便所掃除のミリーナ 第一話
伯爵の屋敷には様々な使用人が居た。ベテラン執事も居れば新入りメイドも居る。
ミリーナは新入りではなかった。九歳でここに来て、もう五年目になる。
彼女はここに住まわせてもらう代わりに労働力を提供する、下級のメイドである。彼女にはサリエルなどが着るような揃いのお仕着せも与えられておらず、仕事と言えば農場の手伝いや使用人達の小屋での家事手伝いなどが中心だった。
そんな彼女にも一つだけ屋敷内での仕事がある。女主人である伯爵令嬢の為の、洗面所や浴室の掃除である。
屋敷内の洗面所は伯爵一家と来賓専用で、使用人達は離れの洗面所を使う事になっている。その離れの洗面所の方も、ほとんどミリーナが一人で掃除している。
彼女の髪はいつもボサボサだった。整えている時間もなければ、整え方も知らないのだ。前髪が伸びて目にかかってしまっていても、彼女は鋏を持っていない。
服は二着しかないものを交互に洗って着ているが、どうしても臭ってしまう。
彼女の生活は傍から見れば不憫なものだったかもしれない。
しかしミリーナ本人は明るい性格の人気者で、他の使用人達からは決して悪い扱いは受けていなかった。
「おはようございます!エドモンさん!」
「ようミリーナ、鼻の頭に何かついてるぜ」
「そばかすでしょ!知ってます!」
「ハハハ、あとで鶏小屋の掃除を頼むわ」
「じゃあトイレ掃除の次に行きますね!」
裏庭ですれ違い様に筆頭庭師のエドモンとそんな事を言い合いながら、ミリーナは楽しげにフワリと跳び、くるりと回った。
ミリーナは、二階の窓から自分を見下ろしている人影に気付かなかった。
「お嬢様、コレット・コンスタン先生がお見えになられました」
伯爵令嬢、エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートは自分専用のリビングの窓辺から裏庭を眺めていた。
「あの、お嬢様…」
「聞こえたわよ」
サリエルの二度目の呼び掛けで、ようやくエレーヌは振り向き、従者の控えの間の方にやって来た。
「応接にお通ししたのでしょうね」
「はい、それは勿論…」
暫くして。応接間にエレーヌが現れた。コンスタン女史は三十分くらい待たされていたが、この世界ではこのくらいは待った内に入らないだろう。
「お久しぶりですわ先生。御呼び立てして申し訳ありません」
「いいえ…いつもバレエ団の活動に御関心をいただきまして、誠にありがとうございます」
平たく言って、ストーンハート家はコンスタン女史が率いるカトラスブルグ少女バレエ団に、かなりの経済的な支援をしていた。
芸術活動には貴族達の支援が欠かせないのだ。
「私が先生の厳しいレッスンから逃げ出して以来かしら?」
エレーヌは三年前までコンスタン女史の元でバレエを習っていた。厳しい練習が嫌になり行かなくなったのだが。
「そうですわね」
コンスタン女史は恐縮したように肩をすくめる。それ以降もストーンハート家は貴重なスポンサーの一人だったのだ。
「先日、ローゼンバーク男爵のアンドレイ様とお会いする機会がありまして」
エレーヌは話を切り出す。ストーンハート家とローゼンバーク家は古来より所領が近い事もあり、関係が深い。
「カトラスブルグにも立派な劇場があるのに、首都レアルと比べてバレエがもう一つ盛んでない事は憂慮すべきだと、そんな話になりましたの」
「ですけど、宮殿のようには行きませんわ」
「勿論。それにしても程度というものがありますわ。如何かしら。一度、フルオーケストラと一緒に、盛大な祭典を開いてみたいと思いますの」
「それは…素敵ですが…そんな事が出来ますの…?」
「父もアンドレイ様も乗り気でしたわ」
コンスタン女史はかすかに身を乗り出した。
「素晴らしいですわ…そこに私達も参加させていただけるのね?」
「ええ…そこで私も。先生のバレエ団に参加させていただく事に致しましたの」
コンスタン女史はかすかに身を引いた。
「それは…大変光栄な事ですわ」
「勿論、私、一から練習致しますわ。それから公平なオーディションをして…主役を選ぶというのはどうかしら?ホ、ホ、ホ…」
エレーヌは気まぐれのように現れ、気まぐれのように去って行った。コンスタンはストーンハート家の応接間で、しばらく考え事をしていた。
伯爵令嬢が主役をやりたいというのは構わない。エレーヌ嬢は長身で見栄えもよく容姿端麗で、非常に運動神経が良かった。実際一時期はコンスタンもかなり期待していたのだ。
しかし、エレーヌはあまりにも我侭過ぎた。大変な目立ちたがりで言う事を聞かないし、気が向かないと練習に来なくなる。
今回の事でも、どこまで信用して良いのやら。最悪、令嬢がどうしても主役をやりたいと言い張った上、ろくに練習もせず、役を降ろす事も出来ずに本番を迎えたら…想像したくもない程の大惨事になるだろう…
「お嬢様、本当にバレエを再開なされるのですね?」
「何か含みがある言い方ね?サリエル」
エレーヌが珍しく鼻歌など歌いながら、機嫌よくバレエシューズなどいじっているので、サリエルは思い切って尋ねてみた。そうしたらこの返事である。
「いいえ…一時期は練習に行くのをとても嫌がっていらっしゃったので…」
「そうね。嫌だったもの」
「ではどうして…」
サリエルはそう尋ねかけて、エレーヌがいじっているシューズやチュチュが、だいぶ小さい事に気付いた。
「あの…お嬢様それは、お嬢様がだいぶ小さい頃の…」
「十歳くらいの頃のかしらね。そのくらいでしょう、多分」
サリエルの額を冷や汗が伝う。
この感じ。お嬢様が、何かとても悪い事を考えている。サリエルはそう思った。
「あの、お嬢様、一体何を…」
「何を?」
「あ…いえあの…その小さな頃のシューズやチュチュを、どうなさるのかと…」
「サリエル。いいから黙って、ミリーナを呼んで来なさい」
「えっ…?」
「ミリーナよ。聞こえないの?」
サリエルは動揺していた。
「申し訳ありません。ミリーナというのは、あの…」
「そうよ!チビでそばかすだらけで痩せっぽちで汚いボサボサの髪のミリーナよ!今すぐ呼んでらっしゃい!ホーッホッホッホ!!」
伯爵令嬢はそう言って甲高く笑った。
「あの…何か粗相がありましたでしょうか…お掃除に…」
程なくして。ミリーナはエレーヌのリビングに呼び出された。
呼び出された時点で、ミリーナは泣きそうな顔をしていた。普段は決してそんなおどおどしている娘ではないのだが、ミリーナは自分の服や体はとても臭いので、こんな所に居てはいけないと思っていた。
「何を言っているの?いい?お前は明日から、私と一緒にコンスタン先生のバレエ教室に通うのよ」
傍らのサリエルは驚いた。ミリーナには伯爵令嬢が言っている事の意味さえ解らなかった。
「お嬢様…それは…」
酷い仕打ち、と言い掛けてサリエルは言いよどむ。しかしサリエルは思いなおす。言うべきだ。
「お嬢様!それはあまりの仕打ちです、ミリーナは悪い子ではありません、農園の手伝いやトイレの掃除を毎日献身的にやっております!彼女はとても役に立つ子です!ですからどうか、そのような気まぐれは…」
「ふーん…伯爵令嬢の家のメイドともなると、言う事が違いますのね。貴女、ミリーナはチビで髪もボサボサで臭いからバレエなんか出来ないとでも言うつもり?さすがですわ。ホホホ」
「そんな…私、そのような事は申し上げておりませんわ!」
「チビでボサボサで鈍くさくてバレエなんか見た事も無いミリーナだからいいのよ、ホーッホッホッホ!私一人でコンスタン先生の教室に行って御覧なさい、私が教室で一番下手だったら、貴女も困るでしょう?」
エレーヌは珍しく上機嫌で饒舌だった。サリエルは開いた口を塞げずに居た。
「まあ、私はすぐ教室で一番上手になるでしょうから。そうしたらミリーナも大好きなトイレに帰してあげるわ。さあもういいわ、二人共出て行きなさい。ホッ、ホッ、ホッ…」