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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない  作者: 堂道形人
十月のエリーゼ

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十月のエリーゼ 第二話

 屋敷の前のロータリーには、一台の二輪馬車が停まっていた。



「心配ありません。お嬢様は適切な処置をなされたと思います」


 青年医師のマティアス・マナドゥは聴診器を離して言った。

 エレーヌは用意していた言葉が引っ込んでしまったかのように、一瞬停止していた。傍らのサリエルは安堵の溜息をつく。


「突然の高熱でしたので…何事も無くて良かったですわ…」


 横たわっているのは新人メイドのポーラだった。40度の高熱を出したのだ。

 明日ダニエル医師を呼びに行かせますと言った執事長ディミトリを人殺し呼ばわりしてまで、すぐにマナドゥ医師を呼びに行かせたのはエレーヌだった。


「それでこの騒ぎは何でしたの?また原因不明だなんておっしゃらないでしょうね?私はダニエル先生をお呼びするよう申し上げましたのよ」

「あの、お嬢様は高熱の原因が知りたいと申しております」


「ポーラさん、二日くらい前から調子悪かったんじゃないですか?」


 マナドゥは患者に問いかける。小さな患者は小さく頷いた。


「高熱以外の症状がなく、どこも特に辛くない…そうですね。もしかすると後で湿疹が出るかもしれませんが、数日以内に消えますので心配しないで下さい」


 マナドゥはそう言って聴診器を外す。


「あら本当に診察はこれで終わりですの?ダニエル先生より手抜きですのね」

「お嬢様は今後どのように看病すれば良いのか知りたいと申しております」


「頭を水枕で冷やしながらきちんと休ませ、水分をしっかり摂らせる。既にそうしてらっしゃるようですので私から申し上げる事はありません」


 マナドゥは聴診器や体温計を片付け、鞄を閉じる。


「それなら貴方は用済みですわ。せいぜい処方箋でも書いて下さるかしら」

「熱冷ましはお持ちですね?患者が辛そうなら与えて下さい。新しい処方箋は必要無いですよ」


 彼は余計な薬は出さない主義だった。例え相手が大金持ちでも。


「処方箋すら書いて下さらないの?それではダニエル先生以下ですわ」

「お嬢様はポーラは本当に大丈夫ですのと…」

「いちいち訳すんじゃないわよ!」


 エレーヌは傍らのサリエルの後頭部を履いていたスリッパで引っ叩く。

 サリエルはうずくまる。


「何が可笑しいんですの」


 エレーヌは笑いを堪えるマナドゥに、むっつりと言った。


「すみません…本当に仲がお宜しいなと。羨ましいくらいですよ」


「…どんな目をしていたらこれが仲睦まじく見えるのかしら。医者の目が節穴では都合が宜しくなくてよ?」


 マナドゥはそれには答えずに、後頭部をさすりながら自分を見上げているサリエルに言った。


「サルヴェールさん、緊急の時には先ず自分が落ち着くのが肝要ですよ…そうでないと、折角習った知識も技能も生かせません」


「申し訳ありません…私、あまりの熱さに一瞬で気が動転してしまって…」


 サリエルはポーラに聞こえないように声を落とし、俯いて言う。


「私はもう寝かせていただきますわ。マナドゥ先生。会計はきちんと済ませていただけるかしら」

「今日はもう遅いので、また今度にさせて下さい」

「おだまりなさい。私が会計を済ませろと言ったら黙ってそうなさって頂きますわ!いい?ちゃんと領収書も掛かった費用別に明細にして書くのよ?」


 エレーヌはそれだけ言うと、さっさと二階へと上がって行ってしまった。



 急な往診で呼ばれた挙句、普段は後で助手に任せるような領収書をその場で書かされたマナドゥは、それから15分程後になってようやく伯爵屋敷を離れられた。


 さて。馬車で屋敷の門を出て、伯爵屋敷とぶとう畑の間の道を進んで行くと…行く手でこちらに手を振る者が居る。

 それは大きな帽子を被り、少し大き目の上着を着た、黒髪に髭面の人物だった。


「御呼び立てして申し訳ねぇ、あんた今、そこの屋敷から出て来たろう?」


 その『男』は見た目によらぬ高めの声で言った。


「どうかなさいましたか?」

「いや、俺はこのへんの…ナッシュという者だが、そこの屋敷に勤めてる、ポーラって子の知り合いでね。彼女が倒れたって小耳に挟んでよ…あんた、何か知らねえかなあ?屋敷の人は、教えてくれないんだ」


 マナドゥは三秒くらい、考え込んでいたが。


「ええ…私が彼女の診察の為に呼ばれた医師です。マティアス・マナドゥと申します。彼女は確かに高熱を出しましたが、大丈夫ですよ」


「なんと、先生だったのか。高熱って何度くらいですかい?」

「40度を超えていますが」

「何だって!そんな熱を出して、本当に大丈夫なのかい!?入院は!?先生は帰っちまって大丈夫なのか!?」


 ナッシュはおろおろした様子でそう言った。マナドゥはまた三秒くらい考え込んだ。ナッシュは答えを待っていた。


「大丈夫ですよ。この屋敷の女主人…ストーンハートさんが適切な処置をされておりましたから」

「あの高慢ちきな伯爵令嬢かよ!先生、あれは酷い女なんだ、意地悪で冷酷で我侭なんだから、あんな女に任せて安心なんか出来るものか、本当に!頼むよ、屋敷に戻ってポーラの様子を見てくれよ!」


 マナドゥは今度は完全に停止したかのように、たっぷり十秒ほど考え込んでいた。ナッシュはやはり、マナドゥの返事をじっと待っていた。


「ポーラさんの病気はほとんどの人が乳児期にかかる、極めて予後の良い病気です。あの年でかかる人は珍しいですが全く心配はありません」


「そ、そうなのか?本当に?」

「ええ。熱も二日で下がります」

「そうか…それならいいんだ…呼び止めて悪かった。じゃあ、お気をつけて…」


 ナッシュはそう言って頭を下げた。

 マナドゥはまだ停止していた。ナッシュは一度頭を上げかけたが、マナドゥがまだこっちを見ていたので、また頭を下げた。


 マナドゥは堪えていた。吹き出しそうになるのを。



 世の中には変人と呼ばれる種類の人間が居る。実はマナドゥもその一人だった。

 通常、人は他人を顔の造形や体格、着ている服などで区別するのだが、マナドゥは人間の目の瞳孔の周りの色のついた部分である『虹彩』で認識する。

 これは大変特異な能力なのだが、マナドゥ自身は大人になるまで周りの人間は皆そうしているのだと思い込んでいた。

 それがどういう事かというと、マナドゥの目には、このナッシュと名乗る人物の正体がはっきりと見えていた。

 ナッシュのぼさぼさの前髪も、マナドゥの虹彩認識を欺く事は出来なかったのだ。



「貴方の私に対する用は済んだのかもしれませんが、私が貴方に用が出来てしまいました。貴方の伯爵令嬢を侮辱する言葉は聞き捨てなりません。私に騎士道の嗜みはありませんが、男として許せない」


 マナドゥは語尾に怒りを滲ませてそう言った…必死に、笑いを噛み殺しながら。


 ナッシュは慌てた。

「待ってくれ!侮辱とか何とかじゃなくてその、結構皆言ってるというか…い、いや、先生も見たでしょう??散々失礼な事も言われたんじゃないですかい??」

「皆と言うのは誰の事ですか!私が何を見て何を言われたと?言い掛かりも甚だしい!君は一体どこの何者なのだ!本当にポーラの身内ですか!」


 マナドゥは馬車から降りる。ナッシュは頭を下げながら後ずさりする。


「先生、いや、ポーラはその、関係無いんだ、あの子はただ両親を亡くした可哀想な子で俺はそれを知ってるだけで…あ、あの子だって酷い仕事をさせられて病気になったんじゃ…あの伯爵令嬢、気まぐれが原因で今年だけでもコックとメイドを一人ずつクビにしてるらしいし…」

「尚もお嬢様を侮辱するのですか!私は紳士のつもりですが、紳士なればこそ許せない事もありますよ!」


 ナッシュはどんどん後ずさりをする。マナドゥは肩を怒らせて追い掛ける。


「待ってくれ先生、悪かった、その、謝るから」

「私にではない!ストーンハートさんに。エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートさんに謝罪なさい!」


 そこまで言ったマナドゥは堪えきれず横を向いて軽く吹き出す。ナッシュはそれに気づかず、ますます深く頭を下げた。


「わ、解りました!え、えーと、ストーンハートさん、申し訳ありませんでした」

「気のない謝罪ですね」

「そんな…!先生、後生だ、もう見逃してくれ!」

「いいえ、この怒りは…そうですね。一杯奢ってくれるぐらいの事をしていただけないなら、許せそうにないですよ…鍛冶屋通りに行きつけの店があります。そこで黒サンブーカでも御馳走してもらいましょうか。さあ。助手席に乗りなさい」

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