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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない  作者: 堂道形人
側仕えのサリエル

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側仕えのサリエル 第十三話

 大きな雨合羽を着た人影が教会通りを走る。

 雨は小降りになりつつあったが、先程まで降っていた雨量を考えれば、中身が誰か見えないような、大きな雨合羽を着た人間が走っていても不思議は無い。

 だから陸軍兵士達も、雨合羽を着たその人物が目の前を走り抜ける時に、


「大変ですわね、ご苦労様です」


 と、若い女性の声で言っていて、合羽の隙間から学院の制服がちらりと見えていたら、それが誰かなど気にはしない。生徒が忘れ物でも取りに来たのだろう、と。



 一方、学院では正当な理由と手続きが無い限り、下校時間後の再入校は禁じられている。しかし今度は雨合羽をしっかり締めて、少し年寄りのような声色で、


「参っちゃうわ、急な雨で」


 などと言いながら通り過ぎた人物が居ても、門番も用務員の誰かだと思ったようだ。



 正門から堂々とホールに入ったサリエルは、合羽を物陰に隠すと、何食わぬ顔をして廊下を歩いて行く。ただし、誰にも顔を見られぬように。今日はサリエルが学院に居る事を見られるのはまずい。まあ他の生徒は殆ど下校済みなのだが。


 サリエルの行動は簡素で迅速だった。理科学部教員室まで来た彼女がしたのは、入り口の扉の取っ手に袋をかける事だけだった。中にあるのはエレーヌの四年生の物理のノートと、廊下に落ちていましたという匿名のメモ書きだけである。


 玄関ホールに戻ったサリエルは、先ほどの合羽の内側に隠してあった別の合羽を取り出し、前の合羽はその下に隠す。幸い雨はまだ残っていた。今度は学院の生徒である事は解るものの、フードで顔は見えにくい合羽を着て、堂々と退出する。




 その夜。

 ストーンハート家の馬車はようやく帰って来た…馬車は伯爵を乗せて街道を急いだ時に、車輪を壊してしまっていたらしい。

 伯爵は幸い通りすがりの別の馬車に乗せてもらえたそうだが、馬車の方はようやく昨日修理業者が来たとの事である。



 そして翌朝。

 サリエルは屋敷の前を掃除していた。昨日まで寝ていたのにと止める者も居たが、本人は昨日まで寝ていたのだから大丈夫と言う。

 実際、サリエルは元気一杯だった。ただ、今日ここに立っているのにはもう一つ理由があった。


 サリエルは道の彼方を気にしていたが…来た。マティアス・マナドゥ先生の馬車だ。

 マナドゥ先生にはきちんと挨拶をしないといけない。恐らく…彼女の女主人は、彼女が眠っている間にさんざん先生に失礼な事を言ったはずなのだ。


 馬車が近づいて来るのを見ながら、サリエルはふと屋敷を見て…ぎょっとする。伯爵令嬢が二階の部屋を飛び出して来るのが見えたのだ。まさか…いや間違い無い、こっちに来るのだろう…恐らくは、マナドゥ先生に何らかの悪態をつく為に…



「ホーッホッホッホ!!あーらマナドゥ先生!驚かれたかしら?それとも残念?見ての通りサリエルはすっかりよくなりましたのよ!あとはダニエル先生に御願いするから結構ですわ!」


「マナドゥ先生…あの…私が倒れている間、大変御世話になったそうで…本当にありがとうございます…」


「残念ですわね本当に。もうサリエルの胸に聴診器を当てる事も出来なくてよ、ホーッホッホッホッホ!楽しみにしてらしたんでしょうねえ」

「お、お嬢様!そのような言い方はあまりに失礼ですわ!…申し訳ありませんマナドゥ先生、違うのです、本当はエレーヌ様もとても感謝されておりましてその…」


 マナドゥは。細身の眼鏡の向こうで、目を丸くして暫くきょとんとしていたが。


「いえ、お元気になられたのなら何よりです。また御縁がありましたらお呼び下さい」


 そう爽やかに笑って身を翻し、馬車に乗って去って行く。


「医者に御縁なんか無い方が良くってよ!あのダニエル先生でも治せるくらい元気なのが一番だわ!」


 エレーヌは憎々しげに口を歪め、そう言った。マナドゥはくすくすと笑いながら振り返った。


「本当にそうですね…私の出番なんか無い方がいいんです」

「貴方まさか名医にでもなったおつもりですの!さっさと行きなさい青二才!」

「お嬢様!失礼過ぎですお嬢様、ごめんなさいマナドゥ先生、あの、これは決してその…」


 そう言って目を白黒させて弁明するサリエルの肩を、いきなりエレーヌは抱き寄せた。そして、またきょとんとして見ているマナドゥに対して。


「シッ!!シッ!!」


 早くあっちへ行け、という風に手を振る。

 マナドゥはたまらず吹き出すと一度両手を挙げ、それから馬を急がせて去って行った。


「あ、あの…お嬢様?」


 エレーヌの腕の中で目を丸くしているサリエル。次の瞬間。


「何懐いてんのよ気持ち悪いわね!!」

「きゃあっ!!」


 エレーヌはいきなりサリエルの体を生け垣へと投げつける。


「朝食はまだですの!?皆私が優しくしてるからと言って弛み過ぎですわ!!」


 エレーヌは何故か手にしていた乗馬鞭を風車のように振り回しながら、屋敷へ戻って行く。



 伯爵屋敷の馬車が戦勝記念通りを行く。堂々とした四頭の馬を二名の御者が操る、六人乗りの豪華なキャビンを備えた立派な馬車だ。


「もう少しゆっくり走りなさい!危ないでしょう!気が利かないんだから!」


 キャビンの中からエレーヌが叫ぶ。御者は言われた通り、少し行き足を落とす。



 教会通りから続く坂道の入り口辺りで。リシャール・モンティエ大尉は今日も女生徒達に囲まれていた。この長身の生真面目な美男子いけめんは、すっかり女子校通いのある種の憂鬱(よっきゅうふまん)を抱えた生徒達の興味(リビドー)の対象となってしまっていた。


「大尉!昨夜は痴漢は出ませんでしたか?私達とても心配なのですわ」

「御願いします大尉、学院の中も警護して下さい、ランチやお茶も是非御一緒に」

「道端でしか御会い出来ないなんて寂しいですわ、大尉、何かおっしゃって」

「恋人はいらっしゃいますの?どんな方ですの?きっと素敵な方ですのね?」


 兵が何も言えないと思い、言いたい放題の女生徒達。モンティエはじっと耐えていた。そこに…その立派な四頭立ての馬車は止まった…窓が開く…


「ホーッホッホッホッホ!!今朝も女生徒達に大人気ですのね大尉!さぞやお気持ちようございましょうねえ!!」


 面白くて仕方が無いという顔をしたエレーヌが。羽扇を振り回しながら顔を出す。


「ご覧あそばせ!サリエルはこの通り、元気になりましてよ!!」


 エレーヌはサリエルの制服の首根っこを掴み、窓口に強引に引っ張り出す。


「リ、リシャールさんっ!…ご心配をお掛け致しました!」


 サリエルはそう口走ってしまった…モンティエを取り巻く女生徒達が色めき立つ。


「リシャールさん?」「大尉はリシャール様とおっしゃるのね?」

「リシャール様」「リシャール様!!」


「サリエル…!」


 余計な事を…そう思ったモンティエは、ついそう口走ってしまった。

 サリエルも自分の失敗に気付き、目を白黒させる。自分はたった今、モンティエが黙秘していた彼のファーストネームを、女生徒達にバラしてしまったのだ。


「ご、ごめんなさい!!大尉、あああ、どうしましょう」

「…もういい!早く行け!」


 大尉は目を逸らして呟く。


 エレーヌは。おかしくて仕方ないという表情で、サリエルを馬車の奥に突き飛ばして再び顔を出す。


「ホーッホッホッホッホ!!宜しいじゃございませんの、リシャール・モンティエ大尉!これからもどうか、聖ヴァランティーヌ学院の平和を守ってくださるかしら!?ホホホ…ホーッホッホッホ!!」


「お嬢様!どうかおやめ下さい!!」


 サリエルは必死に、馬車の窓から顔を繰り出そうとするが、エレーヌが身を乗り出しているので出られない。


「私、やっとの事で杖術の伝習所に入れていただけたのです、モンティエ大尉のおかげで入れたのです、お嬢様!どうか大尉にお詫びをさせて下さい、御願いします!!」


 しかし。必死に訴えるサリエルの頭を鷲づかみにしたまま。エレーヌはモンティエに向け、舌を出し、手を振る。バカにしたように。


「婦女子に囲まれて、楽しそうに!いい気なもんですわねぇぇー!ホーッホッホッホ!軍人がそんなに楽なご職業とは知りませんでしたわ!」



 馬車は去って行った。


「酷いですわ、エレーヌさん」「そうよ、大尉に失礼ですわ」


 残された、モンティエを取り巻く女生徒達が口々に言う。


「全く…」


 当のモンティエも、眉間をしかめそう呟いたが。


――サリエルが元気になった途端これか。手に負えんな…ふふ。


 その心中は、まんざら悪いものでもなかった。

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