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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない  作者: 堂道形人
十月のエリーゼ

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十月のエリーゼ 第三話 *

 鍛冶屋通りには鍛冶屋の助手を務めるような若い男達が、軽い憂さ晴らしをする為の一杯飲み屋が何件かあった。どれも庶民の為の気の置けない店だ。

 マティアス・マナドゥは収入的にはここに来る階層の人間ではなかったが、この辺りの雰囲気が好きで、たまに往診の後で訪れていた。


「おおマティアス!往診の帰りか?遅くまでご苦労なこったな」


 小さな扉を開けるなり、煙草の煙と薄明りと共に、ひび割れたような銅鑼声が店の中から飛んで来る。


「モーゼスさん、背中の痛みはとれましたか?」

「ああ、先生の言う通りにしてるってば!」


 店内の男達の笑いが洩れる。


「さあ入って」

「先生、恥ずかしながら俺は今一文無しで…その…お詫びはしてえんですが…」

「じゃあ代わりに私の盃を受けていただきます。ご主人、私はいつものを、この人にはシードルを半パイント」


 狭い店内には七、八人ばかりの客と二人の店員が居た。みんな男だ。客のほとんどは昼間鍛冶屋でこき使われているような男達で、日々重い物を持ち上げ、振り回してる連中なので筋骨隆々である。店の名前も『鉄と炎の合間』だ。

 店員は老人と若者のコンビで、顔が少し似ている。祖父と孫だろうか。


 客用のスペースにあるのは上に板を置いた樽だけで、椅子は無い。カウンターにも椅子は無く客は立ったまま、何某かつまみながら酒を飲む。


 ナッシュは店の隅で店内をきょろきょろと見渡していた。マナドゥはカウンターで受け取って来た飲み物をナッシュの所まで持って来る。


「あ…すみません旦那」

「あまりこういう店に来ないんですか?」

「いえ…俺は農場の人間なんで…職人達の店には不慣れなだけで」

「ふーん、結構勉強してるんですね」

「へ?」

「ああ、いえ…」


 マナドゥは黒サンブーカのグラスを口にし、傾ける。真っ黒な液体に青い泡の立つ、薬草臭の強い奇抜な酒である。


「なんか…俺の方が御馳走になってすみません」


 ナッシュはそう言いながらも、シードルに口をつける。甘みがありアルコールも軽いリンゴの炭酸酒だ。疲れが取れ渇きも癒えると、労働者にも人気がある。


「貴方が伯爵令嬢を侮辱するからなのに、何でこうなるんですかね」

「…先生、本当は腹が立ってるんじゃないですか?愚痴を言いたい事もあるんで、俺を誘ってくれたんじゃないんですか?」

「まだ言うんですか貴方は…エレーヌさんの何がいけないんですか?」


 ナッシュはシードルのグラスに浮かぶ泡を見つめていた。


「そうだなあ…身寄りを亡くしたポーラがあの屋敷に入れたのは悪い事じゃねえんだが…でも何で入れたかって言うと、前に勤めてた子が意地悪をされた挙句、追い出されたからなんですよ」


「それは…本当なら酷いですね」


「そうでしょう?仕事熱心で明るいいい子だったのになあ。今頃どうしているやら…その子だって身寄りが無いから伯爵様が養っていたのに。本当に酷いですよ」


 マナドゥには十歳年下の妹が居てコンスタン先生の所でバレエを習っている。先日の芸術祭の大舞台にスズメの一羽の役で出た妹を、彼も二階の後ろの方の席で見ていた。


「コックの話も本当だよ、伯爵家のコック見習いだったそいつには、二人の弟と四人の妹が居て、そいつの腕一本で養ってやらなきゃいけなかったんだ。それなのに、態度が気に入らないとか何とか、そんな理由でクビだってよ!人間のする事じゃないよ、本当に」


 マナドゥは妹にどうしてもとせがまれて、バルタザールの店に食事をしに行った事がある。

 妹がどうしても食べたいと言っていたオムレツは意外にも庶民的価格で、それでいてバルタザールの店のどんな料理にも引けをとらない出来栄えだった。

 その味にすっかり魅了されてしまった兄妹は、今も月に一度は店に行く。


「そんな事をする人には見えないんですよねぇ」


「それはきっと、先生は伯爵令嬢と言っても所詮は他所の家の小娘だと思っているからさ。でもポーラ達にとっては、自分の生活を握っている女主人なんだ。逆らう事もたしなめる事も出来ないんだから、たまったもんじゃないよ」


 調子の出て来たナッシュは、シードルで喉を潤す。


「だけどサルヴェールさんは、お嬢様の事が大好きですよ」


 マナドゥはこの店では彼しか飲まないその酒に口をつける。


「…誰です?それは」

「いつもお嬢様と一緒に居るメイドさんですよ、お嬢様と同じくらい背の高い…」


 ナッシュは一度その人物に殺されかけている。ナッシュとしても知らない訳はないのだが。


「ピンと来ねえなあ…メイドはたくさん居るし、俺は屋敷の人間ではないから」

「…そうですか」


 ナッシュはさらにシードルをあおる。グラスは空になってしまった。


「いくらシードルでも、そんなに早く飲んでは駄目ですよ」

「こりゃあ美味いや。先生、俺はこんな美味い酒飲んだ事が無かったよ。ああ、俺はその…貧しい庶民なもんで…」


 少なくともこの辺りでは、シードルは貧しい庶民の味方である。


「先生、もう一杯恵んでいただく訳には…」

「いい加減にしなさい!お嬢様の悪口を言うから説教しようと思って誘ったのに」

「冷てぇなあ…こんな美味いんだなあシードルって…」

「…貴方もしかして、あまり強くないのでは…」


 ナッシュは足に来るという程ではないが、少し酔いが回った様子で喋り出す。


「先生ねえ!御願いしますよ、お嬢様に謝れってんなら、いくらでも謝りますから、ポーラに間違いが無ェように診てやって下さいよ、御願いしますよ」

「間違いも何も、あれは本当に心配が無いんです、初めて親になった夫婦を大慌てさせる為の神様の悪戯みたいな病気です、普通は赤子の時にやるんです」

「そんな病気に、大きくなってからかかるものなんですかい!?やっぱり俺ぁ心配で…ねえ、今からでも屋敷に戻りませんか」

「大きくなってるんだから尚の事大丈夫です、自分で水も飲めるし万一どこか痛んだら自分で言えます、水枕だって自分で換えられます」

「なあ先生、やっぱりもう一杯だけ」

「もういいです、帰りなさい貴方は、ほら!足に来ている!」



 マナドゥは医師としても紳士としても責任を感じていた。この人物にはシードルなど飲ませてはいけなかった。

 肩を貸す訳にも行かないその相手をどうにか馬車の助手席まで誘導し、マナドゥは運転席に乗る。


 今にも眠ってしまいそうなナッシュに盛んに声を掛けながら、マナドゥは伯爵屋敷へと急ぐ。


「先生ねェ…御存知ですかい…あの伯爵令嬢!今月七日が誕生日なんですってよ!へへ、なのにね、誕生日の予定が何にも無いんですって!何にも!…ねぇ?あの女が好かれてるか嫌われてるか何て、誰の目にも明らかでしょう…」


 とりあえずナッシュに眠り込まれるよりはマシなので、マナドゥは生返事をしておいた。長屋通りからブドウ畑へ…そしてようやくナッシュに声を掛けられた最初の場所に戻って来た。


「歩いて帰れますか?それともどこかまで送りましょうか?」

「いやあ、ここで結構…先生、本当にポーラは…」

「大丈夫です!何度も申し上げてるでしょう!明日にも熱は下がってますよ!」

「そうですか…すいません。おやすみなさい、先生」


 ようやくナッシュはそう言って、振り返る事なくブドウ畑の間を、どこかに歩み去って行く。

 マナドゥは一度馬車で去る振りをしておいて、一人で戻って来た。そしてナッシュが伯爵屋敷の通用口から敷地へ戻って行くのを見届け、ようやく帰途についた。

:.(ヽ´ω`)::作者です。いつも説明不足で解りにくくて面倒くさい拙作を御覧いただきまして誠にありがとうございます。






 ↓




 マナドゥさんはどんなつもりなのでしょう?

 マナドゥさんの目線から物語を見ると…いつものようにエレーヌから帰れと言われたんだけど、変な時間稼ぎもされました。

 手間を終えて帰ろうとしたら妙な男に呼び止められた…と思ったらエレーヌじゃありませんか。こんな変装をする為に時間稼ぎを?一体何の為に?

 話を聞いてみると。ナッシュ(エレーヌ)はポーラの事が心配だと言う。

 それが聞きたくて、わざわざ変装してこんな所で待っていたのか…一体エレーヌさんは何故こんな事をするんだろう。そう思っていたら。

 ナッシュ(エレーヌ)は、今度はエレーヌの悪口を言い出したではありませんか。


 この前もそうだったけど…何なんだこの人は。面白いぞ、何だか面白い、自分の変装が上手く行ってると思い込んでいるみたいだし。マナドゥさんはそう思ったようです。


 ただ、マナドゥさんもエレーヌがまさかコップ一杯のシードルで酔っ払うとは思っていませんでした。


 この作品の世界は19世紀末頃の欧州、特にフランスあたりによく似た架空世界でございます。

 マナドゥさんは虹彩認識能力で、このナッシュ君の正体をエレーヌだと知った上でアルコール飲料であるシードルを与えております…これは現代日本に於いては犯罪行為ですが、作品世界の中では特にそういう事はありません。

 しかし、少女を酩酊させてしまった事は医師としても紳士としても恥であると、マナドゥさんは思ったようです。


 エレーヌもオルフェウス編第五話でもシャンパンを口にしています。恐らく普段のディナーにはワインも添えられるのでしょう。しかしそこはお嬢様。安酒に対する耐性はありませんでした。

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