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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない  作者: 堂道形人
側仕えのサリエル

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側仕えのサリエル 第十一話

 エレーヌは今度はゆっくり走る。教会通りにはぽつりぽつりと通行人が居た。


「はぁ…………はぁ…………」


 そして戦勝記念通りへと曲がった所だった。


「エレーヌさん?」


 近くの建物の入り口から、ちょうど今ここでの往診を終えたマナドゥが診察鞄を持って出て来る。


「マナドゥ先生…!」

「あまり顔色が優れませんが…大丈夫ですか?宜しければダニエル先生の所まで御送り致しますが」


 マナドゥは路肩に停めてある馬車を指差す。


「ダニエル先生は結構ですわ…あの…この後どちらへ向かわれるのですか?」

「鍛冶屋通りですよ。そこまで乗って行かれますか」

「…ありがとうございます」


 このおんぼろ二輪馬車、まだ買い換えてませんでしたの?

 その一言が出て来ない。

 いつもの力を失っているエレーヌは、素直に助手席に乗り込んだ。



「貴女まで体を壊したら、サルヴェールさんも心配しますよ」」


 マナドゥは馬車を走らせる。


「…私が代わりに倒れたら良かったのですわ」


 エレーヌは自分が代わりに寝ていたかったという意味で言ったのだが、マナドゥは違う意味に受け取った。


「そんな事を考えてはいけませんよ」

「…先生はどちらで…サリエルと知り合われましたの?」

「市の救急救命術講座で…私が講師で彼女が受講生でした。女主人の為に受講に来られたとおっしゃっていました…大変熱心に受講されていましたよ」


 エレーヌは記憶を探る。確かにいつか言ったような気もする。私の側仕えなら私に万一の事があった時の為に、救命術ぐらい習って来いと。思い出した。確かあれは自分がアイスクリームを落とした腹いせに言ったのだ。


「…私…少し嫉妬してましたの」


 エレーヌはその時の事を思い出していた。自分はアイスを落としてしまったのに、サリエルは落としていなかった。


「…」


 マナドゥは無言だった。エレーヌは別の事を思い出し、続ける。


「このままサリエルが起きなかったら…私…壊れてしまいますわ…」

「…自分を責めておられるなら…お門違いですよ」


 馬車は金融通りを通過して行く。エレーヌは暫くの間無言だった。

 そして鍛冶屋通りに入る頃になって、思い出したように言った。


「先生も私に、自分の胸に聞くようにおっしゃいましたわ。サリエルが過労になった理由を…」


「あの時は…すみません。本当の所は勿論解りませんよ。サルヴェールさんは何でも全力で取り組んでしまわれる方のようですし」


「心当たりはございますのよ。私、サリエルが居なくなった途端……嫌ですわ!居なくなっただなんて縁起でもない!」


 ずっと俯きがちだったエレーヌが、突然顔を上げてマナドゥを見る。それを横目で見ていたマナドゥは、慌てて顔を逸らす…少々吹き出してしまったのだ。


「サリエルが側に居ないと、私、私で居られなくなりそうで…聞いて下さらない?先生。私は今日、学校で大きな悲鳴を上げてしまいましたのよ」


 エレーヌはマナドゥの様子に気づかず、また俯く。


「そんな事今まで一度だってありませんでしたの」

「それは…サルヴェールさんも心配でしょうね…」


「学校でも失敗ばかりですのよ!いつもはもっと上手に出来るのに」


 エレーヌは学校に侵入しようとしては大尉達に阻まれた事を思い出す。


「ところで…大丈夫なのですか?エレーヌさん」

「大丈夫ではありませんわ。このままでは私…」

「いえ…もう屋敷についてしまったのですが」


 エレーヌは顔を上げた。本当だ。鍛冶屋通りどころか最後まで乗せてもらってしまった。

 マナドゥの方は我慢の限界だった。一応顔は背けているが、くすくすと笑うのを止められなくなってしまった。


「いつものお嬢様に戻らなくて宜しいんですか?ふふ、ふ…」

「まあ…!意地悪ですわ!私別に仮面をつけたり外したりしてませんわよ!私はいつも伯爵令嬢、エレーヌ・エリーゼ…」


 少し怒って赤くなったエレーヌは、別の感情で頬を赤らめた。マナドゥが困ったように微笑んで自分を見ているのに気づいたのだ。


「乗せて下さった事には感謝致しますわ!早くお行きなさい!鍛冶屋通りの患者さんがお待ちなのでしょう!私のせいで遅れたらどうして下さいますの!!」


 エレーヌはそう、一応悪態風には言っているものの、頬は赤いしマナドゥの顔を見る事も出来ないし、いつもの百分の一も迫力が無い。


「申し訳ありません、お嬢様。失礼させていただきます」


 マナドゥはまだくすくすと笑っていたが、すぐに馬車を操り、伯爵屋敷のロータリーを回り、去って行った。




 エレーヌは二歩、三歩と屋敷の方へと歩いていたが。突然そこで崩れ落ち、四つん這いのまま、荒い呼吸でもがき出す…まるで、たった今まで全力疾走していたかのように。


「違う……違う……こんなの…私ではありませんわ……」


 呻き声を上げ、額を地面に擦り付ける伯爵令嬢。その姿が、溢れ出る負のオーラに揺れる。



 ポーラは今日もサリエルの見守り係をしていた。


 サリエルさんの事はとても心配だけど、自分はずっとこんな事をしていていいのだろうか。サリエルの部屋で椅子に座って本を読んでいるだけでいいのだ。掃除も洗濯もしなくていい。本当にこれでいいのか。ポーラは少し戸惑っていた。


 その時。ポーラの心の中で何かが騒いだ。


 何か…得体の知れない何かが…近づいて来ているような気がする。

 どこから…?壁の向こう…音も聞こえない、声もしない、だけど…


 ポーラは怯え、椅子から立ち上がる。壁の向こうで何かが移動していて、だんだん近づいて来る…何故かそれが、はっきりと解る。

 それはもう扉の前に居る。ポーラは恐怖のあまり、ぺたんと尻餅をついた。



 扉が開いた。



「ひっ…!」


 ポーラは思わず短い悲鳴を上げてしまった。禍々(まがまが)しい負のオーラを纏い、虚空を見つめる輪郭もおぼろげな怪人物。だけどそれは彼女の女主人、伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートだった。


「今日はもういいわよ…私が看るから…」



「あ、あの…でも…」


 伯爵令嬢には逆らうな。そうヘルダに固く言いつけられているポーラだったが。十歳にしてなかなかに賢い彼女は、エレーヌの様子がただならぬ事に気付いていた。


「私、サリエルさんのお世話を…」


 さすがに、お嬢様の様子が普通ではないので交代出来ません、とは言えないポーラは、恐る恐るそう言った。


「ヘルダかディミトリの所に行って…別の仕事を貰ってらっしゃい…」


 エレーヌの声は口から出て耳に入るのではなく、頭の中に直接響いて来る。


「は、はいっ…」


 これ以上の抵抗は不可能だった。ポーラはお辞儀をして、部屋を出て行った。



 エレーヌは部屋に一つだけある肘掛けなしの椅子ではなく、壁にもたれ…床に座り、天井を仰ぐ。

 その状態で。エレーヌの機能は停止した。

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