庭師見習いのトマである。
「やっぱりだ。お嬢様が出掛けた時も帰って来た時も居たな、わざわざ服まで換えて。どこの誰だか突き止めてやるぞ」
トマは辺りに目を配る……エドモンは近くに居るが、聞けば反対されるかもしれない……このくらいの事は自分の判断でやってもいいだろう。
師匠が他の仕事に気を奪われてるのを確認して、トマは、伯爵屋敷の正門からこっそりと忍び出て、朝は黒いコートで来たが今は灰色のコートを着ている、その男を尾行して行った。




