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伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない  作者: 堂道形人
側仕えのサリエル

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側仕えのサリエル 第十話

 十分ばかり奥の森の中を走り回り、蜘蛛の巣やら甲虫やらを貼り付かせた伯爵令嬢だが、傍目には一応落ち着いているように見えた。


 エレーヌは人目を避けつつ、校舎に、そして洗面所に入り、蜘蛛の巣やら何やらを払い、髪型を直す。それからもう一度庭に出て三回深呼吸をする。

 昼休みはあと五分くらいか。

 ジョゼと居た場所に、重い足取りで戻ろうとしたエレーヌに、渡り廊下から誰かが声を掛けた。クラス担任のブノワ先生である。


「ストーンハート君、ボンドン先生が探していたようだが」


 エレーヌの髪が一瞬逆立つ。


「どうされたのでしょう…今教員室にいらっしゃるかしら?」


 何かを棒読みにしたかのように、エレーヌは言った。


「うーん、もうすぐ次の授業が始まるんじゃないのか、放課後の方がいいだろう」


 次の授業に備えて移動中だったブノワも、それだけ言って立ち去って行く。ブノワの次の授業は四年生のクラスだ。

 不意に、エレーヌの瞳が微かに光る。伯爵令嬢は辺りを見回すと、無意味に忍び足気味にまた校舎内へと駆けて行く。



 再び理科学部教員室の前に来たエレーヌは、そっとその扉を開く。昼休み終了まであと二分くらいか。


「…」


 エレーヌはコンパクトミラーを出し、室内を確認する…人影は…無い。そうだ、この時間なら教師は居ない、皆授業に行っているはず。


 次に廊下を確認する伯爵令嬢。ジョゼは居ないようだ。エレーヌは。素早く理科学部教員室に忍び込む。


 用心の為、机より体を低く保ち、エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートは前進する。ボンドン先生の机はもう少し先だ…あった。

 机の上には、綺麗に並べ変えられたノートの山…四年生の最後の物理の宿題だ。


 エレーヌはノートの束を手に取り、慌しくめくる…めくる…めくる。

 無い。エレーヌの『五年生の』ノートが無い。別にしてあるというのか。


 仕方がない…ノートが重複している事には、何か別の言い訳をすればいいだろう。どうせ言い訳をするのはサリエルであってエレーヌではない。

 とにかく四年生の物理のノートをここに差し込めば、それで終わりだ。



 エレーヌは。先ほど折角整えた髪を掻きむしりながら、床に倒れ、うずくまった。


「どこ……ノートは……どこ……」


 エレーヌは四年生の物理のノートを、とっくにどこかに置き忘れていたのである。



―――ごーん。ごーん。ごーん。ごーん。



 時間切れの鐘が鳴る。恐らく、エレーヌが思っていたのより少し早く。



―――ごーん。ごーん。ごーん。ごーん……



「無理ですわ……もう……無理ですわ私……」


 エレーヌは涙声で呟く。



 伯爵令嬢が重い足取りで教室に戻った頃には、世界史の授業はもう始まって五分が過ぎていた。


「遅いぞ!…君、どうした?…顔色が悪いぞ、真っ青じゃないか」


 世界史の担当教員のベルリンは、背後の黒板の横の当番表を見る。


「保険係のサルヴェール君というのは誰かね」


 その生徒は勿論休みである。そこで立ち上がったのは…やはりジョゼだった。


「先生!サルヴェールさんはお休みなので…私が保健室にお連れしますわ」


 エレーヌは色々な言葉をどうにか飲み込み、辛うじて、呟くように言った。


「ありがとうございますジョゼさん、でも私もう早退させていただきますので結構ですわ…お邪魔致しました、どうか皆様授業をお続け下さいませ」



 ふらり、ふらりと校門を出たエレーヌは、人通りの無い坂道をゆっくり歩いて行く。この時間にも四人の陸軍兵士が、坂道の途中にぽつん、ぽつんと配置されている…モンティエの姿はエレーヌからは見えない。


 エレーヌは少しずつ早足になって行く。

 まだ九月も始まったばかりだ。午後一時の日向は、走るのには暑過ぎる。

 それでもエレーヌは早足から駆け足になり…全力疾走になる。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 半ば泣き出しそうな顔で、息を切らして駆け抜けるエレーヌ。

 坂を下りきり、教会通りへと…


「…危ない!」

「えっ…!」


 エレーヌは、ちょうど角を曲がって来ようとしていたモンティエ大尉に真っ直ぐに突っ込んで行っていた。モンティエはすぐに大きく避けたのだが、エレーヌもまた同じ方向に大きく避けてしまった。


「きゃああっ!!」


 エレーヌは悲鳴を上げ…倒れなかった。咄嗟にモンティエが後ろに跳ねて、激突の衝撃を吸収したのだ。

 エレーヌは大きなクッションに当たったかのように無傷で立ち止まる事が出来たが、モンティエは後に一回転し帽子を落とす事になった。


 事も無げに立ち上がったモンティエは、黙って帽子を拾い上げる。


「ご…ごめんなさい!」


 あらごめんあそばせ、そんな所にぼさっと突っ立ってるとは思いませんでしたわ、その台詞を咄嗟に言えなかったエレーヌは、ぺこりと頭を下げてしまう。

 そしてますます青ざめる。侵食されている。自分は何かに侵食されている。


「…急いでいたのか」


「サリエルが…サリエルが居ないから…」


「まだ良くないか。貴女も御心労とは思うが」

「違うんですの!」


 顔を上げたエレーヌとモンティエの視線が合う。エレーヌの目元には涙が滲んでいる。


「私が悪いの!私がサリエルを過労にしたんですわ!私に何が起きても自業自得ですの!だけどサリエルは…何も悪くないのに…!」


 そこまで言って、慌ててエレーヌは視線を逸らす。しまった。気が動転して何故かここで父オーギュスト用の台詞が出てしまった。


「ごめんなさい…貴方が存じ上げる事ではありませんわね…」

「そんな事は無い…貴女がそれだけ心配しているのだから。サリエル嬢もさぞや貴女を心配しているのだろう…良い主従なのだな」


 エレーヌは視線を上げた。モンティエは今までに無い、優しい笑顔でエレーヌを見ていたが、エレーヌの視線を受けると、照れたように顔を背けた。


 伯爵令嬢は、自らの心臓の辺りを軽く抑えた。


「わ、私、もう参りませんと、その、ありがとうございます、大尉」


 あやふやな事を言いながら、エレーヌはその場を離れる。


「また走ると危ないぞ」


 モンティエは背を向けたまま言った。



「違う……違いますわ……こんなの私ではありませんわ……」


 エレーヌはうわ言のように、そう呻く。

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