十月のエリーゼ 第二十話
辺りはだいぶ暗くなっていた。エレーヌは岩井戸を周囲の草葉で隠させる。
「その手枷と鎖。貴女にはお似合いですけど、一緒に居る私が恥ずかしいから外して下さるかしら?」
「申し訳ありませんお嬢様…ですが鍵が無いと」
「情けないわね。そのヘアピンを貸しなさい」
エレーヌはサリエルの髪からヘアピンを抜き取ると、ほんの数秒で手枷の鍵を二つとも開けてしまった。
「それでお嬢様…お着物は…」
「仕方ないでしょう!うううう、寒い…屋敷の周りは青薔薇騎士団に固められているし…とりあえず鶏舎が近いわね」
「ですからお嬢様、どうぞこちらをお召しになってはいただけませんか、その…」
「は?この私にずぶ濡れのお仕着せを着ろとおっしゃるの?有り得ませんわ」
「しかしその…そのお姿では…」
「とっとと移動するわよ!来なさいあんぽんたん!」
暗がりの中、ブドウ畑を通り、二人は鶏舎まで問題なく移動した。しかし。
サリエルにはもう、何が何やら解らなかった。勿論何とか事情を把握してお嬢様の役に立ちたいとは思うのだが…
エレーヌは取りあえず鶏舎にあった雨合羽を羽織り、寒そうに震えながら嫌がる雌鳥を抱え込んで何か考えている。
サリエルにしてみれば。この混乱の前の最後の記憶はとても平和なものだったのだ。珍しく機嫌の良いお嬢様に日光浴に誘われ、バルコニーで心地よく転寝していたはずが…
気がつけば地下牢に磔にされ閉じ込められていて、怪人の餌食にされる所だった。だけど急に怪人が居なくなったので、石垣を引き抜いて脱出した。
それで怪人が戻って来るのを待っていると果たして怪人が戻って来て、襲撃したけれど討ちもらし、そこにクリスティーナ奥様が現れて。
その後地下室の出口が外から閉められ…奥様はお嬢様がやったと言うけれど、自分は怪人がやったと思う。
それから、奥様にレアルに連れて行くと言われ、お嬢様とはお別れなんだと思って、そこから記憶が曖昧になり、気づいたら外に居て…そうだ!
「お嬢様!お嬢様!奥様が私をレアルに連れて行くとおっしゃるのです!王宮…」
サリエルはエレーヌに掴みかかる勢いでそう言った。実際にはサリエルの手は、エレーヌの手を掴む直前で止まってしまった。
エレーヌはぼんやりとサリエルを見ていた。
「それで?」
「あ…いえ…私は…この屋敷にこれからも置いていただきたいのですが…」
「…そう」
エレーヌの答えはそれだけだった。
やっぱりお嬢様、興味無いのですね。サリエルはそう思った。
エレーヌは。サリエルに背中を向けた。
「本当に行きたくはないの?国王陛下に御仕え出来るらしいわよ?」
エレーヌは冷たくそう言い放つ。
サリエルは思い出していた。そうだ。お嬢様とお別れしないといけないんだと思ったら、とにかくお嬢様に会いたくなって、それから…やっぱり思い出せない。
「…何黙ってんのよ」
「…すみません」
魔法がかかった。
「なにだまってんのよう!」
放り投げられた雌鳥が悲鳴を上げ宙を舞う。エレーヌは、いや突然何かの力によってエレーヌでは無くなってしまったそれは、サリエルに掴みかかっていた。
「あたくしエレーヌよ?なんでだまってますの?へいきなの?へいきなわけないでしょ!なんとかいいなさいばかサリエルばかサリエル」
突然の…幼児退行。そこに居たのは幼児退行したエレーヌだった。ぼろぼろと大粒の涙を溢しながら、サリエルの耳と言わず鼻と言わず掴みかかって来る。
見た事が無い。こんなエレーヌ見た事ある訳がない。あまりの事に。サリエルはただ硬直する事しか出来なかった。
「痛い…痛いです…お嬢様…」
「あたくしのほうがいたいわよう!ふええええ!あしたはなんのひだかしってますの!?あたくしたんじょうびですのよ??たんじょうびってすてきなおたのしみのひとちがいますの?!ふえええええ」
駄々っ子となってサリエルの頬を引っ張り、髪を引っ張り、首にしがみつく。五歳がやるなら可愛いと笑っていられるが、明日十七歳になるエレーヌにやられると、大きな狼犬に本気でじゃれつかれるのと同程度には痛いし怖い。
しかしエレーヌは、突然幼児退行したのと同様、突然正気に戻った。魔法が解けたエレーヌはサリエルから手を放し、代わりに鶏舎の床に顔を伏せる。
「私、自分に友達が居ない事ぐらい理解してますわ。誕生日なんて放っておいてくれたらいいのよ。そもそも私、誕生日は嫌いですわ。忘れもしない六歳の誕生日。あの日、あの女は言ったのよ。貴女が六歳になったから私は家を出ると」
サリエルもよく覚えていた。あれは自分が来て半年経った頃の事だった。エレーヌ様は凄く泣いていたけれど、サリエルの前ではすごく無理をした。
私、平気なのよと。サリエルが居るから寂しくないのよと。サリエルの前に居る時だけ、すごく頑張って、涙をこらえて、一生懸命サリエルと遊ぼうとした。
当時のエレーヌはちゃんとサリエルが両親を失っている事を理解していて、だから自分も母が出て行ったくらいで泣いてはいけないと考えていたのだ。
それでも…自分が六歳になったせいで母が出て行ったと考えるようになって以来。エレーヌは誕生日が嫌いだったのだ。
「話がそれたわね。お母様の提案の件は…」
サリエルは今、突然の嬉しさを噛み締めていた。何年ぶりだろう?エレーヌがこんなに本音を話してくれるのは。何年ぶりだろう。エレーヌが昔の話をするのは。サリエルは本当はもっとエレーヌと昔の話をしたいのだが、エレーヌは事の他、昔の話を嫌うのだ。
「聞いてますの?ぼんやりしてるんじゃないわよ」
ぼんやりしていたサリエルは、既にエレーヌが居住まいを正している事にも気付いていなかった。サリエルも慌てて居住まいを正し、女主人の次の言葉を待つ。
「貴女の気持ちもあの女の気持ちも関係なく、絶対に許しませんわ」
エレーヌはそう、言い放った。
「お嬢様…!」
感極まったサリエルはエレーヌに抱きつこうとした…が、そのままエレーヌに巴投げを掛けられ三メートル程吹き飛び、藁敷きの上に落ちた。鶏達が一斉に騒ぐ。
「何懐こうとしてるのよ、気持ち悪いわね。貴女のようなすかぽんたんを国王陛下のメイドに差し出すなんて、ストーンハート家の御家存続の危機ですわ。あの女どうして自分が嫁いだ伯爵家を取り潰したいのかしらね。おわかり?…ところで、屋敷の様子がおかしいわね」
エレーヌも、立ち上がったサリエルも、鶏舎の窓から屋敷を見た…屋敷を囲んでいた青薔薇騎士団が居なくなっている。
その様子を見て、エレーヌは暫し、沈思黙考していたが。
「封鎖は解かれたのだから、実質勝利と言っていいわね。但しこの状況は後味が悪くもありますわ」
「あの…どういう事でしょう、お嬢様?」
結局サリエルは、クリスティーナが一度帰った事も、その後で武力介入して来た事も知らないままだった。
「行くわよ」
エレーヌは鶏舎を出て、普通に屋敷の方へ歩いて行く。
イブニングドレスをきちんと着たエレーヌと、換えのメイドドレスをきちんと着たサリエルは、家族用リビングに居た。エレーヌはソファにきちんと座っていて、サリエルはその後ろに控えている。
水浸しのクリスティーナはその前に立っていて、深い溜息をついた。
「もうね。何から申し上げたら良いのやら」
あの後屋敷から急いで応援を連れて戻ったクリスティーナは、自らも胸まで水に浸かってたいまつを掲げ、捜索を手伝っていた。
青薔薇騎士団の動ける者全員とディミトリ、エドモン、ヘルダ、他にも数人の屋敷の人間もあの地下通路に入った。ストーンハート屋敷の地下通路の存在は、かなり多くの人間の知る所となった。
皆必死で二人を探していたのである。特にあの水路の中を。
その二人が、人気の耐えた屋敷の裏口から難なく自分の部屋に戻り、きちんと着替えて、何の騒ぎですの?とでも言いたげな顔をして、リビングで澄ましているのである。
クリスティーナはがっくりと膝をついた。
「おおい!居たのか、お嬢様は!」
外でエドモンの叫ぶ声がした。
「リビングにいらっしゃった!サリエルも無事だ!」
また別のどこかで、ジェフロワが叫ぶ声がした。
水浸しの青薔薇騎士団の面々は、肩をすぼめ、一人、また一人と玄関から退出して行く。
リビングの入り口から、執事長ディミトリが二歩進み出し、穏やかな声で言った。
「私共は使用人の身に過ぎませんが…さすがにこの度の騒ぎにつきましては、奥様とお嬢様…双方から何らかのお言葉を賜りたいと存じます」
筆頭庭師エドモン、料理長ジェフロワ、メイドのヘルダ、その他…屋敷の使用人達も、リビングの入り口に集まって来ていた。水浸しの者も多い。
エレーヌは立ち上がり、クリスティーナの元に歩みより、少し屈んで、その母の手を取った。クリスティーナは娘の手を借り、立ち上がる。
それから二人は、使用人達の方に向き直り…
「お騒がせして誠に申し訳ありません」
「ご心配をお掛け致しまして本当に申し訳ありませんでした」
深々と、頭を下げた。
――どうして奥様とお嬢様が頭を下げなくてはならないのかしら…
悪いのは怪人ですのに。
サリエルは一緒に頭を下げながら、そう思っていた。
伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートの誕生日前日に勃発した親子喧嘩は、屋敷の全ての者達だけでなく、周辺の人間まで巻き込んでいた。
エレーヌが発煙弾を仕掛け、クリスティーナが窓を破壊した事により、屋敷からかなりの煙が立ち昇ったのである。
「勘弁してくれよ、去年も来たよな、俺達」
「本当に申し訳ない、今年は火事にはなってないんだ、すまない」
遠くの塔から煙を見てやって来た、市の消防隊に謝罪したのはエドモンだった。消防隊の馬車は屋敷のロータリーを回り帰って行く。




