十月のエリーゼ 第二十二話
「少し早いけれど…出来上がりましたので召し上がっていただけるかしら?」
「まあ。実は料理上手でしたのね、お母様」
「そんな訳無いでしょう。ほほ」
伯爵家の家族用ダイニングは、いつになく温かい空気が流れていた。
ここは普段は完全に無人で誰も近づかない。クリスティーナが来ている間は、母と娘がテーブルを挟み緊張感の中で食事をする。
けれども今日は母と娘が親しく並び、鍋をとり皿をとり、協力し合って夕食の準備をしている。
「ビーフシチューですのね」
「全部横でジェフロワに見ていていただきましたし、材料は良い物ばかりですわ」
エレーヌはスプーンも皿も二人分並べて置く。
「お母様、隣でいただいて宜しいかしら?」
「そうね、差し向かいでは照れくさいわね」
側仕えをしていたヘルダはそっとハンカチで目元を拭う。この母娘のこんなに温かな誕生日会を見る事が出来る日が来ようとは。
「いただきます!」
「食べられるかしらね?いただきます」
ビーフシチューとバゲットだけ。テーブルマナーも今日は無し。
「美味しいですわ!お母様!やれば出来ますのね!」
「何よ、ふふ。だって本当にジェフロワの言う通りに作りましたのよ」
ヘルダは密かに辺りを見回していた。この光景をサリエルにも見せてあげたい。きっと喜ぶだろうに。
「おかわりを頂きますわ!お母様」
「もう。無理しなくていいのよ」
「何をおっしゃるの!本当に美味しいですもの!」
まるで…母と娘のようだわ…いえ、母と娘なのだけど…ヘルダは思った。
いつもこんな風だったら良いのにと。
ごく普通の家の娘のように、立ち上がりおたまでシチューを今あいた皿にそのまま注ぎ足すエレーヌ。笑顔でそれを見守るクリスティーナ。
ヘルダは思った。どうか邪魔が入りませんようにと。
――ぼーん。ぼーん。ぼーん。ぼーん。ぼーん。ぼーん。
掛け時計の鐘が鳴り、六時を知らせた。
おかわりまですっかり平らげたエレーヌは、自分の皿に残っていたシチューを綺麗にバゲットで片付けると、鍋まで抱え込んで付着しているシチューをバゲットですくい取っては食べていた。
「伯爵令嬢が形無しですわねぇ。作った私は嬉しいですけど。まあ…たまにはいいかしらね」
「解っておりますわ。今だけですのよ、ここに座っている間だけ許して下さいな。ああ…もう無くなってしまいますわ…」
「とんだ十七歳になりましたわね。ふふ」
そこへ…ディミトリがやって来た。
「あの…お嬢様、どちらかの紳士が…正門の前までお越しだそうです、お嬢様と約束がおありだと申されているそうですが」
「紳士…?どちら様かしら?」
「それが…庭師見習いのトマが知らせて来ましたので…では一度御名前を伺って参りますので」
エレーヌは立ち上がる。
「まさか…わざわざ迎えに来たのかしら。いいわ。私がきちんと話さないと。大人ですものね。そうでしょう?お母様」
「あら…袖になさいますの?もう食事は済みましたし、デートならお出掛けになっても宜しくてよ」
クリスティーナは澄まして答える。
「私…解らないのですわ。自分がその方をどう思っているのか。自分がそんな気持ちなのに誕生日デートをするのは少々荷が重い気が致しますの」
エレーヌはまるで一端の恋愛小説の登場人物のようにそう言い、憂鬱そうに目を伏せる。
「評判の美男子で優秀な先生でいらっしゃるのですけどね…」
そうして一つ、溜息を漏らして。エレーヌはしずしずと、玄関の方へ向かった。
少し前。
伯爵屋敷の古いガレージ。そこには今誰も居らず、何もなかった。だが、その石造りの床は、ゆっくりと沈下して行っていた…およそ十メートルも沈んだろうか。
――ガタガタガタガタ…
地下には広いスペースがあるらしい。それは…古の帝国が、水道施設の中に潜ませた、水圧で昇降する大きなリフトだった。ストーンハート家の先祖はこの壮大な仕掛けを知らず、そこにある物を単に謎の石畳だと思い込み、それをそのまま床にして、倉庫として使うようになったのだ。
しかし、ここの地下には地上の倉庫部分よりさらに広い格納庫があったのだ。今、黒い鍔広の三角帽と黒いローブに身を包んだ、魔女としか形容しようのない少女は一人、いくつもの巨大な山車をリフトの上に移動させていた。
やがて全ての山車をリフトに載せ終わると、魔女は水門の開閉に使う、巨大なレバーを体全体を使って押し込む。
「んんーっ!んんん!」
レバーが倒れると、どこかで地下水の流れが変わった。
リフトはゆっくりと上昇して行く…魔女もレバーの近くを離れ、そのリフトに飛び乗る。
やがてリフトは元通り地上まで登る…巨大な像の山車。ゴリラの山車。ライオンの山車。カバの山車。巨大な小人の妖精の山車…そして椅子と飾りアーチだけが置かれた山車。
古い倉庫の扉は今はまだ閉じられていた。そして伯爵家の四頭立ての馬車は何故か、その倉庫の扉の前に置かれていた。いつもの御者達の姿は無い。
エレーヌは…淑女らしく、たおやかな足取りで屋敷の玄関ホールを出た…
しかし予想していた二輪馬車とマナドゥの姿は無かった。正門の外で待っているのだろうか?
エレーヌはふと、食事の後で鏡を見ていなかった事を思い出し、一人密かに頬を赤らめる。口の周りにシチューやパンくずでもついていたらどうするのか。一旦玄関ホールに戻り、物影でハンカチを取り出して頬や口元を拭う…大丈夫だろうか。
それからもう一度、玄関ホールを出てロータリーの方へ歩いて行く。
クリスティーナは玄関ホールの横の廊下の窓からそれを見ていた。勿論母として娘の交際相手がどんな人間か知りたいというのは当然だが、美男子というのもどの程度のものなのかにも興味がある。
ロータリーから、正門へ歩いて行こうかとしていた…エレーヌの足が止まった。
正門の方からやって来るのは、医師のマティアス・マナドゥではなかった。黒いインバネスコートに黒い山高帽を被り、分厚い丸眼鏡をして、大きなハンドルバー髭を生やした…自称、レアルの大学講師、オーバン・オーブリーだった。
エレーヌも忘れていたのだ。というより、元々覚える気も無かった。
この…粗忽者による下らない工作を全く評価していなかったエレーヌは、そのせいで自分の墓穴まで掘ってしまったのだ。
振り向けば窓の向こうで、実の母が…苦しげに腹を抱えてのたうち回っている…
「ふふ、は、ほほ、ほほ…なあに、あれ!ほほ随分…ユニークな…美男子ですのね!ほほ、ほ、ほほほ、ほほほ」
かなり離れているし、実際の耳には聞こえて来ないのだが。そんな母の嘲笑が、エレーヌの耳には確かに聞こえていた。
「エレーヌお嬢様ー!」
髭の紳士が後ろで呼んでいる。恐らく馬鹿みたいに手を振りながら。
エレーヌの顔が下から上へと真っ赤に染まって行く。
しかし、その髭の紳士を見つめていたのは、エレーヌとクリスティーナだけではなかった。
「エレーヌ様!!」
別の方向から呼ばれ、エレーヌは振り向く。あれは…魔女。魔女のような姿をした、小柄な…最近ずっと学院を休んでいた少女…あれはジョゼではないか。
何故ジョゼがここに?その姿は一体?エレーヌはそう思ったかもしれない。だがそんなジョゼの姿を今ここで見てしまっては、真っ青になるしかないという人物が居た。
「あ…あああ…あ…忘れて!!まし…」
髭の紳士は危うく叫びかけた。忘れていた。だけど今自分がこの人物を知っているのはおかしいから、叫んではいけない。
だけど…この人物を忘れていた事が、何かこの後お嬢様から大目玉をいただく残酷な結果に繋がってしまう気がした。
ジョゼは。明るく元気に叫んだ。
「エレーヌ様!お誕生日おめでとうございまーす!!今日は楽しいパーティにお招きいただきまして有難うございます!そちらは!?きっとレアルから来たピエロの方ですのね!」
エレーヌの元まで駆け寄って来たジョゼ。髭の紳士も追いついた。
「ピエロ…?一体どういう事ですの…」
「サリエルお姉さまが手配されましたのよ!お嬢様のお誕生日を、とっても派手に、楽しく盛り上げますの!」
怒筋を浮かべるエレーヌに、ジョゼは屈託無く答える。
エレーヌは腕組みをし…ゆっくりと、髭の紳士の方に向き直る。
「どういう事かしら…?」
「いえ…あの…」
まだ変装がバレていないと思っている髭の紳士は答えられなかった。
「こちらに準備が出来てますのよ!エレーヌ様、私、サリエルお姉さまと一緒に頑張って作りましたの!どうぞ!どうぞこちらへ!」
「あら…何かしら…とても楽しみですわね…」
「ああ、あの…エレーヌお嬢様、私はですね…」
ジョゼに導かれるまま、エレーヌと髭の紳士は古いガレージの方へ向かう。
「まさか…まだ私を晒し者にするつもりなのではないでしょうね…私…申し上げたはずですわ…私の誕生日など放っておいて下さるかしらと」
エレーヌのその声は髭の紳士にしか聞こえなかった。
「お…お待ち下さい…お待ち下さいお嬢様!」
粗忽者は変装も忘れて叫び、エレーヌを押しとどめようとし始めた。
「あらオーブリーさま、許可もなく乙女の身体に触れるのは紳士としてどうかしらねぇ?おどきなさい、そこを」
エレーヌは無造作に粗忽者を押しのけ、ジョゼに続いて古いガレージの横の通用口から中に入った。
「お嬢様!違うのです、これはその、誤解に基づく努力の結果であって、決してお嬢様に対する嫌がらせなどでは…」
サリエルも後から続く。
エレーヌは見た。
一体、この人物は何度同じ間違いを繰り返すつもりなのか?去年あれだけ叱ったのに何も聞いていなかったのか?自分がこの世で一番嫌いな事、それは人前で恥をかかされ、晒し者にされる事だと、何度も言って聞かせたはずなのに。
サリエルは去年もこんな山車を密かに制作し、誕生日の夜に庭に繰り出してみせたのだ。他のメイド達にも手伝わせて。
英雄物語を再現したというその山車は、赤ら顔の英雄と、二頭身の風船となった姫君、それに悪の親玉のヒドラとその周りの鬼達で構成されていた。
一体、誕生日の食卓の窓の外にそれを展示されて、どう思えというのか?
去年は。そう思った矢先に赤ら顔の英雄像が炎上し出した。燃え上がる炎は空に浮かぶ二頭身の御姫様風船に引火し、それを爆発炎上させた。
そうして、後にはヒドラと鬼達だけが残った。めでたしめでたし。
それが去年の誕生日にサリエルが見せてくれたドラマだった。
「エレーヌ様のお席はこちらですの!どうぞお座りになって下さい!」
ジョゼは得意満面の体で、エレーヌを椅子に案内する。それは伯爵令嬢が座るには少々粗末過ぎるように見える、小さな椅子だった。例えるならブランコの椅子のような。
「そう…私の席はここなのね…」
「安全の為シートベルトを締めさせていただきますわ!」
「シートベルト?」
「はい!楽しい御誕生日会の始まりですわ!」
ジョゼは飛び跳ねるように、ガレージの外へ駆け出して行った。
「…サリエル」
「…はい…」
サリエルは変装したままだったが、もう覚悟を決めて、そう答えた。一体どれだけ叱責されるのだろうか。もしかしてやっぱりクリスティーナと一緒にレアルへ行けとまで言われるのだろうか。どうすれば許して貰えるだろうか。
「何だか楽しそうな事をしていたみたいね…」
サリエルは顔を上げた。エレーヌは珍しく…苦笑いを浮かべていた。
「お嬢様…」
「まあ、貴女なりに何か考えていたんでしょう。絶望的にセンスが無いだけで、貴女の気持ちに偽りが無い事くらいは存じておりますのよ」
たちまちサリエルの両眼から涙が溢れる。分厚い丸眼鏡のせいで見えなかったが。
次の瞬間。ガレージの扉は大きく開き、伯爵家の四輪馬車はジョゼの鞭により発進した。
エレーヌも、サリエルも。何が起きたのか解らなかった。
馬車に引き続き、エレーヌが座る椅子を乗せた山車が動き出すまでは。
「な…何ですのこれは!!」
「お嬢様!!」
サリエルは立ち上がり山車に飛びつこうとしたが、間に合わなかった。エレーヌを乗せた山車に引き続いて殺到する動物達の山車に跳ね飛ばされ、サリエルは転倒する。
「きゃあああああああ!!」
そして、巨大なランプの魔人風船は空に浮かぶ…エレーヌが座っていた、小さな椅子ごと。そのロープはアーチのついた山車に結ばれていて…疾走する馬車に引かれ、伯爵屋敷の正門から駆け出して行った。
エレーヌ「久々の更新ラッシュですわ!評価を入れて下さっても宜しくてよ!」
サリエル「一言でも感想を入れていただけると…大変励みになります…」
ジョゼ「見に来ていただけるだけでも嬉しいですの!次回も是非来て下さいませ!」




